妖精の森と猫
日曜日だというのに朝比奈真澄は学園の校長室でデータの整理に追われていた。
「まったく、理事長が急に生徒を一人転入させてほしいなんて仰るから書類だけでも大変ですよ」
「ん。ごめんねぇ~」
明らかに本当に悪いとは思っていないような軽い言葉が返ってくる。
理事長と呼ばれた女性は校長室の豪華な応接用ソファーに足を組んで座り、一人優雅にコーヒーを楽しんでいた。
世間一般の理事長というイメージからすると少々若く見えるが、無造作に組んだように見える足も、コーヒーカップを持つ手からも若い人間に有りがちな粗雑さがまったく感じられなかった。
その洗練された仕草の一つ一つから積み上げられてきた知見が決して少なくは無い事が分かる。
ひょっとすると見た目通りの年齢ではないのかも?と思わせる雰囲気が彼女にはあった。
「本当に悪いと思っているんでしたら、もう少し優秀な人材をこちらにもまわして欲しいものですけれど…」
「それはこっちもちゃんと考えてるんだけどね~あんまり優秀だからと言って信用できない人間を登用するわけにもいかないでしょ」
手に持ったカップを音もなくテーブルのソーサーの上に戻すと、耳にかかった長い金髪を軽く掻き上げて彼女はそう答えた。
「それにしても、こんな才能を持つ子供が今まで我々のチェックリストに挙がってこなかったとは驚きです。何か理由が?」
目の前のモニターに次々と表示されるデータを見ながら朝比奈は昨日から気になっていた事を聞く。
「ええ…、実は10年ほど昔にチェックはしてた。今回は突然に彼女の両親が亡くなったから…ちょっとした非常事態だったのよ」
「チェックしていたのにFFALからのリストに載せていなかったということは…」
彼女の言葉から導き出される結論に朝比奈は思わず手を止めてソファーにゆったりと座ったままの理事長、メアリ・ウィルトを見た。
「そう。…彼女は”エグゼキューター”候補よ」
昨日と同じくショッピングモールでの買い物と昼食を終え、持って帰れない家具類は配送を頼んでから黒羽たち三人は自然公園の散策路を通ってのんびりと寮に向かって歩いていた。
さすがに日曜だけあって割とたくさんの観光客らしき人達ともすれ違う。
こんなに広いこの自然公園であれほどの人数と遭遇するのだから、昨日の案内の男性が言っていた観光客が増えているというのも正しい情報なのだろう。
こうして散策路をただ歩いているだけでもなんとなく感じる心地良さは確かに人気のスポットとして評判になってもおかしくはないと思えた。
「黒羽はまだ知らへんやろうけど、この森はここらの住人からは”妖精の森”言われとるんよ」
ヒルダは木々の隙間から漏れる日差しから目を庇うように手を上げるとそう言った。
「わかるなぁ…すごく癒されるもん」
黒羽は大きく深呼吸して深く森の空気を吸い込む。
「そうやのうてね…」
「木の間を小さい光が飛んでるの、よく見る」
エイラが続けてそう爆弾発言をする。
「え?雰囲気とかじゃなくて、不思議現象から来てるの?」
「そう」
「そや。ちなみに言うとくと、この学園の生徒のほとんどは見たことあるて答えると思うよ」
驚いたけれど、この森の木々を見ていると少しぐらい不思議な事があっても納得できる気がする。
小さいころ見た魔法を信じたのと同じように、今ならこの森に現れるという妖精の存在も信じられると思った。
「私も見れるかなぁ…」
そのうち自分の前にも出てきて欲しいと、黒羽は心の中で願った。
「まぁ、妖精さんもいいんだけど、まず私は明日からの授業を心配しないと。勉強、ついていけるかな~」
今まで抱えていたモヤモヤとしたものがここの環境とヒルダ達のおかげで晴れてくると、黒羽はとたんに今まで脇に除けておいた現実的な事にも目が行き始めた。
