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おぎゃあ、おぎゃあ!
春の暖かい陽気に赤子の産声が響いた。
「さあ、マリーしっかり持って!」
「うっうっ、と、トレイシーさああん」
「何をしているの!しっかりしなさい!貴方の腕の中にどなたが居られると思っているのです!
……奥様…よく踏ん張られましたね。ご立派ですわ。さすがはルーファス公爵家の女です」
「バンス、バンスさんっ!お湯!お湯ぅ!」
ハァハァと絶え絶えになる息で柔らかく微笑んだトレイシーに笑みを返した。
弱々しく映らなければいいのだけれど、でもとにかく疲れたの。
今までで例を見ないほどに痛かったし、苦しかったし、辛かった……。
何度も意識を手放しかけてその度にトレイシーに頬を叩かれた。
しっかりしなさい!と緊張感の浮かぶ顔で諌めてくれた彼女に、わたしはやはり母がいたらこんな感じなのだろうかと思いを馳せるのだ。
永遠とも呼べそうな時間を耐える間、この厳しくも暖かいメイド長と、少しドジなメイドはとても頼りになった。
大好きな彼女たちに一番に抱き上げてもらえてよかった……。
喜びも束の間、激しい喪失感に襲われる。
痛みや苦しみが吹き飛びそうなそれに、ただでさえ血の気のない顔は恐らく今、蒼白だ。
「わ、わたわたしの、わたしの赤ちゃん…」
10ヶ月もの間、共にあった命が引き離される虚無感、手元にない焦燥。
思わずトレイシーに掴みかかると、彼女は疲れが浮かぶ顔でそれでも幸せそうに微笑んだ。
「ご安心を。
元気な男の子ですよ」
手を伸ばして清めたばかりの手の甲でわたしのおでこにはりつく汗と髪を拭ってくれる。
「マリー」穏やかにトレイシーが呼べばおずおずと硬い動作でマリーがやって来て、まるで岩でも持つかのごとくぎこちなく、まだ赤い顔の小さなそれが引き渡される。
「……っ」
途端に涙が溢れた。
顔中、もう汗やら鼻水やら涙やらで見れたものでは無い。
それでも硬く瞳を閉じた小さな彼を焼き付けようと、目を見開いてそっと、胸に抱いた。
「……よく、がんばりましたね」
トレイシーの言葉にもう、ダメだった。涙が止まらなくなりえぐえぐと無様に鼻がなる。
「……可愛いわ」
「ええ、本当に」
まん丸の頬を指でつつくと、少しだけ瞼が動いた。
わたしの鼻とは別にぐすんぐすんと鳴っているのはマリーの鼻だろう。
彼女はもうすでに2日前から泣いていた。
「遅くなった!悪い!湯と布!足りるか?!」
「ステラ!!」
同時に喧騒が飛び込んでくる。
わたしはいつものイゾルテの様相につい笑を零し、そしてトレイシーは眉を釣りあげた。
「そんなにドタバタと!!慌てふためいて情けない!」
えっと、だって……とごねるバンスに詰め寄るトレイシーの合間を縫ってグレイがかった茶の髪が飛び込んでくる。
「ステラ!平気ですか?どこも、痛くないですか?」
先程のわたしよりも顔面蒼白の人物がいた。
3年前とは比べ物にならないくらい精悍になった顔立ち。
残念なことに、天使のような美少年の面影はもう、あまりない。
どことなくお父様に似ている顔立ちは、けれど、お父様に言わせれば叔母と叔父にそっくりらしい。
リヒテンはわたしのすぐ側に膝をつくと水の膜の張った濃い碧の瞳でわたしを真っ直ぐに見つめる。
わたしがにこりと微笑むと安心したように目を潤ませて両手を組んで胸にあてた。
「ああ、神よ……。神なんているとは思っていませんが、今だけは、今だけは主に感謝します」
「ふふ、なにいっているの、リヒテン」
泣きそうな顔でしかし真剣な眼差しでそう言ったリヒテンに思わず笑い声が零れる。
胸の中の彼がぴくりと指を動かした。
面白かったのか、面白くなかったのか、きっとどちらでもないけれど、リヒテンは青の瞳を大きく開いた。
「見てください、ステラ、この鼻の形僕にそっくりじゃないですか?」
うっとりとした表情で顔を近づけるリヒテンを気にした素振りもなく彼はすぅすぅと寝息をたてる。
後ろの方で「まだ形も何も無いだろ」とバンスの声が聞こえたが、リヒテンはさして気にしていないらしい。
「顔立ちも、どことなく僕に似ていますね!
