2
「エル、入るぞ」
エルの自室の飾り気のない扉の前。
控えめなノックの後にそう声をかけてはみたが、やはり、返事はない。
ため息をつきながら扉を開くと昨夜と何も変わらないエルがベッドに横たわっているだけだ。
生活感のまるでない部屋に足を踏み入れ、眠るように目を閉じるエルの首筋に指を当てる。
ここ3日間、もうほとんど日課になったそれは彼の生存を実感出来る唯一の行為で。
そうしなければエルが生きてることを感じられない、そのくらいに今の彼には反応がない。
青白い肌、色の無い唇、艶のなくなってしまった長い神秘的な黒髪。
幼い頃から知る宝石のようなアメジストの瞳は瞼に固く閉ざされ、ぴくりとも動かない。
体は日に日に骨ばっていく気がしてならないし、朝目覚めたら天に召されてしまっているのではないかと恐ろしくて、うちの王様が帰還してからというもの、俺はまともに眠ることすら出来ないのだ。
あの夜、ハーディスト唯一の医者はいった。
この傷と毒でこの寒空の中1日馬車で移動してよく生きていたものだと。
あんな深い雪の中夜中にもかかわらず文句をいいながらも着いてきた老医に俺は何度も頭を下げた。
そして老医はあの黒づくめの御者と同じことを宣う。
あとは彼の体力次第だと、他に出来ることなどない、と。
それは、あの御者の処置がいかに的確であったかを案に示す。
なんで、こんなことになったんだと老医は俺を責めたが、俺はそれに答えることが出来なかった。
俺だって何が何だかきちんと把握していないのだ。
呆然と立ち尽くすのみの俺を呆れたように暫く見つめた老医は、様子を見るしかないとそう言って、肩を叩いて翌朝、街に戻っていった。
そうして3日、エルはまだ目を覚まさない。
熱は下がった。
患部の燃えるような熱さも、おぞましい腫れも、引いた。
傷だけは未だ痛々しく存在を誇張し続けているが、それでも。
息もある、たしかに彼は生きている。
それなのに、目を覚まさない。
意外にも陛下は1度も連絡を寄越さない。
あの御者がエルのあの言葉に従っているのか、はたまたほかの理由があるのか。
あんなに頻繁にやってきていたはずのトルネオも姿を表さない。
奴は陛下の駒だ、多分あの御者もしかり。
恐らくただしくはまことしやかに囁かれる影の騎士団の一員ではないかと、俺はそう思っている。
そして、きっとそれは大きくは外れていないことだろう。
そんな陛下も、トルネオのやつも、随分薄情だと怒りを燃やすのは俺の勝手だろうか。
「エル……頼むよ……」
お願いだから、目を開けてくれ。
エルは、俺にとっての王で、唯一の主人で俺に生きる道を与えてくれたたったひとつの存在だ。
彼がいなければ俺は今頃どうなっていただろう。
きっと実家には勘当され、居場所はなく、やることも見つからず、ひどい生活をしていたに違いない。
野垂れ死んでいたって不思議はない。
そしてきっと、それを不幸だとも思えはしなかった。
「……正直いうと、俺お前の作った国で生きたかったよ」
そうして俺を騎士にしてくれた、お前に、お前のためにこの命を捧げたかった。
俺と出会った頃すでに王への道になど興味のなかったお前を知っていたし、こんなこと言うとお前は怒るに決まっているけどな。
けど、お前を曲がりなりにも主人にした以上、先に死なれるのは困る。
俺に騎士道を選ばせたのはお前だ。
「だから、死ぬんじゃねえぞ」
情けなく震えた呟きは虚しく無音の部屋に響いた。
エルがもし、このまま死んだとして、俺はアルトステラ嬢を許せるだろうか。
分かっている、彼女はなにも、悪くない。
何が起きたのか俺は知らない。
知らないけど、十中八九、というかもう絶対、エルは彼女を庇ってこうなったはずだ。
そうに決まっている。
エルがこんな深手を負うはずがないと俺は思っているし、深手を負う理由を彼女以外に想像出来ない。
何があったにしろ、彼女が理由でエルが命を落としたら俺は多分アルトステラ嬢を許せない。
逆恨みだとかそんなことは百も承知であるが、それでも。
「……アルトステラ嬢」
この馬鹿でおかしい俺の主人の関心は良くも悪くも彼女にしかない。
それもずっと昔から、彼の心をつなぎとめられているのは彼女だけだ。
それは彼の生きる指針となっていた程に。
もしかしたら、彼女にならなにか反応を示すだろうか、この馬鹿の愛してやまない、執着とも呼べるそれにならば。
……あと、2日だけ。
あと2日だけ待ってみよう。
もし、それでもやはり目を覚まさなかったら、あるいは状況が悪化でもすればすぐに。
「アルトステラ嬢に、どうあってもきてもらう」
つい口から出た俺の想定外に低い声にエルは当然のごとく反応を見せなかった。
死んだように眠る彼を見れば見るほど焦燥が募る。
たかだか、地方貴族の、継ぐ爵位さえない三男の俺でさえハーディスト領の曰くを知っている。
それは筆頭貴族のルーファス公爵家の怒りに触れない為だ。
ハーディスト領とルーファス公爵家の過去。
ここでかつて、何があって、何故呪われていると言われているのか、何故貴族のあいだでこの話がタブーとなっているのか。
だからこそ、エルがここを欲した時俺は驚愕したわけである。
彼があれ程までに自分の気持ちに無自覚であったと知らなかったからな。
ここにいる以上、アルトステラ嬢と将来結ばれる可能性はない。
アルトステラ嬢は決してこの地に足を踏み入れない、踏み入れるわけがない、ルーファス公爵はそれを許さない。
そして彼女は、ひどく従順だ。
だからこそ、ルーファス公爵はエルが領地を賜ることを許したのだろう。
何しろそれは公爵にとってとても都合がいいからな。
気持ちを自覚したエルがどう思ったのか、それは知らないけど。
正直、彼女がここに来てくれる可能性なんて無いに等しいし、彼女が来てくれたところで何がどうなる訳でもない。
そんなことは分かっている。
分かっているけど、そんなものにすら縋りたくなるくらい、怖い。
なにか、ほんの少しでも希望があるのなら、俺はーーーーー。




