3.花びらの儀
カチ、カチ、カチ。
頭が痛い。なにか、硬いものが触れて……突かれている?
ブロスが目を覚ますと、羽の光沢がやけに青いカササギが頭に止まり、剥き出しの額をつついていた。
「昔を思い出すな……」
若かりし頃、武者修行の果てに花の国へ辿り着き、運命のように妻に出会って──ぶちのめされ、同じようにカササギにつつかれて目覚めた。
重い頭を振って身を起こすと、あれだけの傷が治っている。
状況を確認するため周囲を見渡せば、枝垂れ桜の木の下で、最愛の娘が優しげな顔立ちの青年の腕に抱かれ、眠っていた。
降りしきる花びらの中、一枚の絵画のような姿に、“花びらの儀”が成立したのだとブロスは悟った。
「お目覚めの所申し訳ありません! あの、花があまりに綺麗で、良い香りがして、思わず口付けたら、娘さんが急に気を失われて……!!」
「……その声、貴様、あの魔王か!?」
「はい。この度は酷い目に合わせてしまってすみませんでした。それで、あの、怪我や衰弱ではないし、どうしたらいいかわからなくて……」
先ほどまでの強者然とした姿からは信じられないほど焦り、途方に暮れている。
捨て犬のようだ、とブロスは思った。
「……あー、多分じゃがな、父親を酷い目に合わせた男を愛さざるを得ない状況に、情緒がめちゃくちゃになって、耐えきれんで気絶したのじゃろう」
「あ、愛……!?」
見る間に真っ赤に染まる顔は、魔王……青年が何も知らないことを裏付けている。
「百年前の戦争でも流出しなかった、花人最大の秘密故な。知らずに惹かれ、花にキスをしたのなら、お主は間違いなく花人の『伴侶』じゃ。同胞よ、歓迎しよう」
先ほどの敵対モードから一転した対応に、魔王は目を瞬かせている。
ブロスの頭からカササギが飛んで、青年の肩で羽づくろいを始めた。
「賢いカササギに懐かれるくらいじゃ。そう悪い者でもなかろう」
「あれだけ散々暴れてあなたや守護聖獣もボコボコにしたのにですか?」
「わしぐらいの老齢じゃと、いつ死んでも惜しくないわい。それにアレが守護するようになって、いうて十年も経っとらんしなぁ。守護聖獣というか、ちょっと気の荒いご近所さんぐらいの感覚じゃし」
「ご近所さんボコボコにされるのはいいんですか?」
腑に落ちない様子の青年。話をしている間にも、さらさらと花が凄い勢いで散っていく。
「ここの枝垂れ桜は全て、その子が創った仮初めの命じゃ。気を失った今、まもなく枯れ果て、いずれ瘴気が立ちこめる。長話には向かん。場所をあらためよう。他の者達も回収せねばな」
「回復はしてあるので、そろそろ他の方も目覚める頃合いだと思います。それにしても、この大荒野の穢れた大地で仮初めとはいえ、これだけの花を咲かせるなんて……実は花人という種族はすごいのですね」
飄々としていたブロスが初めて渋面を作る。
「……皆が皆出来る訳ではないぞ。その子は特別じゃ。いや、それもおいおい説明しようかの。お主の事情も聞きたいからな」
「はい、よろしくお願いします」
素直に頭を下げる青年は、経験豊富なブロスには悪い輩にどうしても見えなかった。
なにか事情があるのだろうと察する。
花の国に辿り着いた、花人の伴侶になる男は皆そうだから。
*******
花の都の集会所。
青年のスキルによって運ばれ、集められた鰥衆は戸惑っていた。
甲冑を脱いだせいか、一回り小さく見える姿。そばかすの散った童顔は二十代前半か、それよりも若く見えた。
純朴そうな青年は、サクヤを片時も離さず甲斐甲斐しく介抱している。
その青灰色の垂れ目がちな瞳には、愛おしさが溢れていた。
「先ほどは誠に申し訳ありませんでした」
畏まって謝罪する青年。
傍らではカササギも一緒に頭を下げている。
ますますもって凶悪な魔王像と結びつかない。龍が怯えてそそくさと住処に逃げ帰っていたので、同一人物で間違いないのだろうが。
「それはもう良い。壊れた結界もお主が修復したしな……」
ブロスは遠い目をする。
花の国の術士達が何年もかけて補強してきた大結界は、破壊も一瞬なら構築も一瞬だった。
なんなら性能まで上がっている。
「率直に聞くぞ。お主の真の目的はなんじゃ?」
「はい。ぼくは蟲人最大の王国、ラーヴァルに所属する『魔王』です。王国は近年代替わりをしたのですが、現王は野心家で、遠い先祖が成し遂げられなかった花の国侵略を計画し、実行しました」
「……蟲人! 百年前の戦争で、なにもわかっておらなんだか」
