インク
仕事が終了すると、週末だったがまっすぐに家に帰った。
早く謝って自分の気持ちを伝えたい。
その後のことなんて今考える余裕がない。
占いの言葉を借りるのであれば、"あたって砕けろ"だ。
「葛川さん、お話があるのですが」
誰もいない部屋で呟いた。
最近では、話しかけたらいつの間にか現れている場合が多い。
今日は、出てこない。
やはり昨日のことが……。
自分自身の気持ちが固まって、ちょっと身勝手に浮き足立っていた自分を反省。
では、筆談で。
経験上、筆談であればほぼ確実に彼女に届く。謂わば"アナログメール"と言った所か。
ノートを広げ、万年筆のキャップを抜く。
あれ?
いつもは広がるあのフローラルの香りがしない。
しかも、何も書けない。
"葛川さん? 葛川さん!"
必死で書きなぐるが、紙の上を万年筆の先が擦れる音しかしない。
暫く頑張ったが、事態は何ら変わらず。
程なく諦めた。
葛川さんがいない部屋がどうしようもないくらい寂しく感じて部屋を出た。
「マスターのことろにでも行くか」
店で万年筆を取り出す。
もう一度キャップを外してコースターに書いてみる。
相変わらず何も書けない。
ちょっと振ってみたりしてみたけど、変化なし。
「インク切れたの?」
マスターがやってきた。
「へ?」
俺は変な声を出してしまった。
そうだよ! インク切れ!
早速万年筆を分解して、中のインクカートリッジを取り出すと、見事なくらいの空っぽ。
「ふぇぇぇ……、助かったぁ……」
その場で脱力、バタンとカウンターに伏してしまった。
あまりにも自分に負い目を感じていたせいで、こんな基本的なことも考えられなくなっていた。
インクが出ないのは、昨日の失言が原因なんて、普通、一番最初に出てくる原因ってあたりからおかしい。
それどころか、誰も思いつかないだろう。そんなこと。
相当テンパっていたようだな、俺。
「おいおい、万年筆のインクカートリッジが切れたくらいで大袈裟な。どれ、見せてみ」
そう言って、マスターは空っぽになったカートリッジを取り上げた。
「何にも書いていないんだな、これ」
眼鏡をおでこに上げて、凝視するマスター。
「何か書いているもんなんですか?」
「普通はカートリッジの型番が書いてあるもんなんだけどなぁ」
「そりゃそうですよね。消耗品なんだから。でも、型番分かんなきゃ、文房具屋に行っても注文しようもないですね」
「私が持っているカートリッジを試してみるかい?」
そう言って、ポケットから万年筆を取り出した。
中から取り出したカートリッジは、大きさも同じくらいで上手くいきそうな形状。
マスターは、万年筆を組み立て直して俺に渡した。
「試してみてよ」
「あれえ?」
何にも書けない。インクが出てこない。
やはり、昨日の失言が……ってそんなわけないだろ! いい加減にしろ! 俺。
単純に規格が違うとかそういうことに決まっている。"専用カートリッジ"って言葉があるくらいだ。
冷静になれ! どんだけ罪の意識が重いんだよ!
「ダメみたいだな」
マスターは申し訳なさそうに再度分解し、カートリッジを自分の万年筆に戻した。
「これ、どこで買ったの? 買った所で聞いてみたら?」
まあ、そうだな。
まだやっているかな。あの店。
「マスター、ちょっと行ってくる」
そう言って店を出た。
骨董品屋まではそれ程遠くない。
歩いて五分位。
店の玄関には誰もがその価値を判断しかねるような、超レアアイテム《がらくた》が満載で、店に入るのには勇気と覚悟が必要な店だ。
店に到着。2分少々……。結局走ってしまった。息が上がって死にそう。
店の前で小休止。呼吸が整ってから入店。
マスターの店を出て、丁度5分。
歩いてくればよかった。(別に要らないなコレ)
「すみません」
「ほおお、いらっしゃい。一年ぶりじゃな」
「俺のことを覚えていてくれたんですか?」
「そりゃそうじゃ。一年ぶりの客だもの。オヌシの顔、しっかり覚えておるぞい。フォッフォッフォッ」
仙人みたいなお爺ちゃんはそう言って笑った。
ってことは、あれから一人も客が来ていないってこと?
