(1ー1)悪魔
台風の余波であろうか、時折、どこからともなく聞こえるガタンという音が、灰色の絵の具をこぼしたような薄暗い空の気味悪さを、印象づけている。
灰色の景色の中で、唯一黄色い彩りを添えているエリアでは、先ほどから途切れることなく地面に無数の穴を開けている水滴に晒され、しょぼくれたような感じで下を向くひまわりが、季節のバトンタッチの時を待ちながら、静かに佇んでいた。
そんな、無彩色と原色の織りなすコントラストを、ぼんやりと窓越しに眺めながら、神崎ほのかは深いため息をついた。
薄ピンク色のブラウスに携えた、胸元の水色のリボンを意味もなくいじりながら、ちら、と、後ろに視線を送るが、すぐに窓の外に視線を戻し、肩胛骨まで伸びた黒髪をさっと整えると、窓に映る、やや勝ち気な印象を漂わせている瞳を持つ少女を見つめ、ほのかは、本日何度目かのため息をつく。
「……ったく」
先ほどから留まること無く地面に打ち付けている雨が、九月とは思えないほどのジメジメ感を与え、ほのかの気分を憂鬱にさせていた。しかし、その理由が雨だけであれば、ほのかはここまで深いため息をつかなかったであろう。第一、雨の度に憂鬱になっていては、文字通り鬱病になってしまう。
「先輩! ビデオセット完了しました」
「よしっ、浅倉君。そろそろ始めるか。えっと、……神崎君」
「……」
ほのかは、肩をぴくりとさせるが、視線を動かそうとはしない。
「神崎君~。始めるぞ~」
「ほのか、こっちにおいでよ。始めるよ~」
先ほどから、嬉々とした声で何やら談笑している男性二名の声を、右の耳から左の耳へとやり過ごし、ママは今日の晩ご飯唐揚げって言ってたよね、楽しみだわ、などと、背中一つを隔てて、思考と聴覚を完全に分離することに努めていたが、三度も自分を呼ぶ声に、ほのかは最大級のため息をつくと、ぞんざいな視線を向けた。
本日の憂鬱の原因へと。
「あの、お二人とも、さっきから楽しそうな所悪いんだけど、それは、何かの冗談よね?」
ほのかの視線の先で、意志の強そうな黒い瞳を持ち、髪の毛は短く切りそろえられ炎のように逆立っている、やや長身の男性が、ほのかに向かって手招きをしている。
白色のカッターシャツに紺色のスラックス、胸元の名札に『3ーB 大山鉄』と書かれている。
「いや、いたって大まじめだが?」
ほのかの嫌味も通じず、こともなげに答える大山。
「ほのか。気持ちは分かるけどさぁ、つちのこよりも現実的じゃない?」
同じく、『2ーA 浅倉耕平』と書かれた名札を付けている、さらさらの髪型に、おっとりとした表情を持つ男性――耕平――が、ほのかに笑いかける。
「分かってないわよ」と口の中で呟き、ほのかは、再び大きなため息をつくと、大げさな動作で立ち上がり、鬱陶しそうに髪をかき上げながら、耕平、大山が立っているテーブルへと向かった。
「で、今日は何でしたっけ? まさか、霊魂を呼び出そうってつもりじゃないでしょうね?」
半眼になり、ありったけの不満を大山にぶつける。
「いや、我々超自然科学研究部は、そのような非科学的なことは行わない。先日河原で発見された、この本が……」
再び大山は、ほのかの怒りをやりすごし、机の上で開けられた、全体が黒ずみ、所々破れている国語辞典の半分ぐらいの厚さの本を、重々しく右手で示すと、
「……我々の調査により、『波動の書』である可能性が極めて高いという結論に達した」
と言いい、満足そうに何度も頷いた。
「ただの魔術か何かについて書かれた本でしょ? 大体、今まで何も起こらなかったじゃないですか。波動か何か知らないけど、本物である可能性は極めて低いと思いますけど?」
