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祈りの海

祈りの海

作者: 須藤鵜鷺

  水底に眠る魂

  静寂の闇の中で

  目醒めの時を待つ

  淡い光の中へ

  永遠のような時を越える

  泡沫の夢

  この海へといざない

  帰るべき者を待つ


 初夏、木々の緑が濃さを増してきた頃。穏やかに晴れた、五月晴れの日差しが草木の葉を美しく照らしている。等間隔に植えられた街路樹もようやく木陰を作ってくれるほどに葉が茂ってきたところだ。自転車に乗っていると少し汗ばむような陽気だが、風はすがすがしく吹き抜けていく。本格的な夏の訪れを前にした、爽やかな季節だ。朝。今日も一日が始まる。

 通学路からは、制服を身につけた高校生たちが三々五々学校へと吸い込まれていく。大内 翔もその中の一人だった。校門に向かって続く銀杏並木の下を、他の生徒を追い抜いて走ってゆく。制服の白シャツの背中部分が風でふわりと膨らんでいる。茶色よりの黒髪は地の色で適度に梳かれていて、風で後方にそよいでいる。翔はそのままスピードを緩めることなく正門を通り過ぎる。正門近くには既にたくさんの生徒がいるが、その間を縫うようにして器用に自転車を操る。正門を通り抜けると、正面には本校舎があり、玄関には先生が数人立っている。それを横目に見てさらに奥へと自転車を走らせる。ずり落ちそうなスポーツバッグを少し面倒くさそうに背中のほうへ放り上げると、翔はようやくスピードを落とし、校舎の影にある小屋に自転車を停めた。

 翔の通うここ、近海高校は今年で開校百十周年を迎える、歴史ある高校だ。近海の町ができて間もない頃に開校したらしい。校長は代々その歴史を誇りにしているため、全校生徒の前で話す機会があれば必ずそのことに触れる。生徒たちは卒業するまでに少なくとも十回はその話を耳にする。生徒たちはそんな校長の話にはうんざりしているが、高校の立地についてはそう悪くないと思っている。海から一キロほどしか離れておらず、海岸沿いの港町から通ってくる生徒も多い。周辺には小学校や中学校もあり、児童、生徒が多い町の中に建っている。そのことが関係しているかどうかは定かではないが、この高校は県内随一の進学校として知られている。普通科には私立でもないのに有名大学を目指す生徒専門の特進クラスがある。そのクラスに入る生徒たちは皆いかにも優等生風で、端から見ると異様な雰囲気がある。もっとも、偏差値ラインぎりぎりの成績で滑り込むように入学した翔にとっては、縁遠いクラスだった。

 生徒玄関の右脇の階段で二階にある教室へと上る。教室では、いつもと変わりないやりとりが交わされている。女子生徒たちは、雑誌や手帳を広げながら何やら楽しそうに黄色い声を上げている。男子生徒たちは、サッカーボールを弄んだり机に座ったりして遊び足りない子供のように騒いでいる。まるで休日のショッピングセンターにでも来ているかのような騒がしさだ。外の爽やかさとは対照的に、彼らの熱気のようなもののせいで教室内は暑苦しくさえ感じた。翔はそんな様子のクラスメイトたちには興味を示さず、まっすぐ自分の席に向かい、机にスポーツバックを放った。もともと、翔がこの高校を受けたのも、別に行きたい大学があったからではない。これだけの進学校であれば多少静かな学生生活が送れるであろうという、甘い考えからだった。クラスの喧騒の中で翔は、そんな幻想を抱いていた時期をちらと思い返していた。

 実際、翔はこのクラスになんとなく馴染めないでいた。もともと広く浅い交友関係を築くのが得意なほうではない。中学時代も、真に友達と呼べるものは数えるほどしかいなかった。彼らは皆、翔とは別の高校に進学してしまった。ここに来て、未だに翔は心許せる友と言うものがいない。どうもこのクラスには、翔が苦手とするタイプの生徒が多い気がする。そんな中で翔は、なるべく目立たないように、誰とも深くは付き合わないまま毎日をやり過ごしている。あいにくよくニュースなんかで報じられているようないじめや不登校の憂き目には遭っていないが、少なくとも他の生徒と一線を画しているのは確かだ。翔にとってはどうでもよかった。今のところそれで不都合も感じていないから、このままでかまわないと思っている。教室内の喧騒が、一限の時間が迫っているというのにまだ続いている。翔はかばんの中身を乱雑に机の引き出しに突っ込んだ。

 その時。翔は、どこかから自分に向けられた視線を感じた。いや、そんな空気を感じた。たった一瞬、それはとても奇妙な感覚だった。翔は慌てて周りを見渡したが、翔を見つめる視線はどこにもなかった。確かに今しがた誰かにじっと見詰められているような、妙な空気を感じたのだが、誰もそんなそぶりはしていない。気のせいだろうか。考えていると、教室のスピーカーからチャイムの機械音が流れた。翔はもやもやとした気持ちを引きずったまま、今日の一限目の準備をした。

 カリカリと、リズムよく聞こえてくる板書の音を聞き流しながら、翔はさっきの奇妙な感覚についてぼんやりと考えていた。窓際の、前から四番目の席。二階にあるこの教室は外に植えられた木々が日差しを遮り、初夏の爽やかな風だけが窓から吹き込んでくる。影になった部分には、ぼんやりと教室の中が映っていた。そうだ、昨日席替えしたんだよな。翔は思い出していた。以前の席は、他の生徒の視線をあまり感じない、列の一番後方だった。さっき感じた視線のようなものも、きっと席替えのせいに違いない。席が動いたから、なんとなくそんな気がしただけだろう。まだこのクラスになって二ヶ月目なのだから、そんな感じがしてもおかしくはない。その正体が分かってしまうと、なんだか途方もなくつまらなく思えた。翔はしばらくのうちに随分取り残された板書を、慌ててノートに写しはじめた。

 放課後、日直だった翔は職員室から一人、日誌を片手に教室へと戻ってきた。一緒に日直の仕事をした女子生徒は、何か用事があったらしく、そのまま足早に帰っていった。誰もいない教室は、夕暮れの色を帯びて物音一つしない。昼間の喧騒が嘘のようだ。翔は教卓の下の引き出しに日誌をしまい、黒板の端に書かれた名前を次の日直に書き換えると、自分の机に戻ろうとした。その時、初めて、ずっと誰もいないと思っていた教室に一人の女子生徒が残っていることに気付いた。翔はびくっとした。その生徒は、驚くほど存在感がなく、姿を見なければそこにいることにさえ気付かなかったであろうと思えた。翔の席と、ちょうど反対側の廊下側の席に、ぼんやりと座っている。その姿を見たとき、今朝のあの違和感が蘇ってきた。違う。あれは、席替えの違和感なんかじゃない。こいつから感じているんだ。そう思った。自分のクラスにこんな生徒がいたことには、今まで気付かなかった。席替えは、あるいは一つのキッカケだったのかもしれない。翔は、しばらくその場から動けなかった。体には緊張が走っているのに、恐ろしく脱力したようになってしまい、力が入らない。何か見てはいけないものを見てしまったかのような、奇妙な感覚に陥っていた。その生徒は、翔の様子などまるで意に介さないかのように、ただぼんやりとそこに座っている。翔はよろよろと自分の席に戻り、スポーツバックを肩に下げて、なるべく足早に教室を後にした。

 グラウンドでは、いつもと同じようにサッカー部の部員たちがウォーミングアップをしている。先ほどよりも一層傾いた日差しが、彼らの影をより長く映し出す。引っ掛けていたスニーカーを履き直し、翔もその輪に加わっていく。パスされたボールを蹴り返しながら、頭ではさっき見た生徒のことを考えていた。あんな奴、うちのクラスにいただろうか。もともと周りのことへの関心が薄く、注意して見ているほうではないが、それでももうこのクラスで過ごして一ヶ月余り経つというのに、さっきの生徒にはまったく見覚えがない。言ってみれば、この高校では特進クラスなんかにいそうな感じの生徒だ。彼女が他の誰かと話しているところも、授業中に何か発言をしているのも、印象にない。そんなことがあるのだろうか。ひょっとして、他のクラスの生徒か。いや、あの違和感は、今朝感じたものと同じものだった。考えていると、回ってきたパスに反応が遅れて、ボールがすり抜けていってしまった。

