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彼女による愛の食卓

作者: 秋澤 えで

「食べるってことはさ、ものすごいことだと思う。」

「……すごいこと?」



彼女はハンバーグを頬張りながらおれに言った。

彼女は料理が好きで、レパートリーが増えたとき、ストレスがたまったとき、寂しいときにおれを家に招き晩御飯を振る舞うのだ。


こだわりの深い彼女は前菜、サラダ、スープ、パン、魚料理、肉料理、デザート、そして最後のコーヒーまでしっかりとしたコースをたてて料理を出す。本当は魚料理と肉料理の間にソルベを挟むけれど、曰く、普通の食事をする合間に甘いものは食べたくないという彼女の好みにより省かれている。きっちりおれ用の招待状を作って招くだけあって、その料理は店で提供されるものと遜色ない。食器からテーブルクロスまでこだわりぬいたフルコースに呼ばれるたび、おれは柄にもなく緊張していた。



「何がすごいんだ?」

「すごいでしょ。生きるための活動をしてるんだから。」



行儀やマナーを気にする彼女らしくなく彼女はひょいひょいとフォークを振った。興奮しているのか、その原因はストレスからなのか。



「生きるために必要なこと。それは普通一人ですることなの。」

「呼吸とか、か?」

「そう。呼吸、鼓動、酸素交換、ホルモン分泌、何もかも自分の身体の中で完結するんだ。だけど食事は違う。食事は命に維持に決して欠かすことはできないのに、誰と食べたいって考えるんだ。」



一呼吸置く様に、一口ハンバーグを口に放り込むのを見ていた。彼女のペースができている今、おれが不用意に動けば返事のタイミングを逃し、結果的に彼女からいろい目を向けられるのだ。



「生きるのに絶対必要なことなのに、まるで娯楽のように扱うの。甘いものが食べたい、辛いものが食べたい、今日は何も食べたくない、なんてね。やめたら死ぬのに、まるで遊んでるみたい。」

「それは、なんだろ、アフリカの恵まれない子供達とか、貧困層と比較したらわかりやすいってことか。」

「まあそうとも言えるね。ただ言いたいのは、危機意識が足りてない。食事がどれほど自分にとって大事なのか、わかってない。」



不機嫌なのか、ご機嫌なのか。饒舌さの理由が読めなかった。おそらくひと段落ついたのだろう、おれも彼女に倣いハンバーグを口に放り込む。口の中に広がる甘辛いソースにふわふわとジューシーな肉、鼻を抜ける香草の香り。これだけで、彼女の長い話を真面目に聞く価値を見出せる。正直こんなにうまいものがあるなら、生死云々より娯楽のように、あれが食べたい、これが食べたいとえり好みする理由が十分理解できる。きっとおれは胃袋を握られている典型だ。



「じゃあ何で大切な生命維持活動を誰かと一緒にしたいと思うのかについてね。」

「うん。」

「そこには娯楽的な意味もあるけど、食欲っていう三大欲求とも重なってる」

「食欲、睡眠欲、性欲?」

「そう。」



いくつかのフルーツが盛られた皿を彼女はキッチンから運んできた。片手には果物ナイフを持っている。

彼女は林檎に刃を入れながら話し続けた。



「この三つは比較的誰かとすることを望むこと。誰かと一緒に食事をして、誰かと一緒に眠って、誰かと一緒にセックスする。大抵は一人じゃしない。一人で食べるご飯は味気ない、一人で寝るのは寂しい、とかね。」



いよいよ彼女が何を言いたいか察せなくなってきた。



「大抵誰かと一緒に、を望む三つの欲求だけど、これができるっていうのもものすごいこと。」

「ものすごい?」

「だってそうでしょ?この三つをするとき、人はこの上なく無防備になるの。」



するすると赤い林檎が黄色に変わっていく、彼女の手を汁が伝って皿の中に落ちた。絆創膏をしている彼女の手に、果汁が付くのは痛そうだと思いながら、話に耳を傾ける。



「もし、命を狙われたら防ぐことができない。眠っているときに口を塞がれたらたら、ヤッてる最中に小刀で刺されたら、」



ハラリ、細く切られた皮が汁を追うように皿に落ちる。



「食事に何かを盛られたら。」

「……え、」



一瞬の無表情に、小さな声を上げてしまう。

何か、盛られたのだろうか。



「例えの話だよ。また危機感の話になるけど。今の人間はこの三つを気軽に行いすぎる。」

「……そんな、常に命を狙われてるわけじゃあるまいし。」

「知ってる?狂気っていうのは誰の中にでもあるの。狂気は羊の皮を被ってる。この世で一番危険なのは、すぐそばにいる隣人に他ならない。」



まるでどこからか抜粋したような、舞台セリフのような言葉にごくりと唾を飲み込んだ。

しゃくしゃくとリンゴが切られていく。なぜだかわからないけれど、今ああやって着られているのはおれ自身なんじゃないかって気分になった。おれは彼女の手の中にいて、刃を突き立てられ、皿に乗せられる。