ああ、でも、この愛らしい唇はステラ似です。それから丸いほっぺも。
ほら、おいで、パパですよ〜」
リヒテンが手を伸ばす。
手を伸ばして、触れようとした瞬間。
扉が音を立てて勢いよく開いた。
「誰がパパだ!!俺の妻と子に触るな!」
はぁはぁと産んだわたしよりも息を切らせているエルレインは、先程のわたしよりも、先程のリヒテンよりも遥かに顔色が悪く、目の下にくっきりとクマが浮かんでいる。
あまりの必死さにくすくすと笑っているところでトレイシーが癇癪を起こす。
「旦那様!!」
ついに、そこかしこで笑い声が響く。
わたしも例外ではなかった。
「エルレイン、おかえりなさい」
怒りの眼差しをリヒテンに向けていた、そのアメジストが、ゆっくりゆっくりわたしを捉える。
それからまるで信じられないものを見るみたいに、夢から醒めてしまって不安げな子供のように曖昧な表情にゆがむ。
「………ステラ………………ただい、ま」
そして困ったような泣きそうな顔で彼は笑った。
出産をするならイゾルテがいいとわがままを言ったわたしは、約3年ぶりにこの地に戻ってきていた。
ここを選んだのは、わたしの全てがここにあったから。
王都での人形のような生活ではなく、わたしがわたしとして、たくさんのことを知って、笑って、苦しんで、1歩ずつ人として成長できた場所。
何もかもがここにあった。
当然、王都の屋敷の方が設備も医師も整っているし過ごした時間も長いけれど、でもどうしてもここが良かった。
正直、エルレインとの思い出もほとんどここにしかない。
わたしの大好きで大切な人たちもいる。
本当になにもかも、全てが詰まっている大切な場所なのだ。
エルレインは父公爵が任を退いた後、ルーファス公爵家を継いだ。
ルーファス家に婿養子に来たのだ。
ルーファス公爵となった彼には当然、膨大な仕事があり、逃げられはしない。
だから、イゾルテと王都を忙しなくいったりきたり。
いつかのリヒテンのようだと言ったら不機嫌になってしまったけれど。
(彼は未だにリヒテンが少しだけ、苦手らしい)
そして十日程前、わたしの出産がもうそろそろだという頃、彼は呼び出された。
なんでも陛下の勅令で火急の要件だとかなんだとかで。
ハーディスト領主となったリヒテンと別室に消え、出てきた時には凄まじい憤怒と絶望を背負っていた。
小一時間程わたしの傍を離れずはち切れんばかりに大きくなったお腹に触れていたが、抵抗も虚しくトルネオに連れていかれた。
やはり、いつかのリヒテンのようだと思って思わず笑いそうだったけれど、口に出したらまた拗ねてしまうに違いない。
最後迄絶対にすぐに帰ってくるから、と叫んでいた彼に手を振ったのがもう遠い昔のようだ。
「ステラ、無事、なんだな」
「ええ、もちろんよ。貴方も無事でよかった」
顔色と、その身なりの崩れようから、無事なのかどうか不安なところだけど、彼は「ああ」と短く言ってその長い腕でわたしごと息子を抱きしめた。
「ありがとう、ステラ、ありがとう。よく、頑張ってくれた。ありがとう」
実は泣き虫な彼はそう言ってぐすんと鼻を鳴らした。
肩に当たる体温が心地いい。
長い黒髪は至る所が跳ねていて微かに汗の香りがする。
王都から馬車で5日かかる道のりをこの人はどうしてきたのだろう。
……また無茶をしたのでしょうね、貴方は。
いつもならがみがみと怒るところではあるが(こういう所は彼に言わせれば父に似ているらしい。嬉しくはない)今日は、許してあげましょう。
そろりと黒髪を撫ぜると彼は少しだけ抱きしめる力を強くして、それからわたしと目線を合わせた。
ゆるりと疲れた顔で微笑んだ拍子にアメジストの瞳からつぅ、と涙が零れた。
「まあ、みて、貴方のお父様は泣き虫ね」
すやすやといい子に眠る我が子は産声から暫くして既に落ち着いているというのに。まったく……。
「……泣いてなどいない」
「それに、嘘つきよ。残念ね」
後ろからくすくすと笑い声が聞こえる。
トレイシーと、バンスだ。
「そりゃあ、ネイトフィールに伝わる伝説のクズで馬鹿な王子様ですから。……あ、元ですね」
「……アルテンリッヒ、お前……、わざと俺が城に行くはめになるよう画策しただろう!」
「さあ、なんの事だか。それより、赤子は初めに見た男性を父親と認識するらしいですね。つまりこの場合は僕ですか…」
「っ、見たのか!」
リヒテンを睨みつけていたアメジストを焦ったようにこちらに向ける。
その顔には絶望がありありと浮かんでいて思わず噴き出した。
それは鳥か何かの話ではなかったかしら?
そもそも生まれてすぐに目が開くわけもない。
リヒテンのちょっとした挑発や軽口などいつもならもう少し上手くかわせていたはずだけれど。
それほど、余裕が無いらしい。
「もう、リヒテンったら、やめてあげて頂戴」
「見たのか!どうなんだ、こいつが、父親になるのか!」
「はいはい、煩いですよ公爵サマ。
まあ、仕方が無いので僕達は退散してあげるとしましょう。
言っておきますが今日だけですからね。
………あ、父様が起きられたらお連れしますね」
「ええ、ありがとう。お願い」
お父様はこの子が生まれる前に緊張のし過ぎで失神してしまった。
気をはりすぎなのだ。
そのお父様のありえない有様を見たおかげで、わたしは幾分か気を抜くことが出来たのだけれど。
「ステラ……」
眉根を寄せる悲壮感たっぷりの夫が愛おしい。
変なところで、抜けているんだから……。
馬鹿正直というか、遊びがないというか…。
「エルレイン、心配しないで貴方がお父様よ。
あんなの、いつものリヒテンの冗談でしょう?」
わたしの言葉に目を見開いて、あからさまにほっと息をついてから、それから気まずそうに視線をずらした。
「…………すまない、余裕が、なかったかもしれない…」
バツの悪そうに彼が言う。
わたしはもう一度笑って、アメジストの瞳を覗き見た。
この国では王族だけが、持つ色。
王族たる証。
それはもう、彼にはないのだけれど。
それがあろうとなかろうと、彼は彼だ。
わたしの人生で1番、わたしを掻き乱した人。わたしの人生に山や谷を沢山作った人、わたしの命を何度も救ってくれた人、わたしを一番、誰よりあいしてくれた人……。
「………次は、ちゃんと、産まれる時に間に合うようにする。君の弟よりも早く君と子供に会おう」
「次……ふふ、次、ね、そうね。ええ、是非そうしてください」
わたしがそう言って笑うと彼は顔を真っ赤にした。