心に空いた穴
それから一週間、俺は仕事に没頭した。
ここに空いた大きな穴を埋めるかのように。
「先輩……」
天井川が話しかけた。
「どうした?」
「大丈夫……じゃないですよね?」
「明日、最終章を朗読に行く。それでダメだったら薫子さんのお母さんに話をしようと思っている」
「そうですか……」
朗読を初めて半年経った。
ここらが潮時だろう。
香子ちゃんがいなくなった今、次の小説を書くつもりはない。
従って、薫子ちゃんに読み聞かせる話もなくなる。
朗読をしないのに、毎週お見舞いに行くのも心苦しい。
時々お見舞いに行く程度にするつもりだ。
朗読最後の日……
俺はいつも通り、病院へ。
廊下であの看護師に出逢ったが、向こうもこちらの気持ちを察してくれたのか、軽く会釈しただけだった。
「こんにちは。薫子さん」
病室へ。
今日は、珍しくおじさんもいた。
「おお、千丈川君。久し振りだね。ずっとお見舞いに来てくれているんだろ。本当に感謝しているよ」
「どう致しまして。今日はお話があります」
「どうしたんだ?」
「朗読は今日で終わりです。小説が今日で終わるんです。ですからこれからは毎週は来れないと思います」
おじさんは、少し考えてから言った。
「こちらこそ、今まで本当にありがとうね。無理を言ってすまなかった」
「いえ、こちらこそ力になれなくて……」
「薫子さん、今日でお話は終わりです。今日も一生懸命読みますので聞いて下さいね」
その時、
「あの……私も聞かせて貰っていいですか?」
看護師さんだ。私服を着ている。
仕事が終わったんだろう。
「俺は構いませんが……」
おじさんとおばさんを見た。
「構いませんよ」
おばさんは言った。
そして最後の朗読を始めた。
香子ちゃんがいなくなった今、ハッピーエンドを迎える話を読むことになるなんて、本当に皮肉な話だ。
それでも一生懸命朗読した。
一回目の朗読が終わった時、看護師さんは泣いていた。
おじさんもおばさんも泣いていた。
俺はいつも通り二回目の朗読を始めた。
その時、計器がいつもと違う反応を始めた。
「こんな反応、見たことなですね」
俺はおばさんに言った。
看護師さんは直ぐにナースコールを押した。
そして、ナースステーションに繋がると叫んだ。
「先生呼んで! 早く!」
バタバタと音がして、先生と数名の看護師が入ってきた。
「どうしたんだ?」
看護師さんが的確に状況を伝えた。
「どういうことだ?」
先生が計器のグラフを睨みつける。
グラフの反応はドンドン激しくなり、目では負えないくらいに乱れ始めた。
「脈拍は? 呼吸は?」
「全て正常です。脳波だけが激しい反応を示しています!」
「どういうことだ?」
……あっ!!
全員が息を飲んだ。
薫子さんの目がゆっくりと開いたのだ。
本人の意識はまだ朦朧としているが、確かに両目が開いている。
「「薫子!」」
おじさんとおばさんが叫んだ!
薫子さんの視線がゆっくりとおじさんとおばさんの方へ向いた。
「あ、お父さん、お母さん……」
病室の中で、「わあっ」と歓声が上がった。
薫子さんは状況が飲み込めず、きょとんとしている。
病室のみんなが抱きあって喜んでいる。
喜びながら泣いている。
俺も泣いた。
少し落ち着いたところで、俺は病室の外に出た。
たたらに連絡しなければ。
あいつも何度もここに足を運んだと聞いている。
後、最上川と天上川にも……。
みんな電話口で泣きながら喜んでくれた。
最も、天上川は最上川と一緒にいたので、二人で一緒に泣いていた。
「良かった……」
俺もホッとした。
最後の最後で……。
病室に戻ると、周りからある程度の事情を聞かされたようで、薫子さんが話しかけてきた。
「千丈川さんですね。私を救って頂いたのは」
「いえ、俺はただ、自分の書いた小説を聞いてもらっていただけですよ」
「小説ですか?」
「ええ、これです」
持ってきた原稿を彼女に渡した。
「私……このお話、知っている気がします……」
「ずっとここで聞いて頂いてましたから」
「そうではなくって、このヒロインの女性に出逢ったことがあるような気がします。強く腕を引っ張られた記憶が……」
香子ちゃんだ……!
「とりあえず、今は安静にしてください。二年近くも眠っていたんだ。直ぐに体が対応出来るわけがない」
先生は言った。
「そうですね。とりあえず、今日はこの辺で帰ります。本当に良かったです。でも最後に一つだけ聞かせてもらっていいですか?」
「何でしょう?」
「薫子さんの腕を引っ張った女性はどうなったかご存知ですか?」
「一瞬浮いたと思ったら、一緒に光の壁みたいなものを突き抜けて……。そこからはわかりません」
「一緒に突き抜けたのですね?」
「はい」
「あ、そうだ。回復のお祝いに、これをプレゼントします。この小説を書くきっかけになった万年筆です。俺にはもう必要のないものですから……」
俺はポケットから万年筆を出した。
今日、帰りに骨董品屋に返そうと思っていたが、折角なので……。
「これって……あ、どうもありがとうございます」
「じゃあ、また連絡します。退院するまでは、様子を聞かせて下さい」
そう言って、病室を出た。
何か全部終わっちゃったなぁ……。これって一応ハッピーエンドなのかな。ハッピーエンドならどうしてこんなに胸が痛むんだろう……。
帰りの車で飲んだコーヒーがいつもより苦く感じた。




