8
馬車は実にゆっくりと進んでいった。
トルネオは相当に気を使ってくれているらしい。
体調はよろしくないけれど、実に2年以上も乗っていなかった馬車の乗り心地は快適だった。
「…アルトステラ嬢すまなかった。」
「…いいえ、エル様、わたくしの体調管理に問題がありますので」
向かいに座ったエル様がアメジストを不安げに揺らす。
それにゆっくりと答えて目を閉じた。
車内は決して涼しいとは言えないし3人も乗っているわけだから微妙に暑苦しくもあるわけだけれど、直射日光にさらされていた先程に比べれば天国だ。
彼らはどのくらいの時間ああしていたのだろうか、分からないけれど2人は汗もかかずにケロッとしている。
これが今も熾烈で優美な貴族社会の表を生きる者のなせる技なのか、それともただわたしが引きこもりすぎて脆弱になったのか。
はたまた、両方か。
…ああ、大変だわ、甘えすぎていたみたい。
「姉さん…大丈夫ですか?
……僕、すみません……」
しゅんと長い睫毛を伏せて影を作る濃いブルーがなんだか懐かしくて思わず笑がこぼれる。
彼がルーファス家に来て間もないころ、まだわたしの後ろをお姉様お姉様とついてまわっていた頃のようだ。
とんでもなく饒舌で、毒舌でおまけに気もまわるわたしの弟は、体はもうわたしよりも遥かに大きくなってしまったし、以前同じ馬車でイゾルテに向かった2年前とさえ随分と変わってしまったけれど、リヒテンは可愛いリヒテンのままらしい。
愛しさがこみ上げてきて、大丈夫よ、と隣に座る彼の頬を撫でるとリヒテンは恥ずかしそうに頬を赤くして、そして大変珍しいことに1度擦り寄った。
「……っ…」
ああ!嘘!かわいい!
滅多に見せることの無いリヒテンの甘えるような態度に余程反省していると見える。
先程のことなど半ばどうだってよくなった。
体調も随分とマシになってきたような気がする。
微かに息を呑む音が聞こえたけれどそれが誰のものかとか、まあどうでも良い。
だっていつもなら飛びのかれるか、説経がはじまるか、最悪叩き落とされるのだもの。
「………君たちはいつもそうなのか?」
ふいにエル様の声がして向かい側に彼がいたことを思い出した。
あんな存在感のある人を忘れるだなんてリヒテンの可愛さったらなんて罪深いのかしら。
「そう、とは?」
「普段はもっとべたべたしてこようとします」
「…べたべた?」
わたしが首を傾げるとすかさずリヒテンが口を開く、エル様はお綺麗な顔を僅かに歪ませてくっきりと眉間にシワを刻んだ。
美形がそういう顔をするとなんだか迫力があって怖いのだけれど、自覚してほしいものだ。
エル様も、リヒテンも。
「使用人達には弟離れをするように言われるのですけれど…これがなかなか」
苦笑を浮かべてそう言うとエル様の眉間のシワは更に深くなった。
眼光が鋭すぎてその鮮やかなアメジストから炎でも飛び出そうである。
しかもものすごくわたしを見ている……気がする。
というか、狭い社内の中で向かいのわたしでなければ何を見ているというのか。非常に怖いのですぐにやめて欲しい。
リヒテンではないみたいだし……。
いたたまれなくなり、あまりあからさまにならないよう視線を外すと隣のリヒテンは噛み殺したように息を漏らして肩を震わせていた。
体調が悪いのだろうか、寒気がするのだろうか、どうしたの?大丈夫?と聞くと彼は絶好調です。と満面の笑みで答えた。
それなら良いのだけれど。
それから、車内はものすごく重い空気に包まれて無言になったけれど(リヒテンはやはりたまに肩を震わせた。本当に大丈夫なの?)おかげでわたしはゆっくりと休むことが出来て体調は随分回復した。
エル様のあの鋭すぎるアメジストに再び捕まるのがいやで終始目を逸らしていたけれど、彼の麗しいご尊顔は平素を取り戻したのかしら。