「てか、夏休みの終わりにそれ拾ってから、もう二週間もこれと格闘してるし……」と、最後の方はぼやきつつ、ほのかが突っ込む。
対して大山は気にもとめない。
「そこなんだよ! 神崎君。波動を実体化するには、キーとなる固有振動を持った石がないと駄目だと言うことを失念していたのだ」
「その妄想のために、あたしにルビーのネックレスを持ってこさせた訳ですか? それ、ママに黙って持ってきたんですからね。まあ、どうせ、何も起こらないと思うけど、傷つけたりしたら本気で怒りますよ?」
ほのかが、机の上で開けられた本に書かれている、二重の円の中に六芒星が書かれ、周りに意味不明の幾何学模様がちりばめられた、大山が言うところの、『波動制御記号』の脇に置かれた、薄暗い室内で、ぼんやりと紅い光を放つネックレスを指差しながら、大山に凄む。
言葉こそ丁寧であるが、今にも掴みかからんばかりの剣幕だ。
「神崎君の協力には感謝する。ネックレスは責任持って返すから、心配無用だ。つまり、ルビーとは、古来より、炎のエネルギーを秘めていると言われ――」
「その話、もう三回めっ!」
ほのかが、もうその話は聞き飽きたよと言った感じで、大山の言葉を遮る。
「ほのか。あのさ、とにかく一回やって見ようよ。何も起こらなきゃそれまでだし。ね?」
「まったく、耕平はそうやって、すぐ先輩にのせられる! てか、いっつもそうだし、自分の意見はないの?」
「……」
耕平は、言葉を失い、ほのかをぼんやり眺めた。
ほのかは、耕平のこういう所が嫌いである。
昔から、耕平自身から「こうしよう」と言うのを聞いたことが無い。自発的に何か行動すると言うのを見たことがない。大体がほのかや、大山の言うことに「うん、そうだね」と言うだけだ。
大山は「朝倉君は、繊細だからなぁ。周りを傷つけずに、内なる闘志をどう表して良いのかまだ解らないだけだよ」と言っていたが、単なる優柔不断なのだと、ほのかは結論づけている。
ここ超自然科学研究部に入ったのだって、元はと言えば、ほのかが誘ったのだ。
……って、やだ。嫌なことを思い出しちゃったじゃない
ほのかは、人生唯一の汚点を、変な着ぐるみを着て勧誘する大山を前に、「入ってみないとわからないじゃん」と、尻込みする耕平を誘った日のことを思い出し、嫌な汗が噴き出す。
同時に、ほのかの表情が緩み、小さくため息をついた。
今度は、気持ちを落ち着ける方で。
……『入ってみないとわからないじゃん』、か
「まあ、耕平の言う通り、やってもいないのに、あれこれ言っても仕方ないわね。確かに」
何に対してイライラしているのか、ほのか自身もよく分からなかったが、言いたいことを言ったせいか、気分も少し落ち着いたようだ。『耕平の言う通り』と言う部分は、耕平に対して、色々言ってごめんねのつもり。
もしかしたら、ほのかは、これから起こる災厄を、本能的に察知していたのかも知れない。
「では、皆の同意も取れたところで……」
「取れてない取れてない」
と言う、ほのかの突っ込みを無視し、
「発動実験を開始する」
厳かに言う大山。
耕平、ほのかの顔に緊張が走る。
『……』
僅かな沈黙。
ゴクリ、と耕平が生唾を呑み込んだ。
室内の温度が数度下がったような感じを受ける。
大山は、すぅ……と息を吸い込む。
「ファイヤぁあああああああああああああああぁーーーーっ!」
大山の叫び声にびっくりしたのか、耕平が一歩後ずさる。外で、雀であろうか、鳥が羽ばたき去る音が聞こえた。
「……」
「……」
「………………あれ?」
雨音だけが空間を満たす中、「はぁ~っ」と言う音が、ほのかの口から漏れたものだということは言うまでもない。