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重そうな音を立てて、しかし軽々とエル様が扉を開いた。
淡い光に一瞬目がくらむ。
およそ舞踏会など開催できるわけもないこじんまりとした部屋に3人がけの丸いテーブルセットがされていた。
その他には何も無い。ブラウンのカーテンと同じ色のカーペットが引いてあるだけだ。
一目で高価だと分かるテーブルセットの一席に1人の女性が腰を下ろしている。
深紅のビロード生地がふんだんに使われたボリュームのあるドレスに長い金髪が流れている。
いやに見覚えのあるその色とその柔らかそうなそれはふわりと揺れた。
彼女は拍子抜けするくらいに平然としていて優雅にお茶を1口飲んだ。
「待っていました」
「フィルメリア様」
フィルメリア様はわたしたちを視界に収めると薄茶色の瞳を細めた。
柔和そうな優しげな慈しみのある顔立ちはヴィクトレイク様によく似ている。
そして、人懐っこそうな笑みもまた。
記憶にあるフィルメリア様より随分と窶れられたかもしれない、それでもやはり、彼女は美しかった。
エル様が腰をおって最低限の礼を示した。
無表情の彼に習い、わたしも腰を曲げてスカートのはしを摘んだ。
しかしそれはおよそ、現国王の母にする挨拶ではない。
「お久しぶりですね」
「ええ、そうね。エルレイン。元気みたいで」
彼女はもうこちらを見ていなかった。
ゆるく微笑んだまま、カップの中に注ぎ込まれる視線は上がらない。
「何をしているの?早くおかけなさいな」
フィルメリア様は目を閉じて顔を傾げた。
目元と首筋に細かいシワを見つけて、美しいこの方にも時は変わりなく訪れているのだと気付く。
「フィルメリア様、我々がここにいるということは……」
「ええ、分かっていてよ、エルレイン。
わたくしはもう、あの子に見つかっているのね」
一度区切られたセリフの合間にエル様が沈黙で答えた。
わたしは二人の様子をただ、傍観者然として見ていた。
血が繋がっていないとはいえ、これは王族の……家族の会話だ。
「だからね、最後にあなた達と話がしたかったの。いいでしょう?ほら昔はよくお茶会をしたじゃない。」
無邪気に笑う彼女に警戒しながらエル様の言葉を待った。
彼は何も言わなかった。
彼も何かを待っているようだった。
ややあり、少しだけです、と言って席に向かう。
わたしは何も言わずにそれに続き、エル様の隣へと歩く。
「絶対になにも口にするな」
「……わかっています」
着席の直前でエル様はわたしの耳元でそういった。
わたしは頷き、コートも脱がないままに着席する。
毒を仕込むのは彼女の常套手段であったらしい。
わたしはとても間接的にそれをこの身に受けたわけだが、エル様はそうとも限らないのだろう。
「あら、あなた達好きだったでしょう?」
楽しそうに笑うフィルメリア様に戦慄する。
それは、暗に、毒が、ということだろうか。
もし、毒が入っているのならフィルメリア様も危ないのではないかと思ったが、エル様が気にしていないところを見ると、別に自害されても構わないのだろう。
そして、おそらくフィルメリア様もそれを、分かっている。
「変わりませんね」
「そういう、貴方は変わったわね」
アルトステラちゃんのおかげなの?ふうん、良かったわね。
感情のこもらない声で淡々と告げられたそれはちっともそう思っていなさそうだ。
一瞬殺意のこもったような憎しみに淀んだ瞳がしっかりとわたしに向いて知らず、息を飲んだ。
今までは知りようがなかったし、気が付かなかった。
けれど、本当に彼女がわたしを憎んでいて殺そうとさえしていたのだと妙に実感させられた。
本当にそう思える眼差しだった。
「まあいいわ。少しだけ、と言っていたものね。楽しくお話しましょう?」
「……お好きに」
エル様はひたすら無表情だった。
アメジストの瞳が監視するようにフィルメリア様に注がれる。
フィルメリア様は怖いわと言って怯える顔を作ったが、エル様の変わらない表情を見てすぐにやめた。
「今日は、望みを叶えるために貴方達を呼んだのよ。
エヴァリス家の者はすべて王都にいます。使用人一人残らず」
「俺と彼女を殺すためですか」
「……そうね……殺したいわ。殺したいほど憎いわ。
エルレイン、あなたもあなたの母マーガレットも……アルトステラちゃんも、嫌いよ。
あなた達が幸せになるだなんてとても許せない」
フィルメリア様は激情に一瞬顔を歪めてそれからやはり人懐っこい柔らかい笑みでそう言った。
「どうして……そこまで」
それは意識せずにいつの間にかわたしの口から漏れていた。
本当に心からの疑問だった。
慌てて口を抑えたがもう既に意味は無い。
「どうして?どうしてですって?