「おい大内、何ボーっとしてんだよ」

「ああ、悪い」

 翔はボールの転がったほうへ走った。

 その晩、翔は奇妙な夢を見た。どこか見たことのあるような風景なのだが、恐ろしく殺風景で、周りには畑や荒地が広がっている。その中にひときわ目立つ、時代がかった御屋敷が建っている。翔はその蔵の前で、お役人らしき人物に何かを言われて、もと来たであろう道を帰っていく。ずっと歩いていくと、港とまでは言えない小さな船着場へたどり着く。船着場には小舟があり、船頭が翔に向かって手を差し伸べている。しかし翔は、その舟に乗ってはいけないと感じた。舟に乗るよう急かす船頭から逃れようとするが、後ろに先ほど見た役人風の男と、他にも数名の男たちがおり、翔を無理やりその舟に乗せようとする。翔は抵抗したが、圧倒的な力によって舟へと押されていく。その男たちの後ろに、悲しそうにそれを見守る女性の姿があった。

「やめろ!俺はもう二度と行かない!離せ!」

 そう叫んだとき、翔は目を覚ました。ひどく汗をかいていた。目覚まし時計を手にとって見たが、夜中の三時を少し回ったところだった。喉が変に重い。どうやら、自分の声で目を覚ましたようだ。普段夢などほとんど見ることのない翔にとっては、それは絶大なインパクトを持っていた。翔は寒気がした。それはまるで自分が過去に経験したことを追体験しているかのように、妙に現実味を帯びていた。何なんだ一体。汗を拭うと、少しずつ平静を取り戻した。急にどっと疲れが押し寄せて、翔はそのまま倒れるように横になり、再び眠りについた。

 翌朝、取りきれなかった疲労感を抱えたまま、翔は教室にいた。何か考えようとすると、すぐに昨夜の夢のことが思い返されてくる。見た直後は恐怖に似たものを感じていたが、今は疑問がいくつも浮かんでくる。見覚えのあるような、あの場所はどこなのか。あの御屋敷は、誰の屋敷だったのか。翔の記憶にあんな屋敷に行った覚えはない。映画にでも出てきた場所だったのだろうか。だが一番気になったのは別のことだった。それは、たった一瞬見えた、一人の女性の姿だ。自分のほうを悲しそうに見つめていた、その女性にも翔は見覚えがあるような気がした。だが、どこの誰だったのかまったく思い出せない。朝起きてからずっと夢のことを考えてはいたが、肝心の女性の顔や印象も、随分と薄れてきてしまった。考えながら、翔は必死に夢で見た女性と周囲の女子生徒の姿を比較してみたが駄目だった。そのせいで余計混乱して、一体どんな人だったか、その印象も霞んでしまった。

 翔は考えるのを諦めて、ちらと右のほうを盗み見た。教室の反対側に座っている、昨日見た女子生徒だ。彼女は背筋を伸ばし、いかにも優等生という感じで黒板と机の上を交互に見ている。その間、右手は休むことなくペンを走らせている様子が伺える。本当に、あんな生徒が、うちのクラスにいたんだろうか。まるで、沸いて出たようだと翔は思った。このクラスには似つかわしくない。それとも、そう思い込んでいたから、彼女の存在に気付かなかったのだろうか。どう見ても、ほかの女子生徒と同じように騒ぐ姿は想像できない。誰とも積極的に関わろうとしない、存在感の薄い生徒。確かにクラスには一人や二人、そんなのがいたりするものだ。それにしても、そんな存在感の薄い生徒が放つあの違和感は一体何なのか。しかも、どうやらその違和感に気付いているのは翔だけのようだ。それともこの違和感自体、気のせいなのだろうか。昨日あんなふうにこの生徒を認識したせいで、そんな感じがするだけなのだろうか。それにしては、今もまだ嫌な感じがするのだが。ふと、板書に視線を戻した。翔が写した最後の部分が、先生の手で消されているところだった。やばい。翔は慌ててペンを走らせた。

 放課後、部室でユニホームに着替え始めると、隣のロッカーを使っている部員が話しかけてきた。

「なあ大内、今日授業中ずっとコウトウのこと見てただろ」

「は?」

 コウトウって誰だ?翔は一瞬考えて、今朝のことに考えが至った。ああ、あいつはコウトウというのか。翔はさも面倒そうに生返事を返した。この部員は同じクラスで、何かと翔に話しかけてくる。翔は、個人的なことにずかずか足を踏み入れてくるこの生徒を、正直うっとうしく思っていた。

「なんかあんの?」

「は?」

「お前ってああいうの好みなんだな」

「・・・え?」

 翔は思わず思い切り眉間にしわを寄せて、その生徒を見た。まだ興味深そうにこちらを見ている。固まっている翔をよそ目に、その部員は声に出さず「まあまあ」と言い、何か知ったような顔をして先に行ってしまった。しばらくその場に突っ立っていた翔は、やがて頭に手をやって大きくため息をついた。何やら、ひどい誤解を与えてしまったようだ。無理もない。授業中に一人の女子生徒を盗み見ていたのだから。そういう行動をとる人間についての常識的な見解くらいは持ち合わせている。どうしたものか。いまさら否定してみたところで、何の解決にもならないだろう。勘弁してくれ、と翔は思った。結果、翔は今朝までとはまったく違う悩みを抱えることとなった。あの部員の好奇な目を思い出す。明日にはクラス中に噂が広まっていることが明らかだった。油断していた。もう少し慎重になるべきだったのかもしれない。存在感の薄い生徒もいれば、あの部員のように何かと噂を振りまきたがるお騒がせキャラもまた、クラスに一人はいるものだ。翔は、自分もあの部員くらい単純な頭を持ち合わせていれば、悩みは半分くらいに減るだろうと思った。

 翌日、教室に入ると、ばらばらと翔のほうに視線が向いた。案の定噂は広まっているようだ。特に仲の良いクラスメイトがいるわけでもないので、声をかけてくる生徒はいないが、男子生徒も女子生徒も、各々のグループで声を潜めて話している。翔が脇を通れば、横目で不躾にこちらを見る。教室の端でクスクス笑っている奴もいる。翔はいつもより乱暴にスポーツバッグを机の上に放った。思いの外大きな音がしたからか、生徒たちはなんとなくきまりが悪そうに翔から目をそらした。

 授業中、翔は昨日より慎重に窓側の席を見た。昨日、帰ってから名簿を見て名前を確認していた。広藤 瑞奈―コウトウ ミズナ―。その名前は、ちゃんとあった。確かに、このクラスの生徒だった。翔はその時まで半信半疑だった。瑞奈は、昨日とまったく変わらない様子で授業を受けている。噂話は瑞奈の耳にも入っているはずだ。それなのに、そんなことはまるで気にしないとでもいうように、動揺した様子も、周りの反応を気にする様子も見えない。翔は、それを見て少し安心した。自分のことはともかく、人のことを自分の行動のせいであらぬ噂に巻き込んでしまうのは忍びない。巻き込んでしまったのは事実だが、それでも本人があまり気にした風でないのは、翔にとっては救いだった。今回のことは、いずれ直接謝ろう。もっとも、まだあの違和感のせいで、とても話しかける気にはならなかったが。


 翔たちの通う近海高校の前を通る道を西へひたすら走ると、海岸線へとたどり着く。二つの浜に挟まれた小高い丘を避けるようにして通っている海岸の道があり、その先にあるのが呂夕岬。この岬には、ある伝説が残っている。

 今からもう千年も昔になる。近海はその頃、大江家という富豪が領主を務めていた。当時の領主であった兼朋には、娘が一人いたが、他に子供がなかった。兼朋は優れた領主であったが、跡継ぎがいないことに大きな不満を持っていた。彼の妻、礼氏は屋敷の奥に幽閉され、兼朋以外の誰もその後の様子を知る者はなかった。

 その兼朋の一人娘、呂夕は母親に似た才女だった。兼朋は良く思っていなかったが、よく書物を読み、頭が良かった。そしてこの時、呂夕は最後の成人の儀を迎えていた。この儀は、いわば町衆へのお披露目のようなものだった。儀式自体は領家で行われるのだが、この日だけ領家の門が開放され、町衆が集まる。その町衆の前に、正装で着飾った呂夕が登場する。呂夕もまた、家の外の者たちを見るのはこの時が初めてだ。おっかなびっくり、自分を見つめる人々を見回していた。その時、呂夕は運命の出会いをする。それが、義陵という青年だった。

 義陵は、大江家にも出入りのある商人の息子だった。当時は他の番頭たちと一緒に、家業の手伝いをしていた。領家にも何度か来たことがあったが、呂夕に会うのはその日が初めてだった。他の町衆が祝福のまなざしを向ける中、義陵は一人、ただ真剣に呂夕を見つめていた。呂夕もまた、義陵に気付いた。二人はしばらく見つめあい、やがて義陵は目を伏せて、屋敷を後にした。

