4-(2-3)
血管が破れんばかりの脈の激しさは、走っているためだけではないだろう。
「すなをっ!」
耕平は、全身が冷えるような感覚を覚えながら、恐らく、体育大会でも出さないようなスピードでひた走る。
一瞬、風に乗って耳に入った叫び声は、間違えようもない。
すなをの叫び声。
すぐにかき消されたと言うことは、すなをがそう言う危機に晒されていると言うこと。
本日何回目かの後悔が、耕平を襲う。
あのとき、声をかけていれば良かったのだ。
僅かな躊躇が、歯車を狂わせた。
暗い道で、無機質な音だけが空間を木霊し、拡散していく。
永遠に感じるコンクリートの壁が終わったところで、耕平は、トンネルの入り口付近に、月光の薄明かりに照らされた青い髪の少女を発見する。
よかった、まだ……
すなをは、全身が黒ずくめの、耕平より一回り大きな、体格の良い男と対峙している。
何かを喋っているようだ。
その脇に転がっている、ジャージ姿の男性とおぼしき人影を確認し、耕平は事態を理解した。
耕平は、ペースを落とし、すなをの所へと向かう。
色々あったけど、逆に言えば、仲直りのチャンスかも知れない。
今朝のことも、耕平が一言謝れば解決しそうな気がする。
大山とほのかも言っていたではないか。
「すなをっ。大丈夫か?」
耕平は笑顔を作り、手を振る。
すなをのその目が、耕平を捉えた。
確かに、耕平を認識した。
しかし、直後、その瞳から感情が消えた。
「何? あんた?」
抑揚のない声で、すなを。
耕平は凍り付く。
「『スナオ』?」
変な発音でそう言うと、黒ずくめの男がゆっくりと振り向いた。
月光に、サングラスの表面がきらりと反射する。
本来は、その姿に恐怖を覚えるところであろう。
だが、耕平は、そんなことよりも、目の前の少女が、まさか人違いなのだろうか? と、たった今すなをの口から発せられた言葉を反芻しながら、必死にその姿を確認する。
その声は、その姿は、言葉以外のその雰囲気は、耕平の知りうる限り、すなをだ。
胸元できらりと光るコンパス、そして、右腕に巻かれた包帯、それが、何よりの証拠。
「――」
すなをは、知らない言葉を発し、黒ずくめの男を促す。
やや遅れて、それが英語に似ていると気付く。
男は、短く切りそろえた髪型をしており、笑っているのか、への字に曲げられた口、屈強な身体から溢れる雰囲気が、妙にこの空間を日常から遠ざけていた。
男は、再びすなをの方へ振り返り、何かを短く喋る。
すなをは、首を横に振り、同じく何かを答えている。
「そ、その人、誰?」
「そんなこと、あんたに関係ないでしょ? あんたこそ、何なの? あたしに何か用?」
「すなを……」
その言葉に、耕平は目の前が暗くなる。
「だから、すなをって誰よ! 知らないわ」
そりゃそうだ。あんな事を言っておいて、何もなく仲直りなんて事はあり得ない。
現実は、そんな甘くはないのだ。
それに、忘れかけていたが、すなをは同年代のただの少女ではなく、悪魔なのだ。
悪魔には、悪魔の事情がある。今朝、耕平自身がそう言ったではないか。
目の前の男は、もしかしたらすなをの仲間なのかも知れない。
もう、耕平には用が無くなったのかも知れない。
男は、首を傾げると、上着の中に腕を入れた。
「ほら! あんたも、早く行くわよっ! 下等動物のためにあたしを待たせるなんて、良い度胸ね!」
すなをは、男の腕に抱きつくと、大声を上げた。
「カトウドウブツ?」
男は、すなをを見下ろす。
「あ……、――」
すなをは、慌てたように再びわからない言葉で、男にまくし立てている。
しかし、耕平は、直前のすなをのその言葉に、淡い希望が絶望で塗りつぶされていくのを感じていた。
月光に照らされたすなをのその顔は、耕平の知らない表情だ。
言うなれば、漫画によく出てくる、何かを裁く者。
無表情で、目の前の者の命を奪う、悪魔。
恐らく、それが、すなをの本性、なのだろう。
耕平は、膝ががくがくと震え出すのを感じていた。
「おい! ど、どこに行くつもりだ」
耕平は、震える身体を必死に抑え、乾いた声を出す。
もしかしたら、それは、蚊の泣くような声だったかも知れない。
男はゆっくりと振り返り、しかし、サングラス越しでも、その視線が耕平ではなく、その後ろに向けられていることが解った。
「――っ!」
直後、耕平の首の辺りに重い衝撃が走り、鈍い痛みと同時に、末梢神経から感覚が欠落していくのを感じた。
「ちょっと! 何してるのっ? 早く! 早く行くわよっ! ――」
視界が暗くなっていく中、すなをの声がやたら大きく感じた。
かなり苛立ちを含む声。
耕平のせいで、待たされていることに怒りを感じているのだろうか。
それとも、何かを急いでいるのだろうか。
先ほどから、日本語と知らない言葉をごちゃごちゃに使っている。
耕平の背後で、二人目の男が何事かを喋り、耕平の身体がふわっと持ち上げられる。
その感覚から、目の前の男同様に、かなりの力があることが解る。
「何してるのってば! ――! 早くっ! ――!」
はっきりと解る、叫び声に近い、怒りを含むすなをの声が響く。
なおも持ち上げられる感覚。
首にごつごつした手が添えられる。
その動作が停止し、耕平は、いきなり落下した。
「くっ!」
腕をしたたか打ち付け、息が詰まる。
どうやら、地面に激突したらしい、と、耕平は、何故か冷静に分析していた。
頭上では、慌ただしく動く人の気配。
切れ切れに、何か言葉を交わしている。
多分、男達と、すなをだろう。
やがて、誰かが走ってくる足音。
さらに増員?
はは、もしかしたら、僕、明日は川で浮いているのかな……。
耕平は、再び他人事のように考えた。
そうか、悪魔を本気で怒らせたら、こうなるのか……
後悔と恐怖が交互に押し寄せる中、耕平の身体から感覚が完全に無くなった。




