4.モルフォ蝶のジグ
……負けた。あれだけやったのに、なんて頑丈な奴なの……。
サクヤはいつ起こるかもわからない悲劇に備え、鍛え、想定して実践してきたつもりだ。
途中までは良かったと思う。用意周到に罠を張り巡らせて、倒せたと確信して……なのに、この様だ。
名前も知らない青年の腕の中、悔しい気持ちと愛おしい思いがせめぎ合っている。
魔王は強かった。
本来ならサクヤなど全く歯が立たないのだと、花びらの儀を受ける中で痛感した。
……彼が侵略を諦めたのは、ただ運が良かっただけ。
「弱いものイジメはやめなさいよ」
幼なじみを庇う意図などなく、敗北感に打ちのめされるままに、サクヤは思わず口を挟んでいた。
「お体は大丈夫ですか? 先ほどは申し訳ありませんでした」
澄んだ瞳と目が合う。
嬉しそうな顔に、熱い目差しに胸が騒いだ。
──ああ、もう手遅れなのね。
「お父様も皆も無事だし、隙を見せた私が悪いのよ……。私だって脳天にかかと落としを決めたし、後頭部を複数回、石で思いっきり殴ったし、全身をきつく縛り上げた上で大岩で潰して大木の下敷きにしたし、お相子でいいわよね?」
「はい! 文句の付けようもない、素晴らしい手口でした」
「父親が言うのもなんじゃが、サクヤの方がやり過ぎとると思うぞ……」
喜色満面の青年は素直で、憎たらしい反面、可愛いなと思ってしまう。
緊張から解放された幼なじみは泡を吹いて倒れているが、些末なことだ。どうせいつでもどこでも転がっているし。
「下ろしてもらっていい? あなたと、ちゃんと向き合って話をしたいの」
「はい!」
ジグはそっと宝物を扱うように、丁重な手つきでサクヤを床に下ろした。
恋人同士のように見つめ合う二人を、邪魔をする者はもういない。
「私は枝垂れ桜の咲夜よ。あなたは?」
「ぼくはジグと申します。モルフォ蝶のジグです」
青年、ジグは一括りにしていた髪をほどく。
さらりと広がる長い髪、落ち着いた灰褐色の裏側は、目が覚めるような宝石みたいな青だった。
「……綺麗ね」
「あなたの方が綺麗です!」
即答され、サクヤの頬が赤く染まる。
一変した空気、初々しい甘さが漂う中、ブロスが気まずそうに手を挙げた。
「お主、『次元魔王グリモ・ワール』とか名乗ってなかったか?」
「それは勝手に名付けられたコードネームです。ぼくのセンスが疑われるじゃないですか、やめてください。それに、その、初めては本名で呼ばれたい、です……」
「……左様か」
はにかんでもじもじしているジグ。
怒りの姿との格差が激しすぎて、ブロスは眉間に皺を寄せている。
「あの、サクヤさんとお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「べ、別に好きに呼べばいいじゃない。……私は、旦那様なんて呼ばないから。ジグって呼び捨てにするからね!」
ツンと外方を向いていても、意識しているのは丸わかりだ。
ジグはサクヤに名前で呼ばれたのがよほど嬉しいのか、満面の笑顔である。
──尻尾をふる大型犬みたいで、可愛いじゃない。いえ、違う。簡単には絆されないわ!
