(2-1)願い事
虫の鳴き声が空間を満たす中、ぼんやりとした光が、道路に二つの長い影を作っている。
道路の至る所に見える、黄色く光る月が時折吹き付ける風にゆらゆらと揺れている。
「そ、そう言えばさ」
耕平は、足下の揺れる月をよけながら、先ほどから押し黙ったまま黙々と歩き続ける少女をちらりと見、なけなしの勇気を振り絞る。
正直言って、この雰囲気を何とかしたい。
「なに?」
少女は、「気安く声をかけないで」と言わんばかりの低い声を出し、半眼で耕平を見上げた。
全身から嫌な汗が噴き出す。
くそ、負けちゃだめだ! 耕平は、質問を続ける。
「えっと、その、……な、な名前、まだ聞いてなかったよね。何て呼べばいいのかな?」
「!」
少女の顔に複雑な感情が走る。
何故か湧き起こる罪悪感に耐えながら、耕平は必死に言葉を選んだ。
「ほ、ほら、これから一緒に生活するのに、名前が分からないと不便だろ? 変な意味じゃなくってさ」
「――を」
「え?」
「――をよ」
少女の言葉が聞き取れない。
やっぱり、初対面の女の子の名前を聞くのはまずかったかな。と、耕平は思い直し、慌てて付け加える。
「あ、別に、嫌なら答えなくても良いけど。ほら、個人情報保護とか、うるさい時代だか――」
「だからっ! 『す・な・を』だって言ってるでしょ! 何回も言わせないでよっ」
耕平の言葉を遮り、少女が大声を上げた。月光をはじく青色の髪が、激しく揺れる。
塀の向こうで、何事かと犬が吠え出す。
……怒らなくても良いだろ。
耕平はため息をつく。
いや、それよりも……
「『素直』? 名前なの?」
耕平は、首を傾げた。
何かの冗談だろうか。悪魔なのに「素直」、設定としても、ふざけてる。
「あたしの名前聞いたんじゃないの? 気に入らないなら『悪魔』で良いわよ。みんな、あたしの名前なんか呼ぶことも無かったし。慣れてるから」
耕平の質問が気に入らなかったのか、耕平から目を背け、壁の方を睨みながら、すなをはふてくされたような声で呟いた。
誰も名前を呼ばないなんて、もしかすると、通っている学校でいじめられていたのだろうか。
「あ、や、ごめんごめん。ちょっと変わった名前だったからさ、素直ね。よろしくっ」
これ以上険悪な雰囲気になっては困る。耕平は、すなをの方を見ながら、努めて明るい声を出した。
全身の筋肉が弛緩し、どっと汗が噴き出る。
「念のために言っておくけど、すなをの『を』は、ワ行の『を』ね。……どうでもいいけど」
すなをはちらりと耕平を見ると、そう呟いた。
「ああ、すなをね。わかったよ。どうでも良くない事だし、うん。ところでさ、……」
名字は? と聞く勇気は、既に無かった。
耕平は、とにかく、最低限の会話で、これからの事をすなをに説明しなきゃと、何気に後ろを振り返り、そのまま硬直する。
耕平の視線の先で光る、二条の光線。
それは、機械特有の不機嫌そうな唸り声を上げ、しかし、その光線の先は定まらず、ふらふらと、しかも、猛スピードでこちらに近づいてくる。
状況把握に三秒弱。
耕平の思考回路が、生命の危機を警告する。
「飲酒運転か?」
考えるより、行動の方が早かった。耕平はすなをに飛びかかり、壁際に寄せると壁にぴったりとくっつき、身体を丸めた。
「嫌っ! なにす――」
すなをの言葉は、轟音と、滝のような音にかき消される。
「……」
「――」
轟音が、耕平のすぐ脇を通り過ぎ、やがて音が小さくなっていき、音と言えば、自分の鼓動ぐらいしか聞こえない状態になった所で、耕平は安堵のため息をついた。
間一髪で、自分達が明日の朝刊の一面を飾る危機は回避できたのだ。
と同時に、全身を悪寒が突き抜ける。
「最悪!」
耕平は、制服の袖から滴るものを恨めしげに見つめながらぼやいた。
確認するまでもなく、全身がずぶ濡れだ。