お馬さまに御相談
大学から自転車でしばらく行ったところにある神社では、神馬として馬を一頭飼っていた。ポニーなのだそうで、とても小さい。名前はのぞみさん。私は神社に行くのが好きで、この神社にもよく訪れたし、時間があれば長いことのぞみさんを眺めていた。動物を見るのは楽しい。狭い囲いの中で、のぞみさんはいつもぼんやりと立っているだけなのだけれど。
私が大学進学のためにこちらへ引っ越してきて、初めてのぞみさんに会ったとき、のぞみさんは二歳だった。それから三年。のぞみさんは五歳になり、私は四年生になった。就職活動だ。
さすがに就職活動を始めるとなると、なかなか神社まで足を延ばすこともできなくなって、のぞみさんを見ない日が続いた。三年生の冬から初めて、春になり、夏になった。
全然決まらなかった。
いろんな企業を受けた。筆記試験で受かったり落ちたり、面接で受かったり落ちたり、でも最後まで通った企業は一社もなかった。
やばい、と焦りばかりが募った。
大学の友人は次々と内定を決めていく。二社、三社と内定をもらった人もいた。苦戦していた友人もいたけれど、日が経つにつれ、夕暮れの喫茶店で慰め合う仲間はひとり減り、ふたり減り、とうとう私だけになっていた。
どうして、私だけ。
自分で言うのもなんだが、私は別に、人格的に破綻していたりはしない。そこまで輝くものをもっているとまでは言わないけれど、決して人より劣っているとは言わない。受けている企業だって、大手ばかりではなく、中小企業だってたくさん受けた。
それなのに、ひとつも通らない。
どうして、どうして、どうして。
苦しい日々が続いた。
気付けば七月になっていた。
内定はまだない。
つい今しがたも、落ちてきた。
「……あー」
盛夏だ。暑い。冷房の効いた電車を降りて、駅から外に出てみれば、風は吹くけれどもその風すら暑く、粘り気すら感じられるような重たい湿気をかき回すばかりだ。
「……あー」
口から、音がもれる。声にもならない声だ。昼下がり。私の他には誰もいない。
「……あー」
もう涙もでない。悲しみもない。またか、とそれだけだ。
疲れた。
「……あ、そうだ」
神社に行こう。
唐突に、そう思った。
どこをどう歩いたのか覚えていない。気が付けば私は、リクルートスーツのまま神社にいた。駅から結構な距離があったはずだが、道中の記憶がほとんどない。
手と口を漱ぎ、拝殿にて参拝する。作法通りの参拝を済ませる。
手を合わせる間、頭の中には何もない。
願いも、祈りも、もう。
「……のぞみさん」
拝殿に背を向け、三歩進んだところで思い出した。折角だ、久し振りにのぞみさんを見て行こう。
そうしたら、また頑張ろう。
力ない決意のまま、足を引きずるように歩いて社務所横の厩舎へ向かう。
のぞみさんは、いつものようにそこにいた。
散歩などで外に出ていたらどうしようかとも思っていたが、運よく厩舎にいる時間だった。囲いの中で茫洋と立ち、干し草を咀嚼している。
「のぞみさん……」
私の他には誰もいなかったけれど、それでも多少憚りながら声をかける。のぞみさんはちらっと私を一瞥するだけで、変わらずもちゃもちゃと咀嚼し続けている。
私は柵に身を預け、ほう、と吐息した。随分久し振りだけど、のぞみさんは変わってないなあ。
……私も。
内定のひとつも取れないまま、何も変わらずにここにいる。
「…………」
泣きたくなった。
私はその場にしゃがみこんで、そっと目元を拭う。嗚咽がもれないようにかみ殺す。私は一体何をやっているのだ。のぞみさんの前で泣いてどうする。
と、のぞみさんがゆっくりとこちらへ近づいてきた。柵越しに私の方へ鼻先を向ける。なに、慰めてくれるの?
ぶるる、とのぞみさんは鼻を鳴らした。
【おや、よく見てみれば、あんたは見たことのある顔だねえ】
そんな言葉が聞こえた、気がした。
……はい?
【久々に見たと思ったら、随分と情けない顔になってるじゃないか】
慌てて周囲を見回す。けれどやっぱり、周囲には誰もいない。
この場には私とのぞみさんしかいない。
「…………」えーっと。
恐る恐る、のぞみさんを見直す。相変わらず。のぞみさんは胡乱な目で私を見ている。が。
【何を間の抜けた面をしているんだい、情けないねえ】
やっぱり、聞こえた。え、のぞみさん?
【そうだよ。他に誰がいるんだい】
もっもっ、と干し草を嚙みながら、のぞみさん? が言う。
え、なに? どういうこと?
