龍脈と楔
この世界において、大昔の魔法使いたちが時の為政者や宗教家によって弾圧され、その系譜を途絶えさせられてからというもの、魔法使いのいない時代は長く続いた。
魔法の源でありすべての生命体が持っているエーテルは使用者の大部分を失ったことによって、ただ次元の狭間をたゆたうだけになった。
人や動物たちに使われる事で流れ、それが龍脈となり、そこから生まれる力によって形作られていた物理世界と重なるもう一つの世界は徐々に変化を遂げた。
長命種や特異な力を持つ者は生まれなくなり、妖精や妖怪といった者たちもだんだんと姿を消していった。
地球はそのほぼすべてが物理化学に支配される世界となった。
しかし今から200年ほど前、大きな力を持つ魔女が突如現れた。
彼女の持つ強大な力は特に魔法を使わずともエーテルを動かし、長い間眠っていた龍脈を活性化させた。
世界は再び失われた神話の時代、太古の姿を取り戻そうとするかのごとく瞬く間に変容し始めた。
だが彼女はそれを良しとはしなかった。
急激な変化は人間の社会を破壊してしまう。そう考えた彼女は龍脈を制御し、苦労しながらも変容をごく一部の地域に限定させる事に成功した。
そしてその場所に学園を作り、密かに魔法使いを育て始めた。
ゆるやかな変化を目指して…
金と銀の美しい装飾を施されたその巨大な剣はまるで美術館の庭園に飾られたオブジェのようだった。
剣身はおおよそ10メートルほど、切先を下にして地面から2メートルほどの宙に支えも無しに浮いている。
その装飾から儀式用剣のように見えるが、触れるだけで切れそうなその刃は単なる飾りでは無く、本来の用途にも使えることを主張している。
もしその巨大な剣を振るうことが出来るならば、あらゆる物を切り裂けるのではないかと思えた。
黒羽はその現実離れした光景に一瞬、自分が夢を見ているのではないかと疑った。
しかし、上がった息と手を通して伝わる地面の感触がこれは夢では無いと告げていた。
ゆっくりと立ち上がり剣に近づく。
と、剣の下にいた黒猫が体を縮めると鋭くジャンプをした。
剣の腹に前足が触れるとそのまま垂直に剣を駆け上がり鍔の部分に乗る。
「ノル…お願い。こっちに降りてきて!」
黒羽は剣の根元から上をを見上げて叫んだ。
黒羽はこの黒猫が間違いなくノルだと確信していた。
幽霊なのかそれとももっと別の物なのかはわからないけれど、それはどうでも良かった。
ただ近くで話したかった。
「…ノル」
「にゃぁ…」
声をかけられた黒猫は黒羽を見下ろすとやさしく鳴いた。
黒羽の全身から力が抜ける。
体がよろめく。
体中から何かを吸い取られている感覚があった。
立っていられずに草の上に膝をつく。
「ノ…ル…」
そう呟きながら黒羽は黒猫を見つめると、そのまま糸が切れたようにその場に倒れ伏した。
黒猫は静かに黒羽を見ていた。
黒猫の足下から剣の表面をマジックで線を引くように黒いラインが伸びていく。
最初は一本だったそれが徐々に増え、剣が真っ黒に塗りつぶされると、鍔の上に乗っていた黒猫はかき消えてしまった。
「これはアカンわ。まさか結界内に何の準備も無く入れてまうとは…」
「どう、する?」
ヒルダとエイラは黒羽とスピリットがまさか結界の中にあんなに簡単に入れるとは思っていなかった。
結界に入れずまごつく、もしくは結界の作用によって同じ場所をループしてしまっている間に黒羽とスピリットに追いつく予定だったのだ。
追いついたらスピリットには捕縛結界の術式を打ち込んで静かにしてもらうつもりだった。
その上で予定よりは少し早いが、計画を前倒しにして少し魔法使いの事などを黒羽に話せばいいだろうと思っていたのだ。
朝比奈校長からはかなり才能のある子だと聞いていたし、さっきの妖精の森の話でもこうした事に関する抵抗は無いように感じていた。
だからどちらかと言えば結界に阻まれたスピリットがこちらに敵意を向けてくることの方が心配だったのだ。
悪性のスピリットでなければ消滅させてしまうようなことはやりたくなかった。
「まさか…やんなぁ」
ヒルダは結界の境目に立って手にエーテルを集中させ軽く結界を押してみる。
柔らかい弾力で押し返され、綻びなど無いように感じる。
見習い魔法使いの自分たちにとって、一流の魔法使いが張ったこの結界は道具無しで入るには少々荷が重い。
特にこれは龍脈の楔の結界だ。たとえ準備が万全でもそう簡単に中には入れるとは思わなかった。
「とりあえず…校長せんせに指示を仰ごか…」
黒羽のことは心配だが、このままでは出来ることは何も無い。
楔の重要性も学んで理解しているヒルダは早急に手を打つ必要があると感じていた。
ヒルダはポケットから携帯端末を取り出すと短縮に登録してある番号を呼び出そうとした。
キンッ!と鋭く甲高い音が響いた。
単に森が続いているように見えた景色が歪むと木々が円形に切り取られた広場のような場所が現れる。
そこには中央に黒く塗りつぶされてしまった剣と、その元に倒れた黒羽の姿があった。
「黒羽!」
ヒルダは倒れている黒羽に気付くと急いで駆け寄る。
「楔、が…」
エイラが呆然と呟く。
エイラのエーテルを知覚する事が出来る右目には真っ黒になった剣を起点に溢れ奔流となって荒れ狂うエーテルの流れが映っていた。