 その後、呂夕のもとに手紙が届いた。が、それは呂夕の手には渡らなかった。兼朋がその内容を読み、激怒したのだ。それは、義陵が呂夕への想いを伝えるために書いたものだった。呂夕には、兼朋の息の掛かった家の息子を婿とし、大江家を継ぐという定めがあった。一介の商人の息子などには、想いを伝えることすら許されない。兼朋は侍従に命じて手紙を捨てさせた。しかし、手紙はその後も何通も届いた。あるとき、侍従の一人が兼朋の目を盗み、その手紙をこっそりと呂夕に渡した。呂夕は手紙を読むと、すぐにそれが成人の儀の際に自分を見つめていた人物であるとわかった。手紙は洗練された文章ではなかったが、彼の想いがよく伝わってくるものだった。呂夕は、早速返事を書いた。書かれた手紙は侍従の手によって、こっそりと義陵に届けられた。

 それからしばらく、二人は手紙のやりとりを続けた。実際に会うことは叶わないが、それでも二人はお互いを思いやり、その想いを募らせていった。しかし、そんなささやかなやりとりさえも長くは続けられなかった。兼朋に手紙のやりとりがばれてしまったのだ。兼朋は大いに怒った。たかだか商人の息子が領家の娘に想いを寄せ、文を交わすなど、もってのほかだ。兼朋は、義陵を処刑すると言い出した。もう誰も兼朋を止めることは出来なかった。

 刑の執行当日、そのことを侍従の会話から偶然知った呂夕が青い顔をして表に出てきた。その時にはもう義陵に縄がかけられ、今にも刑が執り行われようとしていた。呂夕は、必死で止めに入った。こんなことが、許されていいはずがない。彼を殺すのなら、私も一緒にこの場で死にます。呂夕は涙ながらに訴えた。呂夕がどうしてもその場から動かないので、最後には兼朋が折れた。しかし、無罪放免というわけにはいかなかった。義陵は駒島という島に流された。

 義陵の島流しの後すぐ、呂夕はある家の息子と婚礼の儀を交わした。と言っても、そこに呂夕の意思はなく、兼朋と相手方の家の間で半ば強制的に交わされたものだった。しかし呂夕は、事実上夫となったその人物と会うことをかたくなに拒み続けた。そのまま一年が過ぎ、二年が過ぎた。その年の暮れ、兼朋は急病を患い、亡くなった。兼朋が亡くなると、呂夕はようやくその婚姻した相手と会った。そして、自分はもうこの家にいる意思がないことを伝え、領家を出て行った。

 呂夕は、祈祷師を訪ねた。大江家ともゆかりのある、由緒ある祈祷師だ。そこで呂夕は、自分の魂を地に鎮めておくための呪符を書かせた。呂夕はそれを持ち、岬より入水したのだ。いつか、その呪符が彼の手で解かれるよう祈りながら。

 それが今の呂夕岬。この岬には、今も呂夕の魂が眠っていると言われている。岬の手前の丘には社があり、呂夕の魂を静かに見守っている。


 五月ももう終わりに近づいてきた。爽やかな季節は過ぎ、日差しは熱を帯びていく。いちいち騒ぎ立てるのに飽きたのか、翔の噂もいつの間にか立ち消えていた。翔もその後は何事も無かったかのように過ごしていた。と言うより、そんなことに構っていられなかった、と言ったほうが正しいかもしれない。インターハイの時期が過ぎ、生徒たちは統一模試に県模試、そして校内模試と立て続けに模試を受けさせられ、その結果から教師にどやされ親に叱られ、皆一様に半ばうんざりとした日々を送っていた。翔も、ぼんやりと過ごしていたせいでしょっぱい点数を取り、教師から叱咤激励を受けたところだった。

 実際、忙しいながらも、翔はもやもやとしたものを抱えたままこの一ヶ月を過ごした。夢のことなど忘れてしまえばそれまでだが、クラスの中に奇妙な違和感をもつ人間がいるというのは、どうも気味が悪い。しかも、その違和感に気付いているのはどうやらクラスの中で翔ただ一人のようだ。誰も瑞奈のことを特別気にしている様子はない。確かに、目立たない感じの人物ではある。いかにも優等生そうな銀縁の眼鏡をかけ、肩を越えるくらいの髪はいつも二つに分けて束ねられている。他の生徒たちともほとんど会話をせず、クラスの行事にもあまり積極的に加わろうとしない。成績も悪くはないらしく、教師とさえも話をしているところを見ない。放課後はさっさと教室からいなくなってしまうことが多く、つかみ所がまったくない。翔もあの日直の日以来、授業中以外に瑞奈を見かけることはほとんどなかった。帰りの道すがら、翔は違和感について考えていた。今は、あの日ほどの違和感を覚えることはない。そもそも何故、あの日、瑞奈は教室に残っていたのか。日直が終わって教室へ戻った時だから、終礼が終わってから三十分は経っていたはずだ。生徒は大方部活に行くか、下校している時間だ。誰か他の生徒と待ち合わせでもしていたのだろうか。そんな様子には見えなかったが。もしや、あれは本物の瑞奈ではなかったのではないか。例えば、幽霊。いや、本人は生きているのだから、生霊のような。翔は首を捻った。そんなもの、生まれてこのかた見たことがない。それに、それはそれで不気味だし、何より、何の解決にもならない。ただ今まで通りのもやもやが残るだけだ。やはり一度、話してみるべきか。本人に確認してみるのが一番確実であるようにも思える。しかし一体、どういうキッカケで話したらいいのか。まずは、あの噂のことを謝るべきだろうか。思い巡らせ、翔は大きくため息をついた。

 その夜、翔は再び夢を見た。そこは海だった。左右には高い岸壁があり、それに囲まれるようにして、小さな砂浜になっている。日が遮られてしまうせいか、その辺りは暗く、海の色も濃い。浅瀬であるはずなのに、まるで沖合いで見るような、コバルトブルーの海が目の前に広がっている。翔は、その不思議な砂浜に立っていた。潮騒が近づいては遠のき、他には何の音も聞こえない。穏やかな海。

「ここが終着点だ」

 ふと、そんな声が聞こえた。いや、聞こえたのではなかった。それは翔自身が発した言葉だった。やがて海が明るくなり、光で満たされたとき、翔は目を覚ました。時計は朝の六時を指している。なんだかよく分からなかったが、以前見た夢のような疲労感はなく、その海のように穏やかな気分だった。そして、やはり今日瑞奈に話しかけようと思った。

 放課後、翔は瑞奈が教室を出て行くのを見届けて、なるべく目立たないように自分も教室を出た。終礼が終わったところだったこともあり、廊下には他の生徒もたくさん行き来していた。その奥を、瑞奈は歩いていた。翔もそちらの方向へと歩いた。渡り廊下を曲がって行ったので、翔はその先に目をやった。美術室だ。瑞奈は美術部らしかった。翔は瑞奈の行った先を確認して、自分はサッカー部の部室へと急いだ。

 サッカー部はもうすぐ練習試合がある。近海高校は決して強いチームではなかった。県大会でベストエイトというところだ。優勝経験は一度もない。翔も、そこまでサッカーが好きだったわけではない。中学時代は陸上部で中距離の選手だった。高校には陸上部がなかった。だから、脚が少しでも活かせればとサッカー部に入った。そんな気持ちでやっているから、試合のときはもっぱらベンチの控え選手だ。練習試合に向けて熱くなる練習も、どことなく気持ちが入らない。正直、翔にとってはどうでもよかった。そんなことに、神経を注いでいる場合ではないのだ。

 部活が終わると、翔は急いで着替え、部室を後にした。そして、美術室のほうへ向かった。渡り廊下を渡る前、窓から美術室の様子を伺った。なんだかやけに暗い気がする。嫌な予感がした。急ぎ足で渡り廊下を渡り、美術室の中を覗き込んだ。電気はついていない。西日だけが、ぼんやりとその中を照らしている。そこにはもう、誰もいなかった。遅かったか。翔は渡り廊下を戻っていった。すると、窓から下の階を歩く一人の生徒が見えた。瑞奈だ。翔は慌てて渡り廊下を渡りきり、はねるように突き当たりの階段を駆け下りた。瑞奈はまだ廊下を歩いていた。

「広藤さん!」

 翔は叫んだ。瑞奈は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。翔は瑞奈に追いつき、向き直った。

「ごめん。急に呼び止めて」

 息を整えながら、翔は言った。瑞奈はぼんやりと翔を見つめている。

「私に、何かご用ですか?」

 消え入りそうな声で、瑞奈は言った。そういえば、彼女の肉声を聞くのはこの時が初めてだ。いや、初めてではないのかもしれないが、少なくともちゃんと認識したのは今だけだ。それは、いかにも儚げで、本当に今にも消えてしまいそうな声だった。翔は思わず聞き返しそうになった。

