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結局、一睡もできなかった。
陛下が部屋を去って暫くしてバンスに扉越しに陛下が迎えに来た馬車で帰路に発たれたと報告を受ける前にわたしは窓の外の馬車を眺めてそれを知っていた。
闇に紛れる地味な黒の飾り気のない質素な馬車にまさか陛下が乗っているだなんて一体誰が思うだろう。そもそもこんなところにいるなんて誰も思わない。
いったいどこからやってきたのか黒い外套に身を包んだ人影が闇に紛れて馬車の近くにいた。
バンスと何やら話をする彼らはわたしが覗いていることにおそらく気付いていたがさして気にした風でもなかった。
ああ、あの方たちが邸中に張っていたのかと妙に納得する。
わたしが何をしようと彼らに一瞬で抑え込まれるのだろう。もしかしたら、動けばそこで息の根を止められていたかもしれない。
………いえ、陛下の話からしてわたしにはまだ利用価値があるそうだからそんなことはしないかもしれない。
馬車が闇と雨に紛れた後もベッドに潜り込んでこれからのこと、ルーファス家のこと、そしてエル様のことが悶々と頭の中を占領した。
考えれば考える考えるほどに自己嫌悪に陥るし、ひたすらに虚しい。
陛下に言ったことを何一つ後悔はしていないが不安が押し寄せる。
ただ悪意を向けられて命を狙われる恐怖。
まだはじまってもいないのに恐ろしい。
なぜだか、震えが止まらない。
エル様は10数年間ずっとこんな気持ちだったのだろうか。
そう思うとまた、なんとも言えない苦々しさと自己嫌悪に苛まれて気が滅入る。
きっと、お父様には失望されるだろうし、リヒテンにはまた心配をかけてしまうのだろう。
延々と続く雨の中そんなことを考え続けて気がついたらカーテンの隙間から朝日が漏れていた。
回らない頭で目を開き、尚もベッドで蹲っていると
微かな振動を感じる。
どうやら革靴が床を蹴る音らしいそれは徐々に近づいてくる。
まあ、クロードが起こしに来てくれたのかしら?それともトレイシー?マリー?いいえ、この重量感のある靴音はバンスかしら。
とか呑気なことを今日に限っては一切考えなかった。
頭が冴えていたというべきか、頭が回っていないと言うべきか、はたまた、頭がキレていたというべきなのか…。
その足音の持ち主にわたしは確信を持っていた。
ナイトドレスの上にさっと丈の長い上着をはおり髪を簡単に束ねる。
2つの足音がわたしの部屋の前でピタリと止み、押し殺した声が幾度か交わされた気配がする。
丁寧で規則的なノック音がした後に思った通りの声が聞こえた。
「アルトステラ嬢、朝早くに申し訳ない。話したいことが」
彼が話終わる前に扉を開けると目を丸くした彼がいた。
彼の顔を見た瞬間、宝石のように深い色をもつアメジストを見た瞬間頭が真っ白になった。
躊躇うことなく右手を振り上げた。
後で思えばなんでこんなことをしたのか分からないけれど、とにかくその時は頭が真っ白で考えるより先に体が動いていた。
1晩もんもんと考えていたことが一気に噴出する。
そして行き場のない負の感情たちが爆発した。
バシンッッ
その結果、乾いた音が邸に響いた。
ああ、やってしまった。
やってしまったわ…。信じられない、なんてことをしてしまったのかしら。
時が止まったかのように動かなくなったエル様とその後ろのクロードを見てもわたしの頭は冷えない。
寝不足だったから、とか昨日とんでもない事があったから、とか言い訳にもならないと分かっているけれど、とにかく感情のコントロールが効かないのだ。
「あ、アルトステラ嬢」
左頬を押さえて茫然とするエル様と同じく目を見開くクロードを見て冷静な部分が顔を出したかと思ったのにすぐにその気持ちも霧散してしまう。
「なんでしょう、エル様、こんな突然に。
貴方々はいつもそうですのね!」
「え、えっと、…貴方々ということはやはり兄がこちらへ来たのだな」
「ええ、来ましたとも、ご安心ください昨夜のうちに従者の方々とお帰りになられましたわ」
「それは俺も聞いている。迷惑をかけて済まない…。昨日ヴィクターが話したことは全て忘れてほしい」
「どうしてあなたにそんなことを言われなけれはならないのですか!」
ふんふんと鼻息が荒くなるわたしはわたしを止めることが出来ない。
これはきっと寝不足のせい、寝不足のせいよ、そうに違いないわ。
自分に自分で言い訳をしてエル様を睨むように見上げると、彼はうっと唸って身を引いた。
ひどく困惑した表情の中でアメジストがゆらゆらと揺れている。
それでもわたしは止まることが出来なかった。
きっと寝不足のせいだと思います。きっと、そう。ええ、そうに決まっていますわ。
だからそれがどうしたというのかと思う余裕はとりあえず今はない。
「どうして、わたくしのことを貴方が勝手に決めてしまうのです!そうやって、いつもいつも!」
「ま、待ってくれ、アルトステラ嬢」
「いいえ、待ちませんわ。わたくし貴方が今までしてきたこと、もう存じております」
エル様は一瞬目を伏せて1度引いた身を引き戻した。
その反応の薄さから彼が既にそれを知っていたことを知る。
その事実に更に腹が立った。
「貴方の身勝手に巻き込まれたわたくしの気持ちが貴方に分かりますか。勝手に知らぬ間に命を守られ続けたわたくしの気持ちが!
