新しい香り
葛川さんが登場する時は、まず万年筆のインクの匂いが一瞬強くなってから。
いきなり登場して背後から話しかけられても驚かないのは、この匂いのおかげ。
その匂いが、最近変わった。
新しいインクカートリッジにしたからだ。
三ダースももらったので、骨董品屋の爺さんの言う通り1年位は持つだろう。それどころか、恐らく今書いている執筆が終わるまで、インク切れになることはないだろう。
新しい香りは、個人的にはお気に入りだ。
先日、葛川さんを抱きしめた時には、この香りがした。
抱きしめたが、この匂いに抱きしめられていた。
だから、執筆する時は、いつも葛川さんに見守られているような幸せな気持ちで取り組める。
え? いい加減うざいですか? そうですか。スミマセンでした。
「葛川さんに質問です」
「何でしょう? 今日のお昼ごはんのメニューでしょうか?」
「ケチャップでのメッセージも、おまじないも今朝六時半に無事に完了しましたので、昼食のメニューは当方が独断と偏見で決定させて頂きます」
「そうでありますか? 誠に遺憾且つ不本意ではありますが、甘んじることにします。ただ、あのアーヴィン・"マジック"・ジョンソンは申しておりました。"You're the only one who can make the difference.Whatever your dream is, go for it."(あなたが現状を変えられる唯一の人間だ。あなたの夢が何であれ、それを追いなさい。)と。私はその言葉を実行に移そうかと」
「敢えて、黙殺させて頂きます。昼食は、塩鮭にします」
「ということは、貴方は今から、子孫を残すべく死に物狂いで川を上ってきた魚を容赦なく捕獲、殺害、解体し、更にその死体に塩をぬるといった行為に及んだ後、全身を切り刻んで火炙りにするというということですね? 古代ローマでの刑罰でもそこまで残虐なものはなかったように思います」
「どんなに食欲がなくなるような表現を用いたとしても、朝食の予定を急遽変更までしたのです。完遂します」
「葛川さんへの質問はそう言ったことではありません」
「ではどういった件でしょうか」
「今書いている小説の件です」
「それが何か?」
「この小説が終わるとどうなりますか?」
「読者は感動すると思います。最近随分面白くなってきましたから」
「葛川さんはいなくなりますか?」
「私は永遠にこの小説に生き続ける事になります」
「では、この部屋に出現することは?」
「どうでしょう」
「ご存知ないのですか?」
「ええ、前例があるかどうかも知りません」
「では、書き続けている間は、いなくならないということですね?」
「ええ、執筆のお手伝いをすると誓いましたから」
「葛川さんはこの物語をいつまで続けたいですか?」
「内容によりますが、基本的には、執筆者である貴方の判断に委ねるしかありません」
それとなく葛川さんの気持ちを聞き出そうと思ったのだが、これでは拉致があかない。
昨日、覚悟を決めた件について、ストレートに話すことにした。
「昨日、はっきりと言えなかったことなのですが……ンンッ!」
話し始めた瞬間、葛川さんの唇が俺の唇に重なった。
「千丈川さんのお気持ちは、小説の中で十分に伝えて頂いていますから把握しているつもりです。私にも個人としての気持ちはあります。その気持ちは、恐らく千丈川さんと同じかそれ以上だと思います。心からお慕いしております」
呆然としている俺に葛川さんは話を続けた。
「ただ、私は貴方の執筆のお手伝いの為の存在。また、個人としての存在自体も先程の話のように曖昧なものです。ですから、千丈川さんのお気持ちを今、頂くことが出来たとしても、きちんとしたお返事の言葉が見つからないのです。どうかこの件に関しては、暫くの間、容赦してやって欲しいのです」
そうだった! 俺としたことが、自分のことばかり考えていたかもしれない。
俺は、自らを戒めるかのように執筆を再開した。気持ちは全て小説にぶつけよう。
気がついたら昼すぎだった。