「裏を返せば、一緒に食事をすること、寝ること、ヤることは信頼の証ってこと。」



 彼女は次にオレンジを手に取った。



「それから、この三つには大抵愛が伴うの。」

「愛?」

「そうでしょ?親愛、友愛、性愛、なんでもいい。でも愛がなくちゃその三つはほとんどできない。もちろん、例外もいるけれど。」

「……まあ、嫌いな奴としたいことではないな。三つとも。」



たとえおごりだとしても、嫌いな上司と食事をすると気が滅入る。これは少しわかりやすいと感じた。



「でしょ?この行為達には、愛と信頼があるの。」



そう言われると、途端に食事というものが崇高なものに思えてきた。彼女の作った料理を食べ、彼女と食卓を共にする。これはすごく、信頼と愛のある行為で、食卓とは神聖な場所なのだ。


皮をむかれ切り分けられたフルーツたちを、彼女が促してから手に取った。しゃくり、と小気味良い音をたて、口の中に甘い汁が広がる。フルーツもまた神聖な食事の一つだろう。禁断の知恵の実と謳われた林檎はいとも簡単に食卓に並ぶ。



「それから、食べること自体も愛なのよ。」

「……それは食べる物に愛があるってことか?」

「そう。食べることはそれと一体化するってこと。一身になるってこと。林檎を食べるとするわ。そうすると私たちは林檎を血に、肉に変えていく。林檎が私たちになるの。逆に私たちが林檎になるの。」

「うん……?」

「納得できない?」



なんとなく、ピンとこない。何だか彼女の言うことをおれなりに言い換えると、牛肉を食べるとおれらたちは牛になり、豚肉を食べると豚になる、と言ったような妙な理論のように聞こえるのだ。



「林檎とは何か。」

「……林檎は林檎じゃないのか?」

「そう。林檎は林檎以外の何物でもない。林檎は林檎で何物にもなり得ない。林檎という概念を構成する要素は林檎なのよ。」

「……うん?」


「例えば、私たちが延々と林檎を食べ続けるとする。そうすると私たちを構成する要素は林檎になるの。ほら。林檎の構成要素は林檎。私たちの構成要素は林檎。つまり私たちは林檎になるのよ。」

「……言いたいことはわかった。ただ随分乱暴な三段論法だね。」



やはり、今日の彼女は興奮してる。いつもならもう少し理路整然としたものを語るのに、今日の彼女はまるで何か大発見をして、とにかくそれを誰かに伝えたがっているように見える。要するに、彼女は聞いてほしという衝動が強すぎて、自分の中で言葉がまとまっていないのだ。だから、こうもどこかちぐはぐで、散らかった物言いをしている。



「食べることは愛なの。食べることによって、人は『それ』になり、『それ』に最も近い人間になることができる。」

「……距離の問題?近いとか、遠いとか。」

「距離は重要なことの一つよ。大切なものとはできるだけ側にいたいでしょ?」

「まあ、そうかもしれない。それは。」

「食べて、自分に血に、肉になる。そうすれば一生、この手から最も近い距離にあり続けることができるの。」



彼女は果汁に塗れた手を嘗めた。彼女は今、この果物たちと一つになろうとしているのだろうか。

彼女の見つけた、語りたい大発見は何なのか、おれは薄々感じ始めていた。


フルーツの盛られていた皿が空になり、今度はコーヒーカップを二つ持ってきた。

おれは濃いブラック、彼女はミルクに角砂糖を一つ。満たされた腹を携え、ブラックコーヒーを飲む。濃く苦いがそれが好きだ。食事が終わり、おれは一種の諦念に似た感情を抱えていた。しかしその諦念は彼女と付き合い始めてからある程度覚悟していたものでもあった。



「さっきさ、食べることで自分の血肉になる。そうなれば一生側にいられる、みたいなこと言ってたよな。」

「言ったね。」


「ここで残念なお知らせだ。人の身体は生まれてから死ぬまで永遠に細胞分裂を繰り返しる。肌や内臓、筋肉は約1カ月ですべての細胞が入れ替わる。あまり細胞分裂をしない脳細胞でさえも回路を残して死んでいく。」

「要するに?」


「一生側にいるのは無理だね。たとえ『それ』を食べて細胞が作られたとしてもそう時間がかからず死んで体外に排出されるから。」

「あー……マジか……、知らなかった。なんか私バカみたいじゃない。」



異様なまでにはつらつとしていた彼女はコーヒーをテーブルに置いてぐったりと突っ伏した。神経細胞は細胞分裂をしていないという話を聞いたことがあるが、それは黙っておく。ソースが確かでない上に、それを言うことは危ないことだ。おれは何も彼女に怪我をしてほしいわけではないのだから。



サラダに掛かったトマトソース。ビシソワーズ、手づくりのパン、骨まで柔らかく煮込まれた魚、赤っぽいデミグラスソースのハンバーグ、剥かれるフルーツ、そしてこの苦くて濃いコーヒー。


きっとこのフルコースには彼女がそっと紛れ込んでいるのだろう。


おれは彼女の愛が入っているだろうコーヒーを飲み干した。

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