何も出来ない
店から出た後、葛川さんは上機嫌だ。
信号で止まる度に、左手の指輪を見て微笑んでいる。
まあ、これで、先日の失言を埋め合わせることが出来たのなら安いものだ。
「気に入って頂いて、何よりです」
「こちらこそ、この指輪も喜んでいるようです」
「葛川さんは指輪とお話ができるのですか?」
「出来るわけないじゃないですか。ファンタジー小説でもないのに。そのくらい気に入っているということです」
いやいや、常識で考えたら当たり前だけど、葛川さんに限ってはどんなことが出来ても不思議じゃないもんな。
「そろそろ夕飯時ですが、今日はどこかで食べて帰りましょうか?」
「お任せします。今の状態だと何を食べても味が分からないかもしれませんが」
「大丈夫ですよ。バッチリスパイスが効いている料理を出すお店ですから」
この間、最上川と行ったアジア料理だ。
そう言えば、天井川を連れて行ってやろうとか思っていたけど、忘れていたな。
「千丈川!」
声をかけてきたのは最上川だった。
「今日は遠慮なく声をかけさせてもらったよ。あ、こんばんは。僕、最上川って言います。千丈川とは中学からの付き合い。宜しくね」
こいつのこのフランクな感じ、本当に凄いと思う。
「これからの予定は?」
俺に聞いた。
「前に教えてもらった店に行こうかと」
「亜細亜味屋? あの店の味、癖になるでしょ?」
そんな名前だったんだ。
「彼女は……」
「あ、申し遅れました。葛川と申します」
ペコリとお辞儀をする葛川さん。
「葛川さんは行ったことあるの?」
葛川さんは、俺の顔を見た。
「彼女は、今日初めてだ」
代わりに答えた。
「最上川、お前この後用事ないようなら一緒に行かないか?」
俺の提案にヤツは目を丸くした。
「良いのかい? 折角の二人きりの時間を邪魔する事にならないかい?」
二人きりの時間と言われても、基本常に二人きりだったりするわけで、彼女には俺しかいないわけだし。
こっちの交友関係も少しは広げたほうが良いだろう。
まあ、俺の親心ってやつだな。
「それに彼女の意見だって」
「私は構いませんよ。少し緊張していますが。千丈川さんのお友達なら大丈夫な気がします」
「じゃあ、行こうぜ」
俺は先頭を切って歩き出した。
「おいっ! 千丈川!」
「何だよ。まだ何か問題あるのかよ」
「かなり大きな問題だね」
「何だよ」
「店、完全に反対方向」
「お前を誘って本当に良かったよ」
「お役に立てて僕も嬉しいよ」
そして三人で店に向かった。
店では取り留めのない話が楽しく続いた。
話し上手な最上川がいると、葛川さんも話しやすそうだ。
こういう配慮が出来る辺りが、ヤツのモテる理由だろう。
「これ、美味いな」
「ええ、初めて食べる味です」
「でしょう。僕も最初驚いたよ」
「ソースにトマトを砂糖漬けにしたものが入っていますね」
葛川さんが赤い小さな物体を箸でつまんでいる。
「よく分かったねぇ。僕、何度も食べているけど気が付かなかったな。どれ、あ、これだ。本当だ。トマトだこれ」
「葛川さんは料理上手なんだろうね」
最上川は俺を見てニヤッと笑った。
「相当なもんだよ」
胸を張って言える。
「かなり練習したの?」
「いえ、千丈川さんの部屋にあった料理の本を、二冊ばかり読みました」
「すごいね! 読んだだけで作れちゃうんだ」
「あ、でもその本の料理しか作れないのですが」
「ちなみにその本だけど、一冊二〇〇品は載っているやつだから」
これはちょっと自慢してみた。
「すごいねぇ。ところで、確か君も料理に関してはそこそこの腕だった気がするけど、その本で勉強したのかい?」
「一人暮らしが長いからね。ただ、その料理本は俺が買ったものじゃない。いつの間にか部屋にあった。誰かが忘れていったものかもしれないな」