「ちょっと話したいことがあって。時間ある?」

 翔が聞くと、瑞奈はゆっくりとうなずいた。翔は相手を促して、中庭に向かった。瑞奈もそれに大人しく従った。

「噂のこと、謝んなきゃと思ってたんだけど。ごめん」

 翔は中庭のベンチに座った。瑞奈も、その隣に腰掛ける。

「噂・・・ですか?」

 瑞奈はしばらく考えた後、小さくああ、と言った。そして翔のほうを見て大丈夫ですと言った。それきり、沈黙してしまった。翔のほうをちらと見ている。話はそれだけかと言いたげな視線だ。

「いや、迷惑かけたかなっていうか、気持ち悪いかなって思って、一応ね」

 翔はなんだか声が上ずってしまう。普段から人と話すほうではないから、どう話を進めたらいいか分からない。瑞奈は気にしている風もなく、ただ翔の言葉を聞いている。翔はなんとか話をつなげようと試みてみるが、どうもうまくいかない。これでは埒が明かない。翔は思い切って、一番聞きたかったことを聞いた。

「席替えの日のこと、覚えてる?」

 瑞奈はえ、と小さく漏らした。いきなり話が飛んだような気がしたからだ。しかし思い返して、そうでもないように思い至ったようだ。瑞奈は小さくうなずいた。

「あの日、俺日直だったんだけど・・・俺が教室戻ったとき、いたよね?広藤さん」

 瑞奈はゆっくり翔から視線をそらした。何か考えているようだ。やがて翔に向き直り、こくりとうなずいた。翔は少し安堵した。少なくとも、生霊だのという類ではなかったようだ。

「何してたの?誰か待ってた?」

 翔が聞くと、瑞奈は少し怯えたように身を縮ませた。どうやら、問い詰められたと思ってしまったらしい。そうじゃなくて、とできるだけ落ち着いた声で言いながら、翔は辺りに誰もいないのを確認した。こんなところを見られたら、またあらぬ噂を立てられかねない。今度は、好きな子をいじめているというおきまりパターンだ。そんな噂の中に立たされる自分を想像し、翔は小さくため息をついた。

「あのさ、こんなこと言われたら嫌かもしれないけど」

 翔は一拍置いて、心を落ち着かせた。瑞奈はいまだに、身を縮ませている。

「あの席替えの日から、なんか違和感あるんだ。ってか、違和感感じるんだ。広藤さんから」

 あーあ、と翔は心の中で言った。考えてみればとても酷いことを言ってしまったと、言いながら後悔した。こんなことを言われて、ショックを受けない人間がいるわけがない。最低だ。言わなければよかった。自分の中だけにしまっておけばよかったのだ。瑞奈は俯いてしまった。そのままじっと動かない。気まずい沈黙だけが二人の間に横たわっている。翔が困りきっていると、瑞奈はゆっくりと顔を上げた。

「私も」

「え?」

 翔は思わず聞き返してしまった。想像していたのとは違う第一声だった。

「私も、感じてるんです。違和感」

 それは、翔がまったく想像もしていない言葉だった。瑞奈も、違和感を感じている。それは、何に?まさか自分に対して違和感のある人間なんていないだろう。翔は考えていた。瑞奈はまた俯いてしまった。見ると、手に雫が落ちていた。

「助けてください。私もどうしたらいいかわからないんです」

 その声は、涙声が混じって余計にか細く、聞き取りづらくなっていた。静かに涙を落とす瑞奈を前に、翔はどうすることも出来ず、しばらくじっと座ったまま、ただ彼女を見つめていた。


 こんにちは。先生、よろしくお願いします。

 あれから、特に変わったことはありません。・・・なかったと思います。

 あ、そういえば。

 この前、学校で変な感覚になりました。

 頭がすごくぼんやりして。

 気がついたら、もう教室には誰もいませんでした。

 随分暗くなってて、慌てて帰ったんですけど。

 先生、私のこれは、病気なんですか?

 ・・・そうですよね。でもだったら、ちゃんと治るんですよね。

 すごく不安なんです。

 私は、生きてちゃいけないんだと、いつも思うんです。

 なんだかそういうことを、ずっと誰かに言われ続けている気がするんです。

 それも、病気のせいなんですか。

 ・・・先生、今度はもう少し強い薬をください。

 でないと私、死んでしまうと思います。

 先生、助けてください。

 助けてくださいよ。


 サッカー部の練習試合が終わった。練習試合は各校二チームつくり、全員が試合に参加する。翔にとっては久々の試合だった。翔のいたチームは負けた。相手は強豪校だったから、そのせいもあるのだろうが、そうとばかりも言えなかった。もう一つのチームは、辛くも勝利を手にしていた。

 あれから、瑞奈に話しかけたあの日から、ずっと考えていたことがあった。それはこの地方に伝わる、一つの伝説のことだ。近海の西に位置する、呂夕岬。そこにまつわる入水伝説のことを、翔は思い出していた。中学のとき、この伝承について調べるというフィールドワークがあった。その話は、日本版の『ロミオとジュリエット』とでもいう様な、悲恋の物語だ。この類の民話というのは、地方によって様々に残っているものだ。ただの作り話と、当時の翔もたかを括っていたのだが、調べるにつれてそれがまるで現実にあった話のように具体的な資料が残っていることが分かった。翔は、少し不気味に感じながら調査をしていた。今、その伝説のことを思い出したのは、あの夢のせいだった。はじめに見た、翔がうなされた夢。その夢で見た船着場が、翔の記憶の場所と合致したのだ。呂夕岬の南側にある海岸。そこは、呂夕の恋人だった義陵が島流しにされたときの船着場だった。翔はぼんやりと、何かがつながり始めていると感じていた。翔は、生まれた時からここ近海に住んでいたわけではない。十歳のときに引っ越してきたのだ。以前住んでいた町から程ないところに、駒島という無人島があった。そしてそこはかつて、義陵が流されたとされる島だった。

 六月も半ばに入った日曜日。外は雨が降っている。近海の地方も梅雨入りし、最近はどんよりとした天気が続いている。翔は図書館に来ていた。瑞奈も一緒だった。図書館の中も、外が暗いためかどこか陰気な感じがした。二人は、郷土資料を保管してあるコーナーにいた。翔が中学の頃、フィールドワークで使った場所だ。

「呂夕岬の伝説を知ってる?」

 翔は瑞奈に向かって話しかけた。瑞奈は翔を不安そうに見つめた。

「聞いたことはありますが、詳しくは・・・」

「そう」

 翔は戸棚から、近海の伝承についての資料を抜き出し、机のほうに向かった。瑞奈もその後からついていく。翔は空いている机の上に資料をばさりと下ろすと、座りもせずにぱらぱらとページをめくり始めた。瑞奈は机の反対側にまわり、そんな翔の様子と、めくられていく資料を見つめている。それは、かなり古い本だった。それも、本と言うよりは冊子と言ったほうがしっくり来るような、粗雑な製本をされたものだった。表紙は画用紙のような紙で、中紙もわら半紙をもっと薄くしたような紙だ。日焼けし、折り目や破れもある。

「これだ」

 目的のページを見つけた。呂夕伝説。

「ちょっとこれ読んでて」

 開いたページを瑞奈に示し、そう告げて翔はまた資料のコーナーに向かった。瑞奈は戸惑いながら、椅子に座って資料に目を落とした。

 翔は当時の近海の地図を開きながら、考えていた。翔が見た、奇妙な夢。そして呂夕伝説。その奇妙な一致は、偶然ではないと思えた。そして瑞奈と会い、違和感を感じ取ったあの日の夜にその夢を見たことも、また偶然ではないような気がした。翔は、瑞奈を泣かせてしまったことにも多少の責任を感じていた。「助けてください」と彼女は言った。でも、翔には瑞奈を助ける方法がない。一つだけ確かなことは、他の人が誰も気付かなかった違和感に、翔だけが気付いたという事だ。だったら、手を貸せるのは翔しかいない。翔は何か、手がかりを探していた。呂夕伝説が関係しているのか、翔には自信がなかった。だが今のところ、瑞奈の違和感とつながりそうな情報はこれしかなかった。だから翔は、瑞奈と図書館でこの伝説について調べ直すことにした。そもそも、違和感の元になっているのは何なのか。もしこの伝説と関わりがあるとしたら。例えば、呪いとか。瑞奈が呂夕の霊に呪われている。あるいは、取り憑かれている。それなら、何となくイメージが出来る。伝説によると、呂夕は入水する前に、祈祷師に呪符を書かせている。しかし、呪符についての詳しい説明はされていない。伝説を書き留めた書物にも、「魂をその地に鎮める」と書かれているだけだった。フィールドワークのときも、あまり気には留めなかった。翔は、地図を閉じて戸棚に戻すと、一般書架の「歴史・宗教」と書かれた書棚へ向かった。

