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「さあ、お嬢様、冷えますのでお早く中へ」
馬車はもう見えなくなってしまった。
クロードに笑顔で急かされていそいそと邸へ戻る。
コートを預かってくれたクロードは一礼をして去っていった。
忙しい彼をこんな早朝に縛り付けてしまったことに罪悪感を抱きながらわたしは自室に戻るため階段を登り、そして、下へ降りた。
自室へ戻るつもりなど毛頭なかった。
クロードの姿はない。
手に持っている分厚いマフラーを体に巻き付けて慎重に扉を開けた。
どきどきと高鳴る心臓、リヒテンや邸の使用人たち、父公爵への罪悪感で焦げ付く良心。
父公爵の言いつけを破るのはこれが初めてのことだ。
それでも、わたしは決めていた。
リヒテンが帰ったら、そうすると。絶対に。
音を立てないように外に抜け出すと寒気にぶわりと包まれる。
刺すような寒さに肩を抱いてそれでも戻る気は無い。
馬には乗れる。乗れるはずだ。
幼い頃より貴族子女の嗜みとして練習してきた。
冬地用のあの大きな馬には乗ったことがないが、なんとか、なるだろう。……多分。
「お嬢様、一体どちらへ?」
1歩外に踏み出した瞬間、後ろから聞こえた声に大げさに肩がはねた。
ぎぎぎ、と音がなりそうな程ぎこちなく振り向くと、先程別れたはずのクロードが笑顔を浮かべている。
温厚なはずの彼の眼孔が異様に鋭い気がして冷や汗が流れた。
「え、えっと……領地の視察に」
「かしこまりました、ではスケジュールを組みますので自室でおまちください」
え、と声が漏れた。
クロードはなにか?と笑顔で首を傾げる。
「わたくしがこの寒空の中公爵様よりお預かりしております大切なお嬢様を1人で放り出すとでも?」
「いいえ……あの、貴方を煩わせる気は無いの。
………そう、領地ではなくて、もっと……その、お散歩に!」
「それで、お嬢様どちらまでお出かけですか。
例えば………ハーディスト領、とか?」
その深められた笑みにギクリと肩が揺れた。
クロードは初めからわたしのしどろもどろな言い訳なんて気にも止めていなかった様子である。
「……わかっていたのね、意地が悪いわ」
「お戻りになられてから何やらずっと思い詰めておられたご様子でしたので」
クロードは優しい笑みを携えながらゆっくりと歩を進め、先程預けたはずのコートをわたしの肩にかけた。
「しかし、見逃すことは出来ません。
旦那様がいったいなぜ、貴方々をハーディスト領に立ち入らせたくないか、お嬢様はご存知の筈です」
クロードはそう言って少しだけ目を伏せた。
深い皺の刻まれた穏和な顔は、どこか感慨深い表情をしている。
きっと、あの時お父様のそばにいたであろう彼はわたしが知っていること以上の事実を経験している。
「旦那様のお気持ちもどうかお分かりください」
初老の紳士は極めて誠実な瞳で頭をたれた。
罪悪感がむくむくと育ち引いてしまいそうだ。
今までのわたしなら確実に、そうしていたことだろう。
しかし、わたしはもう流されたくない。
「お父様のお気持ちは分かります。
けれど、わたしはもう守られているだけの人生は嫌なの。
お父様が恐れているのはわたしとリヒテンが共に消えてしまうこと、そしてなにより、リヒテンがハーディスト領に立ち入って全てを思い出してしまうことでしょう?