響めきが走る。花の国の受けた傷は、それほど深い。
「現王が言うには、花人が大荒野から出られないのなら、花の国を植民地化して現地で花人を囲えば良いと。女人しかおらず、強い男を求める性質の花人に相手を宛がうだけのこと、移動手段、魔法が発展した現代なら距離も問題にならない、ということでした。……ぼくは、強い者と戦えればそれで良かった。何も考えずに引き受けて、浅はかだと詰られても仕方がありません」
青年はサクヤに視線を落とす。
未だ眠り続ける愛おしい人を見て、もしも奴隷にされていたら、と考えているのだろう。
剣呑な怒りの表情は、青年の紛れもない本心に見えた。
百年前の戦争。
それは死の土地として有名だった荒野の奥地で『花の国』が発見されたことにより起こったものだ。
楽園のように豊かな領土と豊富な資源、そして花の化身のように美しい女たちを求めて、様々な国が争ったとされる。
開戦の切っ掛けは、蟲人の帝国だった。
伴侶がいて、子を身籠もっていた女王に求婚し、袖にされた皇帝による逆恨み。
愚かな男の暴挙で、花の国は女王と貴種を失い、たくさんの民草も『枯れた』。
苦労して捕らえた花人は全員死亡し、貴重な薬草もほとんどが消失。
花人に心奪われた兵士や貴族は遺体とともに花の国へと引き返し、そのまま後を追ったという。
元凶である皇帝の処刑後、花人は荒野を浄化するための種族であると周知される出来事があり、愚かな人が手を出してはならない神聖な存在だと不可侵条約が結ばれた。
……それなのに、よりにもよって蟲人が同じ過ちを繰り返すのか。
「それがいかに愚かな行いだったか、今のぼくならわかります。ぼくは王国には戻りません。花の国を……この方をお守りします」
だろうなぁ、と男達は唸った。
「うん、信用するわ」
「そんなに溺愛してたらなぁ……」
すでに納得ムードだが、ブロスは念のため、と話を続ける。
「じゃがな、百年前の戦争でも男達には苦悩があったと聞く。国への忠誠心、家族への情じゃ。お主も国に大切なものがあるのではないか?」
青年から表情が消えて、光のない目がブロスを見返した。
「ぼくにはなにもありません。王国の敗戦国に産まれ、貧民街で育ち、成人してから王家に徴兵されただけのくだらない男です。故郷はすでになく、王国には家族も友もいません。ぼくの仲間は、この使い魔のウィクトルだけ……でも」
そこで青年は気を失ったままのサクヤの手に自らの手を重ねた。
本当に愛おしいと言わんばかりに、瞳には慈愛が満ちて、自然な笑みが浮かぶ。
「この方の生き様を見守りたいと思いました。なんの柵みも苦痛もなく、強く美しく咲き誇ってほしい。死に花なんて咲かせません。──この方のためなら、ぼくは世界を敵に回してもいい」
誰もなにも言わなかった。誰もが理解した。
この青年は、自分たちの同類だと。
「認めよう。お主はわしらの仲間じゃ。……花人にまつわる秘密を伝えよう」
ブロスは語る。花人の生態を。その特異な儀式について。
花人の花は皆甘く香るが、それにどうしようもなく惹きつけられる者がいること。
香りに惹かれ、花人の頭に咲く花の中、特別な一輪にキスをすることで“花びらの儀”──婚姻が成立すること。
花人の能力は男を惑わすもの……魅了だと思われているが、それは違うということ。
むしろ花人は、キスをされた男に身も心も全て捧げるのだと。
「花人には他者の心を捻じ曲げる力なぞない。生涯ただ一人の伴侶のために、自らの心を変え、肉体さえ作り変える。その子は最早、お主しか愛せない。お主だけの花嫁になったのじゃ」
「そんなの、認めねぇ!!」
青年が応える前に、開け放していた扉から乱入する者がいた。
サクヤの求婚者の一人だが、つれなく地面に転がされていた哀れな獣人の少年である。
「俺の方が先にサクヤを好きになったのに! テメェみてぇな侵略者に、大事な幼なじみを渡すもんか!!」
「……そうですか。ぼくの知らない彼女を知る、幼なじみ……」
青年がサクヤを抱えたまま、立ち上がる。
威圧され、冷たい目で見下ろされ、少年は背筋が凍った。
「……ぼくはまだちゃんと話せていない。直接名前も聞けてないのに」
青年は、怒っていた。
静かに浸透していく冷たい怒りに、誰もが恐怖を覚える。
魔王の称号は伊達ではなく、止められる者は誰もいなかった。
たった一人を除いて。
「弱いものイジメはやめなさいよ」
愛しい少女の声を聞くだけで、青年の怒りは喜びへと変わる。