 翔が本を持って机に戻ると、瑞奈はまたぼんやりと、しかしどこか困ったような顔をして座っていた。

「どう?読み終わった?」

「え・・・はい」

 瑞奈は不安そうに翔を見てうなずいた。翔は瑞奈と向き合うように座ると、持ってきた本を広げた。

「広藤さんは、夢とか見なかった?」

「夢・・・ですか?」

「今読んだやつに出てきたようなところ、夢に出てきたことなかった?」

 瑞奈は首を横に振った。以前質問をしたときのように、ぼんやりと考える様子はなかった。

「私、夢を見たことがないんです」

 え、と翔は少し驚いたように言った。そんなこともあるのか。翔も普段あまり夢を見ることはないが、まったく見ないとは。とにかく、この伝説に関わる夢を見たのは、翔だけのようだ。

「あの」

 翔が本のページを繰ろうとしたとき、初めて瑞奈のほうから声をかけてきた。翔は瑞奈のほうを見た。

「この伝説が、一体どうしたんですか?」

 瑞奈はとても不安そうな顔をしていた。翔は、今まで思い至らなかったと言うようにああ、と漏らした。そういえば、こちらから色々聞きはしたが、瑞奈に対して何の説明もしていなかった。

「何か関わりがある気がするんだ。広藤さんと」

 翔は今までのいきさつを説明した。瑞奈は相変わらずぼんやりした表情だったが、それでも翔の話を真面目に聞き、理解しているということが分かった。それで翔は、自分が考えていることについて、すべて話して聞かせた。

「例えば、何か呪いみたいなものがあるのかと思って」

 そう言って翔は広げていた本を指した。それは、古代の呪術や妖術についての本だった。翔が広げたページには、ちょうど伝説の時代辺りに、近海を含む地方で行われていたという呪術のことが書かれていた。当時、地方にはそれぞれ祈祷師がおり、病気を治したり、畑の実りを良くしたりという祈祷やまじないを行っていたらしい。ページの左隅には、写真が載っている。それは、当時実際に使われたという呪符の写真だった。今でいうお札のようなもので、木の板切れに墨でなにやら文字が書かれている。呪符の用途は主に、旅人や猟師などの安全を祈るというものだった。呪符には自分の魂の一部を込めることができるとされていた。それで出かける前に呪符を作り、それを帰るべき家などに奉っておくのだ。無事にそこへ、帰って来れるようにと。伝説の中にも呪符が出てくる。呂夕が祈祷師に書かせた、魂を地に鎮めるという呪符。しかしその本にも、そういった用途についてはあまり詳しく書かれていなかった。あと一歩のところで行き詰ってしまったように思えたが、すぐに翔はそうでもないことに気付いた。呪符には、魂の一部を込めることができる。だとすれば、呂夕が書かせたという呪符にも、呂夕の魂の一部が込められているということではないか。もちろん、実際にそんなものがあればの話だが。

「やっぱり、この伝説と関わりがあるんだと思う。これは、呂夕の呪いなんだよ」

 瑞奈は、やはりどこか不安そうな目で翔を見ていた。


 ―おやめください。

 どうして、あなたがここにいるのですか。

 ―何故この方を殺すのですか。

 もういいのです。これでいいのですよ。私のことで、どうか気を病まないでください。

 ―この方を殺すというなら、私も一緒にこの場で死にます。

 お願いですから、そんなことを言わないでください。それでは、私が刑を受け入れた意味がない。

 さあ、もう悲しまないでください。もういいのです。私は、十分幸せでした。

 あなたは、どうか幸せに、生きてください。今のあなたなら、そのための道を選ぶことができるはずなのですから。

 ―――

 翔は目覚めていた。窓の外には、眩しすぎるほどの満月が輝いている。

「でも、伝えられなかった」

 翔の頬を、静かに涙が伝った。もう月の輪郭がぼやけて見えない。

「伝えればよかった。伝えられなかった」

 ただ静かに涙を流し、泣き疲れた子供のように、翔は眠りについた。


 梅雨はいつの間にか明けていた。空には大きな入道雲が浮かび、季節は完全に夏へと変わった。晴天は肌を灼く程の暑さをもたらす。翔と瑞奈はと言えば、お互いに忙しい日々を送っていた。一学期も終わりが近づき、期末テストに向けて補習の時間が増えた。翔の所属するサッカー部は、次の大会に向けて練習もだんだんハードになっていった。瑞奈も、美術部でコンクールに出す作品を描かなければならなかった。それで、図書館に行ったあの日以来、気になっている伝説についても新たな情報を得られないでいた。

 翔は部活を終えて、帰ろうとしていた。生徒玄関を出ると、意外な人物がそこにいた。

「あれ、広藤さん」

 瑞奈はいつもと変わらない格好で、そこにいた。それは明らかに翔を待っていたという感じだった。

「どうしたの?」

 翔が話しかけると、瑞奈は困ったような表情をした。

「あの・・・」

 瑞奈は言葉を捜すように、翔から視線をそらした。翔は不思議そうに瑞奈を見ている。

「少し、気になることがあるんです」

 気になること、と翔は繰り返した。瑞奈は、さらに困ったような表情をした。言葉を捜している。そんな感じだ。翔はしばらく瑞奈の言葉を待っていたが、やがて外へ歩き出した。瑞奈は慌てて翔を振り返った。

「あの」

「ここじゃ話しにくいだろうから。来なよ」

 そう言って翔はさらに先へ歩いていく。瑞奈はその後を慌てて付いて行った。

 夏の陽は長い。部活が終わった帰りだからもう結構な時間なのだが、町はまだ夕日の橙に染まっている。西から差す陽はまるで何かを惜しむように、行き交う人々を照らしている。からからと、引いている自転車の車輪が鳴るのを聞きながら、翔はなるべくゆっくり、瑞奈と並んで歩いた。瑞奈はバス通学だから、そのバス停まで送る。その道すがら瑞奈が言いたいことを話してくれればいいと思った。歩きながらのほうが妙に頭がさえて、考えをまとめ易かったりする。そんな経験を、翔自身も今までに何度かしている。

「それで、気になることって?」

 校門を出てしばらく歩いたところで、翔は横を歩く瑞奈に聞いた。瑞奈は一瞬翔のほうを見て、目を伏せた。

「あの伝説のことです」

 瑞奈の声は、相変わらず小さい。からからという自転車の音や、雑踏にかき消されてしまいそうだ。翔は少し身をかがめるようにして、黙って先を促した。

「私は、岬の近くの恵比寿町というところに住んでいます」

「うん。それで?」

「うちの近く・・・と言っても、より岬よりですが、そこに、小さな社があるんです」

 ああ、と翔は思い当たった。その社なら覚えがある。呂夕伝説を調べるフィールドワークをした際に、実際に伝説の舞台となった岬の周辺で聞き取り調査をしたことがあった。調査の内容自体は覚えていないが、確かその帰り際に社の前を通ったのだ。丘の上に建つ、本当に小さな社だ。そのわりに、翔が見たときには綺麗に掃除されていた。それがなんとなく不気味に思えたのを覚えている。

「その社を守っているのが・・・」

 ふいに、瑞奈は言葉を途切れさせた。何かためらっている様子だ。

「守って、いるのが?」

 翔は先を促すように聞き返した。瑞奈はやはり困ったような顔をして、翔を見た。

「呂夕に呪符を書いた祈祷師の子孫の方、なのだそうです」

「・・・え?」

 翔は思わず足を止めた。瑞奈も立ち止まる。伝説に関わっていた人物の、子孫が存在している。その情報に、翔は少なからず動揺した。どこかでまだ、それがフィクションであるような気がしていた。と言うよりも、フィクションであればいいと思っていた。なのに現実は、それが実際に起こった事件であることを裏付けるようなことばかりが起こる。

「それは・・・確かな情報?」

 翔は声がかすれそうになるのを、必死で押さえた。なんだかすごく、喉が渇くような感じがする。瑞奈は少し俯く。

「多分、そうだと思います」

 話はそこで途切れた。気まずい沈黙が二人の間に落ちる。バス停は、もうすぐそこだ。

「行ってみよう」

「え?」

 唐突に翔が言ったので、瑞奈は驚いたように翔のほうを見た。

「せっかく自分で掴んだ手がかりだ。確かめてみたほうがいい」

 その時、道の向こう側からバスがやって来た。二人は慌てて走り出す。走りながら翔は瑞奈に聞いた。

「下りるバス停は?」

「恵比寿北です」

「次の日曜日、予定ある?」

「いえ、何も」

「じゃあその日、恵比寿北のバス停で待ち合わせよう」

「はい」

 バス停に着くと、ちょうどバスのドアが開いた。瑞奈はそのバスに飛び乗る。

「十時に」

「はい」

 言い終わると同時に、バスのドアが閉まった。バスはそのまま、翔を置いて出発した。


 それはよく晴れた、とても暑い日だった。朝から気温はぐんぐん上がり、じっとしていても汗ばむほどだ。家を出ると、翔は駅に向かった。翔の住んでいる家は、北近海という駅の近くにあった。北近海からバスに乗る。近海駅や市役所によりながら、海岸線へと向かうバスだ。