そうね、あなたのような守られるだけの与えられるだけの生粋のお姫様には分からないのでしょうね。
あなたは最初から全てを持っているのだから…!」
どうにか感情を押さえ込もうと必死な様子のフィルメリア様の両手がテーブルの上でカタカタと震えている。
血の気が引く。
なにか、知らず彼女を傷つけていたのかもしれない、こうなるまでなにか……なにが彼女をここまで追い詰めたのだろうか。
「大丈夫、貴方は悪くない」
ちらりと視線だけをこちらに向けてエル様がそう言った。
口調はとても柔らかくてそれはすとんと、落ちてきた。
彼はやはり、無表情にフィルメリア様を見つめたままそれ以上、口を開かない。
「わたくしは元々セオドール辺境伯の愛人の子だった。
地位も権力もない、お金もないしその日暮らすのが精一杯。
ある日たまたま村を通ったセオドール辺境伯に引き取られたわ。この外見を見初められたの。
母は喜んでわたくしを差し出した。大金と引き換えにね。
あとで知ったのだけど、その当時辺境伯の親族にいい歳の娘はいなかったから、それでも、王家と繋がりが欲しかったのね。
それで次期国王の妃になるべくわたくしはフィルメリアとなったの」
……知らなかった。
フィルメリア様が庶子だったなんて。
確かにフィルメリア様の見た目は素晴らしい。
白い肌に金髪の柔らかそうな髪、薄茶色の瞳は少し目尻が下がっていて、このお年になっても尚、少女のような雰囲気を纏っている。
彼女の気品溢れるその顔立ちと立ち振る舞いは生粋の貴族のようである。
……だからといって、いきなり辺境伯に引き取られて王妃教育に耐えうるものではない。
エル様は微動だにしなかったから、恐らく知っていたのだろう。
わたしは少しだけフィルメリア様の気持ちがわかる気がして危うく同情してしまいそうだった。
「もちろん、わたくしが社交界に馴染むのは容易でなかったわ。辛い思い出しかないもの。
そんな中であの方は蔑むわけでもなく欲に濡れた瞳を向けるわけでもなく、優しくしてくださった。
冷静に誠実な青い瞳でわたくしを見つめて。
お話をしたのはその時だけ。たった一言。
けれどわたくしはあの方にとても、憧れたの。
わたくしは王妃候補だったのだから叶うわけがなかった。わたくしの存在意義はそこにしなかった。
王妃になるために生きてきたし生かされてきたわ。
だからあの方のことは大切な思い出にしようと思ったわ。
………そう思って諦めていたのに、他国の王女なんかにその座さえも奪われたわ。
あんなにっ!辛い思いをしてきたのに!」
フィルメリア様は感情をどうにか抑えようとしてか、ふーっと長く息をついた。
怒りに燃える瞳が一度わたしを移して大きく歪む。
あまりの迫力にわたしは少し仰け反った。
それからその怒りの眼差しはエル様に釘付けになり、そんな目を向けられる彼は依然として無表情だった。
感情が欠落したようなそれは、エルレイン・ハーディストになってから見ることのなかったもので、酷く冷たい。
「………でもね、結局王子も姫も産まれなかったの8年間、それで再びわたくしが辺境伯によって推されたわ………側妃としてね。
あの女にだけは負けたくなかった、絶対に。わたくしから地位と存在理由を奪った、身分がいいだけの女。
結局先に王子を産んだのはわたくしよ。
わたくしの勝ち、それでいいじゃない?
けれど5年後にあなたが産まれた。
王太子を産んだのはわたくしだわ、それなのに、どうしてあなたがちやほやされてあの女が国母になるの?
どうしてわたくしとヴィクターは隠されなければいけないの?ネイトフィール王家に一夫多妻制の慣習がないから?
馬鹿じゃないの?
……あなたなんて産まれてこなければよかったのよ
」
「フィルメリア様っ」
ゆったりとした口調で、笑顔を浮かべながらエル様にそう言った彼女に咄嗟に声が出た。
何を言おうとしていたのかは分からない、自分でも驚いている。
フィルメリア様はうんざりとした表情でゆっくりとこちらに視線を傾けた。
あまりに影の濃い淀んだ瞳に寒気がする。
フィルメリア様の境遇は分かった。
辛い思いもたくさんされてきたのだろうということも。
けれど、だからといってエル様に怒りを向けるのは違う、ただの彼女の八つ当たりに過ぎない。
声を出したわたしをエル様は諌めた。
でも、と言いよどむわたしに彼はいつもの事だと言って笑った。
本当に慣れているようにそういうエル様にわたしは何故だか涙が出そうだった。
「……エルレイン?あなた、いつの間にかそんなに穏やかに笑えるようになったのね?
でも、あなたが幸せになるなんて許さないわ、あの女も、絶対に……。
わたくしから全てを奪ったんですもの。
………それから、あなたもよ。
アルトステラ・リンジー・ルーファス」
「もういい、分かりました。」
ガタリと音を立てて席を立つエル様にフィルメリア様はお行儀が悪いわと言って笑った。
こんなに美しいのに、真っ赤な唇が歪む様がこの世のものでないような気持ち悪さを孕み、それがあまりに歪で、戦慄する。