「8組はうち達みたいな留学生もおるし、比較的ゆっくり目に授業すすめとるから、そんなに心配せんでもええと思うで」
「ま、最悪夏休みの補習という手もあるしね」
安心させると見せかけて最後に落とすヒルダ。
「え~~夏休みに補習はあんまりしたくないな~」
「うちらも日本に来て最初の夏休みはずっと日本語の補習やったで」
「そういえば、二人とも日本語うまいよね。え~と…こっちに来てどのくらいなの?」
黒羽はヒルダの関西弁が誰に教えられたものか聞きたかったが、やっぱりそれはちょっと失礼かと思い直して質問を変更する。
「うちは4年目やな」
「私は、2年目。日本の文化、面白いから。頑張って覚える」
エイラの訥々と話すその表情には並々ならぬ決意が溢れている。
「そっか、私も二人に負けないように頑張らないとだね…」
元気を分けてもらったように感じた黒羽はここに来て良かったと改めて思った。
にゃあ
黒羽の耳にどことなく親しげに聞こえる鳴き声が届いた。
「ノル?」
黒羽は反射的に声の主を探した。
散策路から10メートルほど外れた木の根元に黒い何かがいるのが見える。
「あれは…」
ゆらゆらと輪郭が定まらないように揺れていたその何かは、黒羽がその存在を認識したとたんに黒い猫へと変化した。
どことなく存在感の希薄なその猫はもう一度黒羽に向かって鳴くと、森の奥へと駆け出した。
「ま、待って!ノル、ノルだよね!」
黒羽はあわてて黒猫を追いかける。
頭ではもうノルはいないと黒羽も理解している。
だけど前を走る黒猫は黒羽の飼っていた、あの事故で両親と一緒に死んでしまったノルとしか思えなかった。
(お父さんが子猫で拾ってきて…弱っていたところを私とお母さんが付きっきりで世話をして…)
(黒いからノワールだってお父さんが言い始めて…でも可愛くないから縮めてノルだってお母さんが言って…)
(いつだって一緒だった…ノル…)
前を走る黒猫は目を離すとそのまま消えてしまいそうで…黒羽は必死で後を追った。
あっけにとられていたヒルダたち二人もそう間を置かずに黒羽を追いかけたが、ずいぶんと差を開けられてしまっている。
「エイラ…あれって」
「スピリット、です」
エイラは右目にしていた眼帯を取っていた。
左に比べると色素が薄く金色に見える右の瞳が仄かに光り揺らぎながら遙か前方を走る黒猫を見ている。
「悪いモノでは、無さそう、です。けど、少し普通とは…違う」
「どういう事やよう分からんけど…あっちは楔の結界のある方角や、スピリットも結界にいきなり突っ込んだりはせぇへんとは思うねんけど…」
なんとなくいやな予感がする。
「エイラ!スピードアップや」
「うん」
ヒルダとエイラは全力で足を動かした。
どれ位森の奥まで来たのだろうか、このあたりは散策路の周辺とは違ってあまり光が差し込まず、かなり暗い。
「はぁっ、はっ」
黒羽は荒く息を吐きながら走る。
黒猫はそんな黒羽を導くかのように一定の距離を保ってひたすら森の奥へと進んでいた。
と、ふいに周りの景色が流れるようにぼやけた。
同時に水の中にでも入ったかのように大気が体に纏わり付いてくるのを黒羽は感じた。
前を行く霞んで見える黒猫を追いかけて懸命にもがく。
もう息が続かない。黒羽がそう思うと同時に重かった周囲の圧力が霧散した。
よろけ、倒れながらもなんとか手と膝をつくと、大地に向かって大きく息を吐く。
「…ノル」
息を整えるのももどかしいといったように、黒羽は四つん這いになったまま顔を上げて黒猫を探した。
まぶしい光が目に入る。
黒猫は数メートル先にいた。
彼女たちのいるそこは森を上から眺めると分かることだが、綺麗な円状に木々が切り払われた場所だった。
黒猫はその真ん中で立ち止まり、何かを見上げている。
優美な曲線で構成された巨大な剣がそこには浮かんでいた。