 バスの中は閑散としている。この時間は、海岸に向かうほうのバスより、逆に駅に向かうバスのほうが乗客が多い。翔が乗っている路線は、海岸線と言っても旅館街などに行くわけではないから、余計に空いている。路線バスに乗るのなど、いつ以来の事だろう。中学も自転車通学だったから、本当に久しぶりだ。定期がないから、小銭がなければ両替しなければならない。翔は前のほうの席に座った。

 恵比寿北までは、バスでおよそ三十分の道のりだった。その間、二人がバスを降り、四人が乗りこんだ。翔が降りた恵比寿北では、乗り降りする客は他にいなかった。ドアが開くと、思い出したかのように激しい蝉の鳴き声が響く。まだ午前中だというのに、日差しは町の輪郭を霞ませるほどに降り注いでいる。翔は時計を見た。あまりに眩しいので、時計の上に影を作らなければ文字盤が見えない。まだ約束の時間まで少しある。バス停は、ただ表示板が立っただけの簡素なものだ。周りに座って休めるような場所はない。翔は辺りを見回した。昔ながらの港町といった風情だ。バス停の前には古いタバコ屋があり、他にも何軒か家が立ち並んでいる。どれも木造の、かなり年季の入った建物だ。軒並みの切れた場所からは海岸が見えた。波消しブロックが、日差しに白く光っている。日曜のこの時間、車の往来はほとんどなく、蝉時雨が余計にその静けさを引き立たせる。まるで原風景を見ているかのような、懐かしささえこみ上げてくるような風景。

 そうしている内に瑞奈がやってきた。ちょうど十時だ。すぐそこの路地から出てきたのに、その姿は陽炎にゆれている。

「お待たせしました」

 軽く会釈をして、瑞奈は小さく言った。私服姿は初めて見る。白いワンピースに、紺のボレロを羽織っている。ワンピースの軽やかなスカートが、海からの風にさらさらと揺れる。翔は軽く手をあげて応える。

「じゃあ、行こうか」

「はい」

 瑞奈はその社のほうへ歩き出した。

 翔は、町の様子を見ながら歩いた。潮風にさらされた家や建物は、錆や腐食で茶色や黒に染まり、ひなびた印象を与えている。やがて、海岸側からは建物が姿を消し、道の先に海と岬がのぞいている。

「何でここから民家がないんだろう」

 沈黙に若干の気まずさを感じ、翔は瑞奈に尋ねた。

「ここは、恵比寿町の外れにあたります。この辺りは、ちょうど大江家の私有地だった場所なんです。大江家は随分前に途絶えているんですが、今もその名残で家は建てられていないんです」

 瑞奈は、翔が思っていたよりもずっと流暢にその経緯を話した。翔は少し驚いたように瑞奈を見た。瑞奈は、翔のほうをちらりと見て、またまっすぐ道の先を見つめた。

「ありがとうございます」

「え?」

 瑞奈は前を向いたまま言った。翔は少し眉を寄せて、やはり瑞奈を見つめる。

「私なんかのために、ここまでしてもらって」

 翔はああ、と漏らした。瑞奈は少し俯く。彼女は彼女で、引け目を感じているようだった。関係のない翔を巻き込んでしまったということに。

「別にいいよ。俺が勝手に首突っ込んでるだけだし」

 翔はあたかも気の抜けたような声で応じる。改まった空気は苦手だ。それに、それは翔の本音でもあった。自分は、勝手に首を突っ込んだだけ。別に苦でもない。瑞奈に助けを求められた。その助けに、自分がなれるかもしれないと思った。本当に、ただそれだけのことだった。

 そのうちに、件の社の前に着いた。社へと続く階段は、両脇を広葉樹の林に囲まれていて暗い。蝉の鳴き声が、一層激しさを増した気がする。翔と瑞奈は、その広葉樹のトンネルを静かに上った。ふいにざっ、ざっ、という音が聞こえた気がして、翔は足を止めた。それは、上から聞こえてくるようだった。誰かいる。その音を瑞奈も聞いたらしく、二人は顔を見合わせた。そして、意を決したように再び階段を上った。その先に、音の正体が見えた。箒で、社の周りを掃く音。そこにいたのは、装束をきっちり着込んだ初老らしい巫女だった。階段を上りきって、二人は立ち止まった。やがて巫女のほうも、こちらに気がついて動きを止める。翔たちを見て、彼女は少し驚いたような表情をしたが、すぐに微笑んで会釈をした。二人も、ぎこちなくそれに応える。

「ご参拝でございますか?」

 にこやかに、優しい声で巫女は尋ねる。

「あ、いえ・・・少し、お伺いしたいことがあるんですけど」

 翔が少し困ったように切り出すと、巫女は首をかしげながらも、何か心得たように言った。

「それでしたら、こちらへどうぞ」

 巫女はその社のほうへと翔たちを招いた。二人はためらいがちに、巫女の後についていく。

 社の中は意外と広かった。畳敷きで六畳ほどのスペースがある。奥にある祭壇は小ぢんまりとしていて、しかしきちんと調えられている。巫女は翔たちと向き合って座る。

「それで、ご用件は?」

 巫女の声色はどこまでも優しい。

「実は、僕らは呂夕伝説について調べているんです」

「ああ・・・それでこちらに」

 巫女は合点がいったという様にうなずきながら、少し悲しげな表情になった。

「どこからお話すればいいでしょうねえ」

「呪符のことをお聞きしたいです」

 伏し目がちに、巫女はそうですかと応え、二人に向き直った。

「私は、この社を代々守る荻原家の者です。名を京愁と申します」

 巫女は静かに語り始めた。

 この社が立つ丘は、古くは祈祷を行うための場所であった。京愁というこの巫女の先祖は、ここで長年祈祷を行っていた名家だった。大江家とも長く親交があった。呂夕に呪符を書いた当時の祈祷師は、呂夕のことを幼少の頃から知る数少ない人物の一人だった。呂夕に呪符を書くことも、本意ではなかった。祈祷師はその申し入れを拒否し、呂夕を帰そうとしたのだが、呂夕の意志はあまりに固いものだった。最後には祈祷師のほうが根負けし、呪符を書いて呂夕に渡したのだという。

「その呪符というのは、どういうものだったんですか?」

「私どもの家に伝わっている話では、魂をその土地に封じるものだということです」

 その呪符の名を「封土符」という。人の魂は、輪廻転生を繰り返すといわれている。その魂を転生させず、その地に永久的につなぎ止めておくというものだ。そもそも呪符というのは、木札に呪言という文言を書き込んだもので、普通は対になっている。片方は呪符の効果の対象となる者が持ち、もう片方は呪符の力を掛けようとする者が持つ。例えば、よく使われていた旅人が持った呪符であれば、効果の対象となるのは旅人であり、その効果を掛けるのはその旅人が無事帰ることを願う者、多くは家族である。だがこの封土符は呪符の中でも特殊なもので、はじめ対で作った呪符の一方を祈祷師の手で燃やしてしまう。これは呪符に込める呪力が非常に強いことを示す。用途も特殊なため、ほとんど作られることはなかった。魂を解放するためには、その呪符を壊さなければならないが、呪符自体に守護の力があるため、簡単に壊すことはできない。

「ただ・・・」

 巫女はそこで言葉を詰まらせた。

「ただ?」

 翔は先を促す。巫女は、ためらうように視線をそらし、その迷いを振りきるように口を開いた。

「その呪符の力が、なぜか弱くなってしまったようで、二十年ほど前、呂夕様の御霊が解放されてしまったようなのです」

「え?」

「呪符の力が完全に消えてしまったわけではありません。そのまま御転生になられたとしても、完全な形では転生できないのです」

 寒気のするような思いだった。なんだか怪談でも聞いているような気分だ。呪符だの転生だのという言葉を、巫女はこともなげに口にする。しかし、怖がっていては始まらない。翔は頭の中で情報を整理しようとした。呂夕の魂は、呪符から解放されている。しかも、二十年も前に。その魂は、完全には転生できない・・・。