「心当たりはないの?」
「うん、学生時代はいろんな奴が遊びに来ていたからなあ」
「誰かに料理作ってもらったことは?」
「あはは、そんな奇特な奴は……、いたな。確か阿武隈川だったかな」
「あ、それなら話は繋がるよ。彼女、君のこと狙っていたから」
「そうなの? 全然気が付かなかった。"家で作りたいから毒見して"って言われたような気がする。結局何度か自分で味見しているうちに、泣きだして帰っちゃったけど」
「それはご愁傷さまだったね、彼女」
「俺もちょっと味見したけど、泣きそうになった。じゃ、阿武隈川に返さないといけないな」
「その必要はないんじゃない。本人にとっては黒歴史だろうし」
「阿武隈川とはそれっきりだけど、今どうしているのかな」
「ああ、彼女なら結婚して子供もいるよ」
「そうなの? 幸せを掴んだんだな、良かったな。いい子だったし」
横でずっと話を聞いていた葛川さんに最上川は話した。
「ごめんね、葛川さん、知らない人の話、つまらないよね」
最上川のこの辺のフォローがさすがだといつも感心する。
「いいえ、千丈川さんの昔の話が聞けて良かったです。その女性も今は幸せそうで何よりです」
少し葛川さんの表情が曇ったような気がしたが……気のせいか?
「葛川さんも、今日はいつもの何倍も幸せそうな顔をしていましたよ」
その瞬間、葛川さんの表情が、ぱあっと明るくなった。
「そうですか? ちょっと恥ずかしいです。でも、今日は最高に幸せな気持ちなんです」
「それは聞かせてもらわないと」
最上川がそう言うと、葛川さんはにっこり笑って、左手の指輪をアピールした。
「ええっ!? 千丈川、そういうことなのか?」
「ささやかなプレゼントさ。予想以上の喜びようでね」
「そりゃそうだろ! こんなめでたいことはないよ! 僕は君の友人として、心から祝福するよ!」
最上川まで大袈裟だな。
「で、式はいつなの? お互いのご両親とはもう挨拶済んだの? 子供の予定は?」
何だそりゃ、いくらなんでも話が飛躍し過ぎじゃないのか。
葛川さんだって、唖然とした表情をしているじゃないか。
「ちょっと待て最上川、何の話をしている?」
「何って、二人は結婚するんだろ? これって婚約指輪だろ?」
しまった! そう言えば、葛川さん左手の薬指に付けていたのを忘れていた!
「いや、そういうことではないんだ」
「違う? 何が?」
「これはそういう意味では……うわッ!」
いきなり背中に衝撃が。
「千丈川先輩! 我慢できずに登場しました! おめでとうございます!」
「天井川!? どうしてここに!?」
だって、前に「良い店見つけたから今度連れてってやるって言ってから、全然声をかけてくれなかったじゃないですか。大体の位置は聞いていたので、、自分で来ちゃいました。まさか、こんな場面に遭遇できるとは」
そう言うと、今度は葛川さんの方に向き直した。
「始めまして、会社で千丈川さんの後輩&部下やっています、天井川と申します。宜しくお願いしますっ!」
「あ、初めまして、葛川です……」
天井川の、突然の乱入と無駄な元気に、葛川さんも戸惑い気味。
「で、式はいつなんですか? お互いのご両親とはもう挨拶済ませたんですか? お子様のご予定は?」
最上川と同じことを言っている。
「二人ともよく聞いてくれ、そういう事じゃないんだ」
あんまり強く否定するのも葛川さんに悪い気がするが、違うものは違う。
最上川と天井川はお互いに顔を見合わせている。
葛川さんに視線を向けると、真っ青になっている。どうした?
「私……、私、全部出来ないんですね。何も出来ないです……」
そう言って、立ち上がり、走って店の外へ出て行ってしまった。
「「何だか……。申し訳ない……」」
二人ともしょんぼりしている。二人のこんな姿初めて見た。




