忘れ物
数分後、俺は店に到着した。
マスターのカジュアルウエアは初めて見たので、最初誰だか分からなかったけど、向こうから声をかけてくれた。
「やあ、千丈川さん。何か忘れ物でも?」
「申し訳ないけど、カウンターの中に入れてもらって良いかな?」
「別に良いけど、今、足元に荷物があるから気をつけてね」
マスターの忠告がを聞き終わる前に、カウンターに飛び込んだ。電話の横のペンケースに……。
「これ……」
「ああ、良かった。それ、やはり千丈川さんのだったんだ。物凄く高価そうなので、持ち主が訪ねてくるのをずっと待っていたんだ。下手に『これ誰のですか? 』なんてやると、欲しい人が勝手に持って行ったりしそうだし」
昨年買った二万円の万年筆だ。
彼女の話も段々繋がってきた。
何故なら俺は生まれてこの方、骨董品を扱う店に入ったのは、この万年筆を買ったその一回だけだったのだから。
そっとキャップを抜く。
辺りに爽やかなフローラルの香りが。インクの香りか?
「ああ、この匂いだよ。昨日の女性。どうやら鼻が覚えていたようだな」
「マスター、それって……」
「マスター、ありがとう。とりあえず急ぐので、今日は帰る」
そう言って、店を飛び出した。
アパートに戻る最中、心の中で色々なことが全て繋がっていた。基本、現実にはありえないことばかりだが、それを無理矢理にでもありえることにすれば全て納得が行く。この理由の分からない不思議な状態を俺は現実として認めるしかないことを悟った。
帰宅後、
「葛川さん! これっ!」
握りしめた万年筆を高く掲げる。
「あら、取ってこられたのですね」
「この万年筆が葛川さんってこと?」
「私は貴方が作る物語のヒロイン、もっと厳密に言えば、その物語を書くためのこの筆の一部と言えば、理解をして頂けるのかしら」
信じる、信じないは後で考えることとして、取り敢えずそういうことなのであろう。今更常識で考えても、答えは出ないだろうし。
「と言うことは、君は万年筆の妖精?」
「『一部』そう言わなかったかしら。今後もこの手の質問の繰り返しが続くのは、少し面倒ね。『一部』のことを貴方が『妖精』と呼ぶと決めるのであれば、今後はそう解釈することにしても構わないのだけれども。物語上の当て字や無理な読みがなはよくあることなのだし。個人的には、乱用すべきでないテクニックだと思うのだけれど」
「でも、『葛川さん』ていう名前なんだよね」
「何度も言うようだけれど、私はこの筆の一部。そもそも名前なんか存在しないわ。『葛川』は物語上で貴方が決めたものなのだから。人には、苗字の他に名前もあるようだけれど、私にはそれがない。それを考えている時に、『また一年後に会おう』って約束になったのだから」
思い出した! 文筆家気取って小説でも書こうと思った時の俺の行動と全て一致している。
形から入る俺は、骨董品屋でこの万年筆に一目惚れしたんだ。キャップを開けた時の優しいフローラルの香りに一目惚れしたと言っても良い。
初めての賞与(といっても寸志だったけど)がまだ手元に残っていて、衝動買いをしたんだった。
そして、その足であの店に行き、設定を考えたんだった。
確かに"葛川"ってヒロインの苗字は、すぐに決まった。幼稚園の時の初恋の人のことだ。容姿も当時の記憶を頼りに設定した覚えがある。ただ、下の名前がどうしても思い出せずに投げ出したんだった。
「物語の進行上、特に問題がなければ、特に名前などなくても構わないのだけれど」
彼女はそう言って、一冊のノートを差し出した。
間違いない! あの時のノートだ。
渡されたノートを開いてみると、確かに自分の字で"ヒロイン 葛川 "と書かれている。
主人公もジャンルも決めていなかったのに、ヒロインの容姿の設定だけを書き出している。そりゃ筆も進まないわ。
「おおよそ思い出して頂けたようですね。それでは私は一旦万年筆に戻ります。何も浮かばないようであれば、また訪れます。それまでにできるところまでよろしくお願いしますね」
そう言うと、彼女は万年筆の先端に軽く指を載せた。そして、一瞬水で滲んだ絵の具のようになって、消えた。