「完全に転生できなかった魂は、どうなるんですか?」

「そこまでは私にもわかりませんでした」

 巫女は言葉を切った。翔は眉根を寄せた。「わかりませんでした」という過去形が引っかかる。巫女の表情は相変わらず優しげだが、そこには真剣な面持ちがある。

「これからお話しすることは、あなた方の人生を変えてしまうかもしれません」

 巫女は少し声を潜めて言った。あなた方というのは、もちろん翔と瑞奈のことだ。あまりの言葉に、二人はお互いに顔を見合わせた。

「どういうことですか?」

「話しても、よろしいですか?」

 巫女は二人の目を交互に見つめた。翔には判断がつかなかった。「人生を変える」などという強い言葉は、そう聞くものではない。だが、話の内容を聞いてみないことにはそれが何を意味するのかはわからない。

「話して、頂きたいです」

 ふいに、そう声を上げたのは瑞奈だった。ここへ来てから、話はずっと翔が進めていた。翔は瑞奈のほうを見た。瑞奈も、翔のほうを見る。不安げな顔をしている。

「私は、お聞きしたいです。それを聞いてしまって、その後どんなことが待っているとしても。あの、もしお嫌なら、私だけ聞かせてもらいますから」

 瑞奈は翔を伺い、遠慮がちに言う。翔は、正直戸惑っていた。一体、この巫女は何を話そうとしているのだろう。そんなに、自分たちの人生に影響のある話なのだろうか。そう思いながら一方では、今更という気もしていた。ここまで足を突っ込んでしまったのだから、ここで話を聞こうが聞くまいが、差して変わりはないのではないか。

「話して下さい」

 それが翔の答えだった。

「それでは」

 巫女の表情には緊張の色が浮かんでいる。翔も改めて姿勢を正す。

「私には、あなた方が呂夕様と義陵様の御転生になったお姿であるように思えるのです」


 ―私は、信じております。いつか再び、必ず―


 急に、翔は白昼夢のように一人の女性の姿を見た。それは夢で見たその人だった。いつかの夢で見た海辺を背景に、涙を湛えた瞳でまっすぐに見つめている。その人は、泡沫のような白の衣を纏った、儚げな少女。

 一瞬のことで、翔は混乱した。今のは、一体。そして、今巫女はなんと言ったのか。自分たちが、呂夕と義陵の生まれ変わりだと、そのようなことを言わなかったか。翔は隣に目をやる。瑞奈は息を呑んだ表情のまま、身をすくめている。

「それじゃあ、私は」

「もちろん、あなたが呂夕様の御霊を引き継いでおられるということになります」

 そして巫女は翔のほうを見た。

「そしてあなたが、義陵様の御霊を」

 ああ、そういうことか。翔は未だはっきりしない頭で、理解した。瑞奈は呂夕に呪われているどころか、本人の生まれ変わりだった。そして自分は、その呂夕の想い人だった義陵の生まれ変わりだった。だから、瑞奈の違和感に翔だけが気付いた。普通なら、にわかには信じられない話だが、今までに起きたすべてのことがそれを事実であると裏付けている。

「病気じゃなかったんだ」

 ぽつりと、瑞奈が呟いた。今までよりも、ずっとかすかな声で。

「え?」

 翔は思わず聞き返した。病気とは、一体。瑞奈は俯いていたが、翔のほうに顔を上げた。するとその両頬を涙が伝う。

「ずっと、精神科に通っていました。これは、病気のせいなんだって。でも、違ったんですね」

 瑞奈は、違和感の原因が分かったことに安堵したようだった。しかしそれと同時に、「病気ではない」とはっきりと分かってしまったことへの、ある種の絶望も感じているようだった。病気のせいだと思っていたから、いつかは治ると信じることができた。だが、原因は他にあった。それは、自分ではどうすることもできないことのように思えた。すると、そんな瑞奈の手を巫女がとり、その場に伏した。

「申し訳ございません」

 瑞奈は驚いたように目を見開いた。巫女を見つめ、じっと動かない。巫女はほんの少し頭を上げる。

「もっと早くお会いできていれば、あなたがそこまで苦しむことはなかったでしょうに」

 巫女は苦しそうに言う。瑞奈は困惑した。

「でもそれは、あなたのせいではありませんから」

 巫女はそれでもなお首を振る。瑞奈は困り顔で巫女を見る。

「私は、ここでお待ちしていることしかできませんでした。あなたが、あなた方が来られるのを。二十年間、ずっと・・・申し訳ございません」

 二人のやりとりを、翔は横から黙って見ていた。巫女の声は、本当に苦しそうだった。自責の念なのだろう。巫女がなぜそこまで自分を責めるのか、翔にはわからなかった。呂夕伝説に直接関わった人物の子孫だからなのだろうか。あれこれ考えているうちに、ふと翔にはあることが引っかかった。

「すみません。今、もっと早くお会いできていればって、言いませんでした?」

 翔の言葉を聞いて、巫女はゆっくり頭を上げ、翔のほうを見た。

「ええ。確かに」

「ということは、あなたは何か解決する方法を知ってるって事ですか?」

「解決というのは、この方のお悩みのことですか?」

 翔はうなずく。瑞奈を見やると、未だ不安が消えない顔を翔に向ける。

「確信があるわけではありませんが」

 二人は再び巫女を見る。

「あなたが呂夕様の御霊を引き継いでおられるのであれば、あなたの御霊の一部はまだ呪符によって封印されたままということになります。もしあなたが抱えてきたお悩みがその封印のせいであるのなら、呪符の封印を解けば、解決するはずです」

「そんなこと、出来るんですか?」

「ええ・・・幸いなことに」

 巫女は翔のほうを見た。彼女の表情には、優しい笑顔が戻っていた。

「鍵は、あなたです」

「僕、ですか」

「そうです。呪符は、いつか義陵様がお帰りになったときに、呂夕様の御霊が解放されるよう呪が掛けられております。あなたが義陵様の御霊を引き継いでおられるのであれば、呪符の力を解くことができます」

 翔は目を丸くした。その表情で瑞奈を見る。瑞奈もまた、驚きの表情を浮かべていた。瑞奈を救えるのは、本当に翔だけだったのだ。なんという巡り合せだったのだろう。いや、もしかしたら、二人は出会うべくして出会ったのかもしれない。今ここに生きる二人は、呂夕が入水したおよそ千年前から、あまりにも長い時間をかけて、ようやく再会を果たしたのかもしれなかった。

「その呪符のある場所を、教えていただけますか」

 巫女は優しく微笑んだ。

 翔たちが立ち去る姿を、巫女は微笑ましく見守った。そこには、深い安堵の表情が浮かんでいる。

「やっと、終わるのですね、姫様」

 静かに、巫女はそう呟いた。その声を聞いた者はいない。そこには彼女の、また彼女の祖先の物語があるのだが、それはまた別の話である。


 海はどこまでも青かった。ここは、社からさらに奥へと歩いてきたところにある、岸壁に囲まれた小さな砂浜。呂夕岬とその奥の崖に挟まれ、忘れ去られたようにそこにあった。浜以外の場所は岸壁のため、浜へは細い坂道を下って辿り着く。人が一人やっと通れるほどの狭い坂だ。日差しは周りの岸壁に遮られ、浜は上からは想像できないほど暗い。そのせいか、海は濃い色をしている。

 ―ここが終着点だ。

 ここだったのか、と翔は思った。それは、一度夢で見た海辺に他ならなかった。

 二人はしばらく、その海を眺めていた。とても不思議な気分だった。あれほどの蝉時雨が、この浜へ降りると遠く聞こえる。その代わりに、潮騒が心をざわめかせるように響いている。まるで、ここだけが外の世界から切り取られてしまったかのような別世界だ。翔は、懐かしささえ感じていた。この海は、翔にとって原風景のような場所だった。奇妙な話だ。翔はこの地で生まれ育ったわけではない。翔が引っ越してくる前に住んでいたのも海の近くの町だったが、このような浜はなかった。それは、遠い記憶なのだと思った。遠い昔、義陵が見た景色。そこに今、翔の姿になって帰ってきたのだ。

 呪符は、岬の周辺にあるであろうということだった。呂夕は、その呪符を持って岬から海へと舞ったのだという。そんなものが現在も残っているというのは信じがたいが、やっとここまで辿り着いたのだから、確かめてみるだけの価値はある。岬の下の海へは、この砂浜から岸壁に沿って進むしかない。

 先に瑞奈が動いた。砂浜の端へと歩いてゆく。翔はその後に続いた。日が差さないためなのか、この時期にしては浜の砂も海の水も冷たい。やがて足元は砂地から岩場へと変わる。瑞奈は少しよろめきながら翔の前を歩く。岩場は滑りやすい。翔も足元を注意深く見ながら進む。岸壁に沿いながら歩いているが、それでももう結構な深さがある。瑞奈はワンピースの裾をあげながら、翔はズボンの裾を折り上げながら進んでいたが、それでも波が押し寄せると海水が掛かった。翔は半ば諦めて、足元に集中した。だんだん足場は悪くなっていく。それに加えて海も深くなっていく。瑞奈は波が打ち寄せるたび、体が大きく揺れて今にも倒れそうだ。瑞奈は岸壁に半ば寄りかかるようにしながら、なんとか進んでいる。翔は瑞奈の海側の腕を支えてやる。そうして、なんとか二人は岬の下へと進む。