リヒテンはもうここにはいない、その心配もないはず」
「……そこまでご存知で…」
「分かります、家族、ですもの」
眉を下げて微笑んだわたしにクロードは躊躇いがちに微笑んだ。
そうですか、と穏やかな顔でつぶやく彼に先程までの鋭さはもうない。
「分かっていて行きたいのです。
行って全てを知りたいのです。
彼なら何もかも知っているはずですもの。
全てを知ってこれからどうすべきか、わたしはどうあるべきか自分で考えます。
貴方はお父様からこの地とわたしを預かっている身、お父様に報告しようとも構いません」
それにエル様がお怪我をしているかもしれない、それも、恐らくまたもやわたしのせいで。
彼の別れ際のセリフも嫌に気になってしまうし、とにかく……気になるのだ。
これはクロードには言わなかったけれど。
「お嬢様のお考えは分かりました。
………変わられましたね」
ニコリと微笑んだ彼にそうかしら?と返すとひとつ頷かれた。
今までのわたしは貴族令嬢として、人として恥ずかしいほどに無知で意思がなかった。
目的も、関心も。
あるいは、貴族の娘というのはそれで正しかったのかもしれないけれど。
それでもわたしはもう、そんな自分ではいられないのだ。
「ですが、残念ながら許可出来ません。
先程申しました通り、この寒空の中に大切なお嬢様を1人で放り出せはしません。
わたしはこのことに関して当然旦那様に報告致しますし、そこまでの協力は致しません」
クロードは穏やかな笑を引っ込めて居住まいを正した。
彼の主張はただしい。我儘をいっているのはどう考えても私の方だ。
うぐっと喉奥からくぐもった声が漏れそうになった時、玄関の扉が勢いよく開く。
クロードは視線を向けることなくため息をついた。
「では、お嬢様は俺がお連れしましょう。
クロードさん、それで文句ないですね」
いつも調理服に身を包んでいる彼の私服は思いのほかシンプルなものだった。
やけに装飾のないそれらは着古してあるが、上質なものだと分かる。
見慣れない焦げ茶色のコートに身を包んだバンスは豪快に笑った。
「文句がないわけないでしょう……」
「では、お説教は帰ってから聞きましょうかねえ?
お嬢様、馬には乗れますか?」
「ええ、昔はリヒテンと遠駆けにも出かけていたわ。
冬地の馬には乗ったことがないけれど…」
「上等です」
彼はやんわりとわたしの両肩を掴んで後ろから押すように歩を進めた。
無作法なそれが何故だかテンポの良いワルツのように思えてなんだか笑えてしまう。
クロードは再びため息をついた。
「……まあ、お坊ちゃまも、そろそろ呪いから解放されるべきですな」
「朝食は、マリーが用意する!あいつ、張り切ってやがるから注意してやってくれ」
………また皿を割かねん…という呟きはわたしの耳にしか届かないような小さなものだった。
わたしはその光景を容易く想像しもう一度吹き出してしまった。
「バンス、お嬢様に擦り傷ひとつつくるのは許しませんよ」
「こりゃまた手厳しいな!」
バンスは肯定も否定もせずに笑ってひらひらと片手を振った。
いつの間にかわたしは彼に引っ張られるようにして歩いていた。
この方向は間違いなく厩舎のほうである。
強引な彼はわたしを一切振り返らなかった。
それでも彼のそれは一流のエスコートのような気遣いさえ感じられる。どうしてだろう。
手を握る太い腕の羽を掴むかのような優しさからだろうか、それとも歩調を無理なく絶妙に合わせてくれているからだろうか。
「アルトステラお嬢様、悪いがある程度の自衛はして欲しい。
俺は恐らくあまり機敏には動けないだろうからな」
そのまま彼はいくらかトーンを落として口を開く。
「ええ、連れていってくれるだけで充分だわ」
そりゃあ良かった、と彼が笑う気配がした。
それからバンスはささやかなイゾルテ邸の厩舎で馬を選び、わたしを乗せ、馬を駆った。
機敏には動けないといっていた彼の手綱さばきは見事なものだった。
まるで馬と一心同体のように軽やかに雪道を滑るように走る。
わたしの様子を気遣いながらそれでもスピードは落とさない。
慣れているのね!と半ば叫ぶように言うと彼はそう見えますか?そりゃあ良かった!と同じように声を荒らげた。
ハーディスト領には一刻と経たずに到着した。
この雪道でそれということは暖かい時期なら半刻程でついてしまうのではないだろうか。
地理では理解していたがこんなに近いのかと驚愕した。
……まあ、バンスが特別早いという可能性も大いにあるのだけれど。
とにかくなにしろハーディスト領にきたのは生まれて初めてのことだから。
領地に入ってからハーディスト領主邸までさらに半刻。
小高い丘にひっそりと慎ましく、半ば森に隠されるように邸は建っていた。