よく店を続けていたな。見切り悪すぎだろ!
「で、本日は何がご所望かな?」
俺は胸ポケットの万年筆を差し出した。
「これのインクカートリッジの型番を教えて欲しいのですが」
「どれ? ちょっとよこしなさい」
そう言いながら、お爺さんも胸ポケットから老眼鏡を取り出した。
「これは、オヌシが去年買っていった物じゃな?」
「ええ、ここで一目惚れして買いました。カートリッジは同じ様な形のものを試してみましたが駄目でした」
「恐らくそうじゃろうな、インクの成分が違うのじゃよ」
「成分ですか」
「専用カートリッジと言うくらいじゃ。万年筆との愛称があるんじゃよ。粘り気とか油分とかといった部分じゃ。そもそも原料から違う場合もあるぞい」
「で、この万年筆のカートリッジは?」
「そう急かしなさんな、今、調べておるところじゃ。それとも何やら急ぐ理由でもあるのかね?」
「どうしても早く伝えないといけないことがあるんです」
「ほう。何か事情がお有りの様じゃな、ほい、ちょっと待っとれ」
そう言って店の奥に入って行った。
「これじゃ」
俺の目の前には、文庫本位の大きさの箱が。
「カートリッジが三ダース入っておる。今までの物とは香りは違うが構わぬか?」
前のフローラルの香りに一目惚れして購入した万年筆だったが、他にないのであれば仕方がない。
「同じものはないのですよね?」
一応は聞いてみた。
「今はない。また一年後にでも立ち寄ってくれ。手に入ったら取り置きしておいてやるぞい。今回はオヌシに、これをくれてやる。持って帰れ。一年分はあるじゃろ」
そう言って俺に箱ごと渡してくれた。
「お幾らですか?」
「ワシはくれてやると言ったんじゃ。金はいらん」
「でも、それじゃあ悪いですよ」
「良いんじゃよ。オイボレの気まぐれじゃよ」
「あ、有り難う御座います! ではお言葉に甘えて!」
箱を抱えて店に戻った。
店に帰って、早速新しいカートリッジを装着。
コースターに書いてみる。
ちゃんとインクが出てきた。
「直ったの?」
マスターが覗き込む。
「前のと違って今回のインクは甘い香りだね」
俺の思った。例えるならば、綿菓子のような甘い香り。それ以外の例えが見つからない。
「小さいころ、この匂いを嗅いだ覚えがあるんだよね」
マスターが言った。
「縁日の綿菓子じゃないですか?」
俺にはそれ以外の候補が思い浮かばない。
「確かにそうなんだけど、その匂いを嗅いだ時に、"綿菓子みたいだな"って思ったのを覚えているから、綿菓子以外のものだと思うよ」
じゃ、何の匂いなんだろ。
そんなことより、葛川さんを呼び出さないと。
「一緒に飲みませんか?」
コースターに書いてみる。
葛川さんは現れない。
骨董品屋に行く前に、注文したナッツのボウルから、一つだけアーモンドを取り出し目の前に置いた。
「メッセージは届いていますか?」
目の前のナッツがみるみる萎んでいく。
顔を合わせづらいのは、俺も同じだけどここは俺がリードしなくては。
「今回の件は、全面的に俺が悪かったです。傷つけるようなこと一杯言ってしまったことを心から反省しています。ごめんなさい。ただ、言い訳はしたくありませんが、今回の件で気が付いた自分自身の気持ちを伝えたいと思っています。出てこれませんか?」
かなりの長文であるが、頑張って書いた。
コースターの真ん中からスタートして、外側に向って四周半で書き終えた。
出てこない。
「久しぶりに葛川さんが作った豚汁が食べたいです」
そう書き加えてから、コースターをポケットに入れた。
「ごめんね、マスター。そろそろ帰ります!」
店を後にした。
アパートに入ると同時に冷蔵庫の開ける音がした。
「豚肉がありません」
と葛川さん。
冷蔵庫の前で、バツ悪そうに立っている。
思わず俺は彼女を抱きしめた。
「全然構わないよ、豚肉なんてなくって、葛川さんさえいれば十分だよ」
今日のランチからずっと言いたかった一言。ようやく言えた。
ただ、タイミングが悪かった。
「私は、豚肉の代わりですか? (怒)」
誤解を解くのに30分以上かかった。