知らぬところで知らぬ間に巻き込まれて何もかも終わってから犠牲を知る気持ちが!」
「…アルトステラ嬢、ヴィクターに何を言われたか知らないがすべて忘れるべきだ」
「だから、貴方にわたくしのことを決められる筋合いはないといっているのです!」
「これは貴方の命に関わることなのだぞ。貴方は今感情的になりすぎている。1度落ち着いて良く考えて」
「いいえ、良く考えるべきなのは貴方の方です!
どうしてすぐにご自分を犠牲にしようとするのですか!」
「俺のことは関係なかろう」
「そういうのでしたら、貴方にもわたくしのことは関係ないはずですわ!貴方を犠牲に生かされてわたくしが嬉しいとでもお思いですか?」
「……違う。俺が勝手にした事だとは承知している。けれど、そうしなければ貴方は殺されていたかもしれない」
「もし、それが運命なのだとしたら甘んじて受け止めるべきでしたわ!」
「…そんなこと、二度と口にするな!」
わたしの言葉を聞いた瞬間エル様は目尻を釣り上げて低い声を出した。
射抜くようなアメジストの瞳はあの婚約破棄騒ぎの日に見たあれととても良く似ている。
一瞬その迫力に圧倒されはしたがそれでも
わたしの感情は未だ萎むことはなかった。
「そう仰るのならエル様だって同じですわ。ご自分を簡単に犠牲にしないでください!
はっきり言って気味が悪いくらいです!
方法はいくらでもあったはずです。」
「こうするのが1番良かったのだ、これが俺に出来る精一杯だった。貴方を守るためには。」
「わたくしの生きる道の影でどなたかの人生が犠牲になっていると聞いてわたくしが嬉しいとでもお思いでしたか?」
「そんなことは思っていない!
これは俺のわがままで、俺がしたかったからそうした!……俺が勝手に貴方を守りたかったのだ」
「どうしてですか!わたくしはそんなのちっとも嬉しくありません。
貴方にどんな利益があるのです!
貴方はわたくしをあんなに嫌っておられたのに!
わたくしが公爵令嬢だから、仕方がなくですか?ですから、あんなにわたくしを憎んで」
「嫌ってなどいないっ!
憎んだことなど一瞬たりともない…。
そうせざるを得なかった。少しでも好意を持っていると気づかれれば貴方は途端に俺の代わりに様々な者から狙われることになるからだ!」
瞳は陰りトーンの落ちたエル様の声に少し正気を取り戻しかけた。
エル様もはっと顔を上げてこれでもかと言うほどに目を見開く。
わたしはというと、急激に後悔と羞恥に襲われて素早く目をそらした。
寝不足…が言い訳になるだろうか…とんでもないことをしてしまった。
エル様の頬を叩いてしまったし、感情のままに色々と吐き出してしまっている。
大変なことをしてしまった……しかしもう後の祭りである。どうしよう…。
漸く回り始めた頭は、とくに働いてはくれなかった。
バツが悪く辺りを見回すとクロードはいつの間にか消えていた。
わたしの部屋の前にはわたしとエル様だけがいて、この喧騒を聞いてなお誰もやって来ないと言うことは故意なのだろうか。
空気を読んでくれているつもりであったりするのか…いったいそれはどんな空気なの…。