「半分夢の中だったけど、話は聞いていたわ。この国は狙われているのよね。ジグが寝返っても、敵はまだまだいるはず。あなた一人で侵略に来た訳じゃないでしょう?」
「先駆けはぼく一人ですが、花の国に差し向けられている戦力は、あと三人プラスその配下達ですね。全員が魔王の称号持ちで、ぼくと合わせて四天王と呼ばれていました」
「あなたみたいなのが、あと三人もいるの!?」
サクヤだけではなく、部屋中の男達も色めき立った。事態は思ったよりも深刻だと判断されたが、他ならぬジグが即座に否定する。
「いえ、ぼくが四天王最強なので。戦闘力に関しては、あとの三人はぼくの足下にも及びませんよ? 三人まとめて来ても撃破できます」
「……普通こういう時って最弱から来るのが定石じゃないの?」
「転移が使えて大荒野の最速踏破が可能で、龍を倒す戦闘力もあって広範囲回復魔法も使えて結界も張れるオールラウンダーなぼくなら、森を、花人を傷付けることなく制圧できますから。外の世界では花人の能力は魅了だと思われているので、女性に興味がないのも選ばれた理由かもしれません。……ああ、訂正します。サクヤさん意外に興味が持てなかった、の間違いです」
真っ直ぐに見つめられて、サクヤの花から湯気が立ち上る。
「……い、今はそういうの良いから! 他の魔王の情報は?」
「ぼくが知る限り、それぞれの『魔王城』の性能を鑑みて、当面この国を訪れることはないでしょう。三人の通称は『淫欲魔王』、『健啖魔王』、『耽溺魔王』と言います。誰も彼も己の欲に忠実で、性格に難ありな者ばかりです。特に淫欲魔王とその周辺は、その、サクヤさんの目に触れさせるのはちょっと……悍ましいので、花の国に到達する前に滅しますね!」
「通称からしてろくでもないのばかりね……。考えたの誰よ」
「通称は現王です。……そんなことより」
呆れるサクヤの手を取り、ジグは真剣な表情で跪いた。
「サクヤさん。ぼくはあなたをお慕いしています。大荒野に咲いた枝垂れ桜はぼくの偏った世界を壊してくれました。美しくも凛としたお姿、容赦のないかかと落とし、倒れた敵をさらに無力化する鮮やかな手際、父親思いの優しい所も。全て引っくるめて大好きです。あなたのためなら、他の魔王を全て打ち倒し、王国を滅ぼすことも厭いません。……あなたのことを、もっと教えてほしいです。美しく咲き誇るあなたを、すぐ側で見守らせてください。──愛しています」
ジグはサクヤの指先にキスをする。
指先が、いや、胸も顔も、全身が熱い。
花人の本能は全力でジグの愛を求めていた。でも。
──お父様が見てる。それに反省してるとはいえ、ジグは花の国に侵略に来て、お父様を傷付けた男なのよ……。
サクヤは固まっていた。
ジグの愛に応えたいのにどうしても応えることが出来ない。苦しい。……心が二つあるようだ。
ぱんっと乾いた音が響く。
「……こんな衆人環視の中でいちゃつくでないわ。サクヤも困惑しておろう。次なる魔王の緊急性も低いようじゃし、ひとまず解散じゃ、解散」
同じ穴の狢としてジグの気持ちは分かるが、娘親としては複雑な心境のブロスが、手を叩いて解散を宣言し、促されるように男達も立ち上がった。
優しい一人が放置された上に見せつけられた少年を慰めつつ、ぞろぞろと立ち去って行く。
「いやぁ、とうとうサクヤちゃんの縁談が纏まったなぁ」
「さすがサツキさんの娘、いい男を射止めとる」
「じゃあお婿さん、今後もよろしく」
はっとなったサクヤが、そういえば人前だったと真っ赤になって手を振りほどいた。
ジグは一人困惑している。
「あの、あっさりぼくを受け入れていいんですか? あれだけ酷いことをやらかしたのに……」
初老の男が立ち止まる。
ブロスとともにジグの魔法に耐えた強者の一人は、振り向きもせずに語った。
「お前ほど規模はデカくないがな、ろくでもねぇ破落戸だった俺も花の国に押し入って、カミさんと出会って改心した口だよ。ここにいるのは似たり寄ったりな輩ばかりで、誰もお前を責める資格なんざねぇ」
それになと、男は鼻をすする。
「お前のハンマー、すげぇ威力だった。いつでも死んでいいと思ってたけどよ、生死の狭間で若くして死んじまったカミさんにまた会えてな。娘はまだ未婚なのに、孫の顔も見てないのに、こんなに早く来るんじゃないって怒られたわ……お前のおかげでもう少し生きようって気力が湧いてきた。ありがとな」
鰥衆とは読んで字のごとく、何らかの理由で半身とも言える花嫁に先立たれた男達の集まりだ。
寄り添う花を、最愛の連れ合いを亡くした彼らは、最前線で命を張る。例え死んでも愛しい妻の元へ還るだけだと。
己を顧みず死すら恐れない彼らは、故に精鋭と呼ばれるようになったのだ。
先達の背中に、ジグは無言で深々と頭を下げた。