8
あの侯爵家令嬢襲撃の日より邸は静けさを取り戻していた。
リヒテンもでていったきり戻っていないし、かれこれもう1ヶ月は顔を見ていない。
彼がこの邸を1ヶ月留守にするなど新記録である。
馬を休み無く駆って3日かかる道中、何かあったのかと心配になったところでリヒテンは帰ってきた。
「アルトステラお嬢様!大変です!アルテンリッヒ様がお戻りに!」
調理室でバターケーキ作りを教えてもらっていた時にマリーが飛び込んできて勢いのあまり小麦粉をぶちまけた。
「おい!コラ、マリー!邸で走るなと何回言わせる気だ!」
「う、ううぅーば、バンスさんくる、苦しい、です」
「あん?お前の仕事は俺の仕事を増やすことか?!あ?」
マリーのお仕着せの胸ぐらを掴んでぶんぶん振るバンスは少々、ガラが悪い。
料理人にしてはやりすぎなほど鍛えられた体と服の隙間から見える古傷が痛々しくて、彼は以前なにかしていたの?とクロードに聞いたことがあったが、バンスは趣味で体を痛めつけています。と返されて以来気にしないことにしている。
「あなたたち!何をしているのですか!あぁ、お嬢様こんなところに。
急いで玄関ホールにご移動ください。調理室にいるのがアルテンリッヒお坊っちゃまに見つかったらまた領主様譲りの長ーいお説教ですわよ。さあ、お早く。
あなたたちはここを綺麗にしたあとで話があります!」
トレイシーはキリッとした涼し気な眼を思い切り釣り上げて早口でまくし立てながらわたしを調理室から追いやった。
ちらりと横目で見えたバンスは世にも恐ろしい形相でマリーを睨んでいてかわいそうなマリーはぶるぶると震えていた。
二人とも、ごめんなさい…
────────────
小走りで玄関ホールに滑り込んだところで淑女らしくしとしとと歩きながら息を整えていると、リヒテンはコートをクロードに預け手袋を外しているところだった。
「リヒテン!おかえりなさい」
わたしよりも濃い青の瞳はわたしを捉えると柔らかく微笑んだけれど、その顔にはいくらか疲れが見て取れる。
やはり、なにかあったのだろうか。
「姉さん、ただいま帰りました。留守の間なにも問題はありませんでしたか?」
「まあ!お父様のようなことを言うのね。
心配ないわ。この通りよ」
わたしの手を取り従順な騎士のように口付けを落とすリヒテンをからかってドレスの裾を持ち上げて淑女の礼をすると、彼は安堵のため息を漏らした。
まったくリヒテンは心配しすぎなのだ。
この1ヶ月出会ったことといえばトルネオについて庭の手入れをしていた際に木の枝で二の腕に切り傷ができたことと(トルネオは真っ青になって倒れてしまったので、その後のフォローが大変だった)
マリーに教えて貰ってそこまでゴテゴテしていない普段着用のドレスなら自分で着れるようになったこと、あとは洗濯と皿洗いでようやくトレイシーから合格点を貰えたことくらいである。
…こんなこと絶対にリヒテンにも父公爵にも話せないけれど。
「姉さん、髪になにかついていますよ。……これは、粉?」
「お、おほほ、おしろいかしら」
「姉さん、お化粧なんてしていないですよね」
「れ、練習をしていましたの」
確実に先程の騒動でついた小麦粉である。
お母様ゆずりらしい白銀の髪を手でばしばし払って訝しげな顔をしながらもリヒテンはふうん、そうですかと流してくれた。
ほぅっと心の中で息をついて調理室に出入りしていることがバレたらまたお説教を聞くはめになること間違いなしである。
現在14歳のリヒテンは14 歳のくせに妙に迫力がある。
それは彼の整った綺麗な顔立ちのせいかもしれないし、濃いブルーの涼し気な目元のせいかもしれないけれど、だいたいはおそらく父公爵の教育の賜物である。
我が弟ながら正直、末恐ろしい。