狐狸霧中
吉野君は無事に大学に上がれたのを契機に新天地へと越した。内見の折から、古くはあれど隅々まで手の届く広さの部屋といい、清潔な水回りといい、手頃な台所といい、起臥するに不都合はない。さらには割合駅の近いのに加えて窓から海も眺められるとあってここと決めない理由のないものと思われたのである。
ところが、いざ暮らし始めてみると思わぬところに害が潜んでいた。時計の短針が零を超えた頃になると何処からかヴァイオリンを弾く音が聞こえてくるのである。ややもすると鈍感に片足を突っ込みがちな吉野君は、ちょっと部屋に蟻が入るくらいなことは知らん顔をしていられても、深夜のヴァイオリンばかりは気にしない訳にはいかなかった。巧拙で言うならば巧いに違いないが、温い布団にくるまったとして、右へ転がってもヴァイオリン、左へ転がってもヴァイオリン、当然天井を向いてもヴァイオリンでは全く寝付かれない。寝付かれないから講義中には舟を漕ぎ、夜になれば寝床で目を剥く。二日過ぎ、三日が過ぎても止まぬから高い学費は泡沫に消ゆ。
これじゃいけないとちょっと吉野君考えて、床に就いてヴァイオリンの弾き手を女と想像してみる。艶やかな黒髪を揺らしてしなやかな細い指を器用に且つ繊細に動かすのを思い描くと自然優美な音に聞こえる。仕舞には子守歌にさえ聞こえてきて、聞かぬよりもいっそう深く眠れるのであった。それから四五日が経ってどうかというとまた寝付かれないでいる。何がそう邪魔立てをするのか、吉野君想像を逞しゅうするあまりまだ見ぬ美人に憑りつかれてしまうのである。是非とも弓を引くその姿を拝見したくなる。
ある日の夜、風呂に入るのを朝に回してこそこそ忍んで家を出た。春霞の空に一つ二つと瞬く星と黄色い月に見守られて、やましいことなどないとでもいうようなちょっと繕った顔をして、音を聴き聴き夜道を歩いた。顔ばかりでなく、仏のような心持ちで、周辺住民を代表して迷惑を指摘しようという建前をぶら下げているのである。歩を進めるにつれて次第にヴァイオリンの音が大きく聞こえるようになる。それに合わせて自分の心臓の音もまた大きくなる。優雅なる摩擦音は結構な構えの門の向こうから聞こえてくるようである。幾ら建前を持っているとはいえ正面切って相対してご尊顔を拝そうなどと、平生体裁ばかりを気にしてその実四六時中腰の引けたる吉野君が思うはずもなく、ただの散歩だという顔をしながらこそこそと門を通り過ぎて家の裏手へと回った。
ところが残念、生け垣がある。気を落とした吉野君、手に汗握った甲斐もなくとぼとぼ俯き前進する。と、垣に僅かに薄くなったところがある。気を持ち直してちょっとしゃがんで覗いてみると窓にカーテン。しかし僅かに開いた隙間から光が漏れている。こうなったら行けるところまで行こうと体を捻り、さてどんな可憐なのが弾いているかと胸を躍らせていると、目測にして身長百九十ほど、百キロのバーベルを容易く持ち上げてしまうであろう筋骨隆々の男が玩具みたようなヴァイオリンを肩と顎の間に挟んできこきこ弓を動かしているのであった。吉野君絶句して一歩二歩後ずさると逃げるようにして自室へ帰った。真実を知ると、優美であった音が急に不調和に感ぜられる。勝手に想像し勝手に裏切られ、そして勝手に腹を立てるよりほかにない。その夜は布団に入って十、二十の寝返りを打ってようやく眠れるという始末であった。
翌日、吉野君は大学の食堂で高木君に会った。高木君は得体の知れない男で、どういうつもりか吉野君が食堂にて一人で食べているところに突然座を設けて何やら奇妙奇天烈な話を繰り広げる。吉野君は腰が引けていても融通の利かないから何度会っても面倒でも席を変えないでいる。放置しているうちに日常となったのであった。
吉野君は高木君に昨晩の出来事を話した。自分から話を振るくらいだからそうとうの衝撃であったと見える。
「それは災難ですねぇ」
「まったく知らぬが仏という語をこれほどまでに痛感させられた例はないものだ」
「しかしどうして姿を見ようとしたんです」
「好奇心と言うよりほかにない」
高木君ニヤニヤ顔をさらにひん曲げて、