【そんなことは知らんがね。お前さん、随分と久し振りに顔を見たと思ったら、これまた随分とシケた顔を見せるじゃないか。やめておくれよ、メシがマズくなる】
随分な言い様だ。
「…………」シケた顔。
そっかぁ……まあ、そうだよね。
「ごめんね、のぞみさん……」
私は言う。
「ここしばらく、ずっとうまくいってなくてさあ……」
愛想笑いでも、笑みを浮かべようとするけれど、上手くいかない。中途半端な顔になる私から鼻先を逸らしながら、のぞみさんは【ふん】と鼻を鳴らした。
【情けない面がさらに情けなくなったね。情けない】容赦ない。【どれ、どんな塩梅に上手くいってないんだい。あたしに話してごらん。聞いてやるから】
のぞみさんの言葉に、え、と私は顔を上げた。「聞いてくれるの?」
【応とも。あたしとあんたの仲じゃないか】
ああ、と私は思わず涙ぐんでしまった。何度もここに来てたから、覚えていてくれたんだね、のぞみさん。ありがとう。
【いや、正直に言うと、あたしはあんたの顔なんざほとんど覚えてない】しれっとのぞみさんは言った。【あんたらの顔なんざいちいち覚えられないね。ただ、何となくさ。何となく】
えぇ……。
言わないでいてくれた方がよかった、と思いつつも、聞いてくれるというのだ、私は気を取り直して話し始めた。
就活が上手くいかないこと。
友人はみんな次々と成功させていっていること。
私だけがひとり取り残されてしまっているということ。
時折涙の混じる私の話を、のぞみさんは相槌も打たずに干し草を咀嚼しながら聞いていて、本当に聞いてくれているんだろうかと不安な気持ちにもなったが、全て話し終わったところでのぞみさんは【成程】と言った。
「わ、わかってもらえた?」
【いや、さっぱりわからんな】
ありゃ。
まあ、そりゃそうか。就活なんて、わかるわけないよね……。
ふふふ、と笑っているとのぞみさんに【気持ち悪いねえ……】と言われた。辛辣。
【だがまあ、あんたが悩んでるってことはわかったよ。上手くいかなくて苦しんでるってことはね】
もしゃもしゃと干し草を食みながらのぞみさんは言った。そう?
「どうしたらいいのかなあ……私」
【そんなもん、頑張り続けるしかないだろうよ】
えぇー……。
いや、そりゃそうなんだけど、えぇ~……。
【おや、何だいその目は】
いや、その、何と言うか。
よくわかんないけどのぞみさんと話せてるっていうこの状況だから、ましてやここは神社だし、何か神託的なサムシングがあるんじゃないかと、そこはかとなく期待していたのだけれど。
【何だいそりゃあ、何言ってんだい。あんただってわかってんだろ、あたしゃ馬だよ。神さんじゃない】
や、そりゃそうなんだけど。
うーん、と私は苦笑しながら柵に背を預けた。まあ、そうだよね。
これは、私の問題なんだから。のぞみさんに相談することだってお門違いだし、神様にしてみても、そう。
私が頑張るしかない。
いくら神様だって、きっと、頑張っていない奴を手助けしてくれたりなんか、しない。
だから私が、頑張り続けるしかないんだ。
「…………」
それが、辛いんだけどさ。ここまで来ると。
ぐす、と鼻をすする。私の背後で、のぞみさんは無言で足元の干し草を漁っている。
「私、このまま就職決まらなかったらどうしよう。もう一年頑張ろうにもお金とかないし……親の脛をかじろうにも、親だってお金ないし……」
不安だけが大きくなる。
頑張らなきゃ。
それだけを思って、頑張り続けてきた。けれどもう、やっぱり限界かもしれない。ここまでどこからも必要とされていないとなると、私の全てを否定されているような気持ちになってくる。今どきは別段、就職氷河期というわけでもないのだ。
私は、この世界から必要とされていない。
……あ、ダメだ、死んじゃいそう。
不意に背後でのぞみさんがブルルンと鼻を鳴らして言った。
【ま、そんなに深く悩みすぎてもしょうがないさ。安心して、もう少し頑張りな】
「……でも、そんなこと言われても」
【もう少し、だよ。今まではたまたま縁のないところを受け続けていただけなのさ。もう少しで、いい巡り合いがあるとも】
「どうして? どうしてそんなことがわかるの?」
【そりゃあお前さん、あたしゃ神さんとこの馬だよ。うちの神さんと知り合いだ。この背中に乗っけて歩いてんだからね】のぞみさんは、何でもないことのように言う。【だからわかるんだよ。あんたにゃ、うちの神さんがついてる。これからさ。もうちょっとの辛抱だ。うちの神さんがあんたにとって最高の出会いを用意して待ってる】
ほんと? と振り返って見ると、本当だともさ、とのぞみさんは頷くように頭を上下させた。
【確かに神さんってのは暇だし、テキトーだけれども、何の努力もしてない奴の虫のいい願いを叶えてやるほど気前がいいわけじゃない。そのところ、あんたはちゃんと努力してきた。あたしが知ってるくらいだ。うちの神さんなんかとっくのとうに先刻御承知さ】
だから、とのぞみさんは言った。
【もう少し、頑張りな。神さんはあんたと一緒にいる】
もっさもっさと干し草を咀嚼するのぞみさん。その目は澄んで、優しい。
