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「……姉さん?」
ばくばくとうるさい心臓をどうにか押さえ込んで、少しの期待と恐怖をバランス悪く抱えて数分。
一向に聞こえてこない姉さんの声に冷や汗が流れる。
僕は漸く、固く閉じていた瞳を開いた。
「……え、…嘘でしょ」
姉さんは安らかな寝息をたててあの美しい空色を瞼の奥に隠していた。
ソファにこてんと頭を預けて、………姉さんは寝ていた。
……………嘘でしょ?
この状況で、寝る?
まあ、確かに暖かくてソファはふかふかだし、分からないこともない。
僕も正直眠たいけど、普通、寝る?
いま、このタイミングで?
僕がどれだけ意識されていないかという話だ。
控えめに言って隙だらけのその無防備な姿にため息が出る。
あれだけ、覚悟して言った積年の思いだっただけに、安心したようながっかりしたような何とも言えない気分だ。
はやく僕の思いを知って欲しい、知って欲しくない。この関係を壊したい、壊したくない。
未だに乖離し合う2つの激情が奥底で再び熱を持つ。
「まあ……姉さんらしいといえば、姉さんらしいのかな」
暖炉の明かりを背に白い肌が薄ぼんやりとオレンジ色に照らされる。
僕がさっき巻いたばかりのぐるぐるのショールを努めて慎重に解いた。
さらさらと手にあたる柔らかい銀髪の感触に心臓が大袈裟に鼓動した。
少しあどけない寝顔は彼女が歳上であることを忘れさせる。
すぅすぅと寝息をたてる穏やかな寝顔が今は少し恨めしい、警戒心なんて、本当にないんだ。
こんなに側にいても。
多分姉さんよりも僕の方が眠たいはずだと思っていたけど、顔を近づけると僅かに浮かぶ薄いくまに気がつく。
またこの人は無理をしているのかもしれない。
目を離すとすぐにこうだ。
こういうところも父様と同じ。
姉さんがあまりにも無理な仕事に没頭するものだから、トレイシーから度々嘆願書のようなものが届くし、くまがとれなくなったらどうしようとマリーが慌てて飛びついてくることもある。
本当に無茶はして欲しくないんだけど、この人は無茶だと思っていないんだろうな。
もう一度ため息を落として目を覚ましたらどう追求してやろうかとか、関係ないことを考えて、どうにかその寝顔から気を逸らした。
姉さんを壊れ物を扱うようにソファに横たえさせると僅かな身動ぎに肩がはねた。
こんなに熱いのに、身体中が、内側から燃えるようなのに姉さんに触れる指先だけが変に冷たい。
自分が何をしようとしているのか、どうしてこんなことをしようとしているのか、自分でもよく分かっていないのに。
僕はそっと、彼女の詰襟のブラウスに手を伸ばす。
心臓がうるさい。
かたかたと微かに震える手を見なかったことにして、ゆっくりとボタンを外した。
ひとつ、ひとつ、と手をかける間にもともと煩かった心臓の音はもうはち切れんばかりになっていて、この音が聞こえていないなんて有り得るのだろうかとさえ思う。
首元のボタンを3つ外した。
白い、白い隠されていた首筋が僕を責めるようで、意せずしてごくりと喉がなった。
なんでこんなことをしているんだろう。
やたらと冷静な僕がそう問いたけれど、明らかに暴走しているだろうなにかがそれをあっさりと無視した。
そっと白い肌に手を伸ばす。
僕の冷たい指先は触れた途端に熱を持ち、その熱さに姉さんを溶かしてしまいそうだと怖くなってすぐに、離した。
心臓の音が部屋中に鳴り響くような錯覚すら覚える。
吸い寄せられるように再び姉さんの顎に手を伸ばし首筋に向かって熱い指を滑らせた。
起きてしまえばいいのに。起きて、僕のこの激情に気がついて、逃げればいい。
何をしているのと拒絶して怒ればいい。
ハーディスト伯爵を嫌うみたいに僕を警戒して嫌ってくれたっていい。
はやく、気が付けばいい、僕が貴方をどういうふうに見ているのか。
僕がいったいどういう人間なのか。
自分勝手がすぎる感情に思わず自嘲の笑みが零れた。
かわいそうな姉さん。
姉さんの身体の両側に置いた腕が僕の些細な体重の変化を拾って沈みこんで音を立てた。
「………姉さん、ごめんね」
無垢な寝顔は何も言わない。
穢れのない彼女をこんな思いを抱える僕が触れるだけで汚してしまいそうで自分に腹が立つ。
罪悪感で潰れそうで、劣等感でどうにかなりそう。
けど、同時に妙な満足感すらある。
そんな自分はひどく汚くて歪だ。
僕は自分を嘲りながらしかし、止めようとはしなかった。
ゆっくりと姉さんに顔を近づける。
吐息が届く位置にある寝顔は昔と少しも変わらない。
ずっと、いつも、綺麗で優しくて残酷だ。
「……ん」
「…………」
僕の髪が触れてくすぐったかったのか、眼下の姉さんは僅かに身動ぎをした。
それでも起きる様子はなくて僕は一瞬詰めた息を吐く。
それが安堵のものだったのか落胆からのものなのかは分からない。
唇が触れそうなくらいに近付いて僕は着地点をそっと下にずらした。
白い禁忌とさえ思えるほどに触れがたい首筋に口付けた。
ほのかな甘い香りと柔らかく崩れてしまいそうな感触に頭がいっぱいになった。
僕は、一体何をしているんだろう。
多分姉さんの好きな可愛いリヒテンはもう一度そう言ったけどやはり、僕はそれを無視した。
かわいそうな、僕の、姉さん。
「んっ、」
小さく柔らかな肌を吸うと姉さんが再び小さく音を出す。
ゆっくりと顔を上げるが姉さんは少し眉を寄せて、すぐに安らかな顔に戻っていた。
僕は音を立てないように姉さんから離れて白い首筋についた赤い跡をぼんやりと見下ろしていた。
背徳感に呑まれそうで嫌な征服感に支配されそうで、慌てて視線を下げてブラウスのボタンを正す。
再びショールを丁寧に巻いて銀色の髪に口付けた。
僕とは違う、穢れなく透き通った、ルーファス公爵家の色だ。
「………覚悟してね、ステラ」
ステラ、と呼んだのは初めてだった。
姉さんでもなく、アルトステラでもなく。
ずっと呼びたかった。呼んでしまったら何かが、変わる気がしてこわかった。
姉さんに?ハーディスト伯爵に?誰にかは分からないが妙な優越感を抱きながらなぜだか泣きそうになった。
ゆっくりと立ち上がり部屋を出て1度大きく息を吐いた。
毛布をとって戻ると、姉さんは何も変わらず寝息を立てている。
「おやすみ」
毛布で優しく姉さんをくるんで、僕も1番遠くのソファで毛布にくるまって目を閉じた。
疲れた。いろいろと、疲れすぎて、もしかしたら何もかも、本当に何もかも夢なのかもしれない。
でも……それは惜しいな。
そんな自分にもう一度自嘲して意識はすぐに沈んでいった。
そして、次に起きた時姉さんはそこにはもういなかった。
僕の側に、いなかった。
そして、邸の、どこにも。