 砂浜から、随分と歩いた。海水はもう二人の腰辺りまで届こうとしている。岩場はより複雑な形を成し、翔でさえ足を取られそうになる。これ以上進むのは、危険であるようにも思えた。その時、ふと瑞奈が立ち止まった。翔もそれにあわせて足を止める。瑞奈は、しばらく動かなかった。翔は瑞奈の様子を覗き見た。視線が、足元の一点で止まっている。翔はその視線の先を見た。

「・・・これ?」

 海の底に、何かがあるのが見える。それは、いつか図書館で見た本に載っていた、あの木の札によく似ている。本当に、あった。翔は背筋を冷たい汗が流れるのを感じた。今目の前にあるものは、すべてが現実であるという、何よりの証拠。翔はそれを複雑な気分で見ていた。瑞奈は、前かがみに海へ腕を入れた。よろめきそうになるのを、翔が支える。瑞奈が札を拾い上げた。呂夕の時代から、今の今まで海水に浸かっていたとは思えないくらい、その札は綺麗な姿をしていた。木はいまだにしっかりとした形と色を保っていたし、そこに墨で書かれた文字も十分に読み取れるほど鮮明に残っている。呪符には、その札自身を守護するよう呪が掛けられている。そのために、今までこのような姿を保ってきた。ただよく見ると、その札の中央あたりに細い亀裂のようなものが見える。一見、木目と見分けがつかないほどの黒い筋だが、その線だけが奇妙な方向に曲がり、他の木目に比べてより濃く刻まれている。巫女が言っていた、呪符の力が弱まってしまったことが影響しているのだろうか。

 瑞奈は、その札を翔に差し出した。巫女の話が本当であれば、瑞奈が本当に呂夕の生まれ変わりであれば、この呪符の呪を解くことで違和感は消えるはずだ。そのためには、翔がその呪符に触れることだという。呪符は、義陵の帰郷によって呪が解けるように作られていた。翔が義陵の生まれ変わりであるのなら、翔が触れれば、呪は解かれるということだった。翔は、差し出された札を受け取った。

 すると、札は翔の手の中でぼろぼろと崩れた。今までの札の様子が嘘だったかのように、札は木っ端となり、さらに小さく崩れて風に舞う。そしてまるで灰のようになったそれは、翔の手からこぼれて海へと落ちていく。とても不思議な光景だった。まるで止まっていた時の流れを一気に受け入れたかのように、風化するように、翔の手から海へと崩れ落ちていく。

 翔と瑞奈は、その様子をただ見つめていた。これで、呪が解けたということなのだろうか。翔は瑞奈を見やった。瑞奈は、翔の視線を感じて顔を上げた。その顔には驚きとともに、今までに見せたことのない明るい表情が浮かんでいる。

「ありがとう」

 瑞奈が初めて見せた笑顔だった。それまで瑞奈が纏っていた違和感は消えていた。翔は確信した。これで終わったのだ。

「良かった」

 翔はため息とともに小さく呟いた。瑞奈とともに、翔も安堵していた。瑞奈の違和感に気付いたときから、瑞奈の悩みは翔の問題でもあった。「助けてください」と言われた。自分に一体何が出来るのかわからなかった。唯一の手がかりに望みを託した。自分にしか瑞奈を助けられないと知った。そして今、すべてが終わった。

 瑞奈は嬉しそうだった。その笑顔は輝いて見えた。ふと、翔は夢で見た女性の姿を思い出した。おそらくそれは、義陵が見ていた呂夕の姿だったのだろう。その面影は、どことなく今の瑞奈と重なるところがあった。今までは気付かなかった。それは、これが瑞奈の本来の姿であるという何よりの証拠に思えた。呂夕の生まれ変わりとして、この世に生を受けた瑞奈。しかしその存在は、その呂夕が書かせた呪符によって封印されたままの不安定な存在だった。今、その呪符の力から解放されて、ようやく自由な生を受けたのだ。瑞奈は、その自由を感じているようだった。そして、その喜びを一身に味わうようにして、その場に崩れ落ちた。

 翔は一瞬、何が起きたのか分からなかった。とっさに、瑞奈の体を支えた。瑞奈は、気を失っていた。翔が呼びかけても、返事はない。今の今まで笑顔を浮かべていた少女は、嘘のように動かない。その時、暗かった海に光が差した。空はオレンジに染まり、夕日が浜の海を強く照らしていた。それはまるで、いつかの夢でほんの一瞬見た光景のようだった。


 蝉の声が、辺りの静けさを一層引き立てていた。夏はもう終わろうとしているのに、海の上にはまだ大きな入道雲が浮かんでいる。日差しはいよいよ強く、景色が白く霞むほどだ。

「ごめんください」

 翔は一軒の家の引き戸を開けた。ガラガラと、大きな音がする。玄関の暗がりに目が慣れるまで数秒かかった。ばたばたと、奥から人が走ってくる音がする。四十代くらいの女性だ。

「こんにちは」

「どうも。上がってください」

 女性は慣れた手つきでスリッパをそろえる。翔は靴を脱いで家に上がった。

「今日はどうですか?」

 翔が聞くと、女性は俯いて首を横に振った。女性は翔をひとつの部屋に通した。女性がノックしてドアを開けると、そこには瑞奈が寝かされている。

 あれ以来、瑞奈は一度も目覚めていない。翔が砂浜まで運び、その後救急車で病院へと運ばれたが、原因は不明だった。不思議なことに、何の異常も見つからないのだ。ただ、意識だけが戻らない。数日は入院していたが、治療を行うわけではないため、今はこうして自宅で寝かされている。

 女性がお茶を持って戻ってきた。この女性は瑞奈の母親だ。目元が瑞奈と似ている。

 夏休みに入ってから、翔は毎日見舞いに来ていた。始めのうちは母親にも戸惑いがあったようだが、そんな日々がもう二十日以上続いている。なんとなく、それが日課のようになってきたところだ。

 翔は、責任を感じていた。こうなってしまったのは自分のせいではないか。どうか、早く目覚めて欲しい。いつも母親の「目覚めました」の一言を期待しながらここへ来る。そんなこちらの気を知ってか知らずか、本人は至って穏やかに眠っているように見えた。その表情は、今にでも目覚めるのではないかと思えるくらい、本当にただ眠っているだけのようだ。

「どうして、目覚めないんでしょうね」

 翔の気持ちを悟ったかのように、母親が小さく呟いた。その横顔は、疲れからか少し老け込んで見えた。

「大丈夫です」

 翔は瑞奈に視線を戻して言った。

「必ず、目覚めますから」

 その声は力強かった。必ず、目覚める。それは、翔の確信にも近い自信だった。呪符の力は無くなったのだ。その瞬間を目にした翔には、はっきりと分かる。あの時、瑞奈はようやく生まれたのだ。すべてが終わった。それとともに、瑞奈の本当の人生はまさにあの瞬間から始まったのだ。これは、その始まりを受け入れるための儀式のように思えた。

 翔が見舞いに通っているのは、ただ責任を感じているからだけではない。もっと大切なことがあるのだ。瑞奈が目覚めたとき、傍にいたいと思った。今、瑞奈は翔にとって誰よりも大切な存在になっていた。

―あなた方の人生を変えてしまうかもしれません。

 巫女が言った言葉が蘇る。確かに、そうかもしれない。

 翔は義陵のことを考えていた。生まれ変わりといっても、義陵のすべてがわかるわけではない。翔が知ることができたのは、夢で見たことくらいだ。しかし、その想いは知ることができるような気がした。義陵は呂夕を大切に思っていたからこそ、理不尽な刑をも受け入れることにしたのだと思う。義陵は手紙に一体どんな言葉を紡いだのだろう。もしもその手紙が残っているとしたら、いつか読んでみたいと思った。

 翔は窓際に目をやる。そこには昨日翔が持ってきた花が生けられている。母親から聞いて知った、瑞奈が好きだという花。

 その時、翔の隣に座っていた母親が腕を掴んだ。驚いて母親のほうを見ると、彼女は瑞奈を見て固まっている。翔も、ゆっくりと瑞奈のほうを見た。そして、母親と同じように息を呑んだ。二人の固まった表情が緩むまでには、随分時間がかかった。


 夏の盛りはもうとっくに過ぎていたのだと、ふいに感じさせるような一日だった。日暮れの町に吹く風には、秋の気配が混じり始めていた。


読んでいただきありがとうございました。

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