「好奇心は猫をも殺すと言いますから、ほどほどにしないと次は困りますよ。――それにしても存外助平ですねぇ」
吉野君これにはちょっとむきになって、
「五月蠅いよ。君みたいないつもへらへらと助平な顔をして助平なしゃべり方をする男に言われたくないね」
「まったく酷いじゃありませんか。泣いてしまいますよ」
「気色の悪い」
「ああ、また酷い。しかし何ですね、そう外面ばかりではいずれ狐狸に化かされますよ」
「そんなら皮を剥ぐまでだ」
「それじゃ、狐狸の報知を待っていますよ」
ふんと鼻を鳴らして、吉野君は食器を戻すと未だ助平顔をする高木君を放って外へと出た。
その夜、吉野君は不愉快音楽に耳を塞いで松の控える浜を歩いた。深藍の夜空に照光する、満月よりやや欠けたる立待月が、霞の向こうに見える。夜更けであるだけに人はおらず閑寂として、濤声、たまの松籟が殊更に四辺に響く。筋肉の鳴らすヴァイオリンに比べればそれらの音は吉野君に心地よさを与うるには充分なようである。心気を平らかにして家へ帰ろうとして海に背を向けようとした折、岩礁に座る人影を見た。暗いのと霞とで漠として正体の知れない。釣り人とは思われない。しかし岩礁に座る人影と来れば吉野君の頭に世界的空想生物たる人魚が閃くのに苦労はなかった。物語に於いて海と人魚と月という取り合わせとは何とも使い古したようではあるが、現実目の前にあれば興が乗るのも致し方ない。吉野君少々趣向を凝らして、
「朧なる月の浮く海人の影」と詠じた。美景に句を詠じて自己陶酔の極みにいる吉野君は、やはり是非とも一度お目にかかりたくなる。寄る波のすぐ近くまで来て目を凝らした。そこへ、
「目を見張らずば知らず済ままし」と絹の如き柔らかな声にて人影が歌う。それと同時に、急に四辺の霞が晴れて月光が人影を浮かび上がらせる。あな悲しや、現実とは非情である。岩礁に座しているのはなんと、あの筋肉であった。筋肉各々の上部が油を塗ったように滑らかに月光を返し、下部は陰になっているので、怪物じみて見える。その上、綺麗に整った白い歯が浮き出て的れきと輝いている。筋肉は吉野君から顔を逸らしてヴァイオリンを弾くような恰好をすると背を向けて海へと飛び込んだ。
吉野君は数秒ぼうっとしていた。あとからふつふつと怒りが湧いてきて海に潜る筋肉を追って海へ入って行く。足が浸かり手が浸かり、腰上まで浸かったところで泳げないことを思い出して早々に浜へ戻った。ただ半身を濡らして帰ってくる惨めさたるや。海を背にして浜へ上がる折には整然と並ぶ松が見える。無論、首縊りの松ではないから人も縄もぶら下がってはいないし、誘われることもない。吉野君一つくしゃみをして靴に砂をくっつけながら家へと帰った。
筋肉の、あのヴァイオリンを弾く真似を思い出すと頭に血がのぼる。いくらぷりぷりしていても、そのまま布団に入ってしまえば明日の己にどやされてしまうのだから、吉野君は大人しく風呂へ入った。怒る頭を火照らせるのは火に油を注ぐのと一般である。怒りはさらに膨れ上がって、風呂から上がったのち、白紙を取り出してそこに無闇に「馬鹿狐狸」と黒い動物を並べる。うち半分はまったくのとばっちりである。その隣に「狐狸霧中」と語感頼みの頓珍漢を書く。それを力任せに破って屑籠へ放り投げると布団へ入った。この夜はヴァイオリンを聞かなかった。それでもやはり単簡に眠りに就けはしなかった。
明くる日、吉野君は高木君に一切を話して狐狸の類を捉まえる協力を要請しよう、へらへらニヤニヤしているばかりでなく是非とも役に立ってもらおうと勇んで食堂に入った。ところが食堂に高木君の姿はない。代わりにいつものテーブルの上に小さな信楽焼の狸の置物があるばかりであった。「図ったな!」怒りはすぐさま頂点に達し、猫の如く体を膨れ上がらせ人とも思えぬ形相で勢い信楽の狸に齧り付いた。瞬間パキリと音が鳴る。無残にも、立派に生えた左の前歯のおよそ七分の一が欠けた。欠けた所を風が通る。信楽狸は超然と澄ましている。吉野君は一人相撲に疲れて信楽狸をポケットに突っ込んだなり講義を放擲して自宅へと帰った。
爾来、吉野君苦心惨憺の末に狩猟免許を取得し、欠けたる前歯に仇討ちを固く契りて野山へ入るようになったのであった。