私は、うん、と頷いた。
「わかった」
立ち上がる。
「私、頑張るよ。もう少しなんて言わないで、もっともっと頑張る。神様に助けてもらえるくらいに、頑張るよ!」
ぐ、と拳を握りしめる。その拳よりも固く、私は決意する。
「絶対に就職成功する! 内定取って来るよ! どこでもいいなんて言わないで、ちゃんとしたとこに!」
【おお、その意気さ。その調子】
「ね、内定取れたら、また来てもいい?」
私の言葉に、のぞみさんは頷いた。
【いいとも。またおいで。待ってるよ】
うん、と私は力強く頷いて、歩き出した。
私の足取りは、つい数時間前にここへ来たときよりも遥かに軽く、力強かった。
あれから私は、本当に必死に頑張った。今までも必死だったけれど、今まで以上に必死に頑張った。
後になってから考えると正直、のぞみさんと会話ができた、なんてことは、やっぱり現実だとは思えない。疲労と失意の果てに見た夢や幻だったんじゃないか、とすら思った。けど、それでもいいのだ。
励ましてもらえた。
頑張ってる、そう認めてもらえた。
頑張れ、と背中を押してもらえた。
それだけで、十分だったのだ。
私はきっと、誰かにずっとそう言ってほしかったのだから。
報われない努力が、いつまでも報われないままで、全てが無駄で、自分が誰にも必要とされていないとか、絶望しそうになっていたあのときに。
そんなことはないよ、って。
あなたはちゃんと頑張れてるよ、って、言ってほしかったのだ。
その言葉をもらえたから、私は一層頑張った。
その電話がかかってきたのは、八月も末だった。
最初は、どこからかかってきたのかわからなかった。企業の名前を聞いて、知っていたけれど、結びつかなかった。
業界大手の大企業。そこから、うちの採用面接を受けてみないか、と。
普通なら飛び上がって喜ぶところだが、正直、私は猜疑心でいっぱいだった。だって私は、その企業を受けたことは一度もなかったのだから。けれど、とにかく頑張ることを決意していた私は、チャンスがあるならと即決して、お願いした。
そしてその先で、ようやくのこと、念願の内定をもらった。
勿論、喜びはあった。けれど、疑いの念も拭えなかった。受けてもいない大企業から、勧誘の電話。それも直接。虫が良過ぎる。
そう思い、内定式の日に人事の人にはっきり訊いてみた。なにがどうなって私に声がかかったのか、と。
聞けば、こんな流れだったらしい。
私は、同じ業界の他の大手企業もいくつか受けていた。全てダメだったが、結構いいところまで行っていた。そして、それぞれの人事課部長が、呑み仲間なのだそうだ。
私を拾ってくれた企業では、六月の時点で予定通りの数の内定者を出していた。しかし、八月にもなって急に欠員が出たのだという。
人事としては、欠員を埋めたい。しかし八月にまでなると、ほとんどの学生はどこかしらに内定を決めているし、そうでないものは、八月にもなって内定がないということは何かしらの問題を持っている人物であろうということで、悩ましいことになった。大々的に募集を掛けると、名の知れた大企業なだけに応募が殺到し、たったひとりのために再び膨大な時間を割かねばならなくなる。それでは予定していた他の業務に支障が出る。
そんな話を、愚痴っぽく呑みの場で話したとき、私の名前が出たそうだ。
どの企業にも今一歩の押しが足りず、最終的に採用には至らなかったが、面白い人材がいる。もしかしたら、そちらの企業に合っているかもしれない。
そんな話があったらしい。
そうして内定をもらったのだから、何がどこでどう繋がっていくかわからない。ひとつわかっているのは、頑張ってよかった、ということだけだ。
何度も何度も挑戦して、挑戦し続けていたからこそ、繋がった縁。
神様のお陰、かどうかはわからない。
けれど少なくとも、私に【頑張ってる】って言ってくれて、【もう少し頑張れ】って言ってくれた、のぞみさんのお陰であることは確かだ。
本当に、頑張り続けて、よかった。
無事に内定式を終えた後、私は晴れて大手を振って、のぞみさんのもとを訪れた。
「のぞみさん! やった! 内定取ったよ! のぞみさんのお陰だよ! ありがとう!」
今回は周囲にいた人たちが驚いて私を見るけど、私は気にしない。内定書をのぞみさんの顔の高さに広げながら、私は満面の笑みで言った。
「やった! やったんだよ! やった……! って、あ、食べないで!」
掲げた内定書へ伸ばされてきた口先を避けながら、私は喜々としてのぞみさんに報告する。
のぞみさんは、答えない。もう何も言わない。
けれど、いいのだ。私は構わず、内定に至るまでの話をのぞみさんへする。
あのときののぞみさんの言葉が夢だったのかどうかなんて、関係ない。
私には現実だったのだから。
のぞみさんは、黙って聞いてくれる。はもはもと干し草を食みながら。
最後まで話して聞かせたところで、のぞみさんは大きく鼻を鳴らした。
ほら、言ったでしょ、とでも言うかのように。
だから私も、晴れやかに笑った。
「うん、私、頑張ってよかった。――本当に、ありがとう」