2.枝垂れ桜のサクヤ
魔王が足を踏み入れた先は、満開の枝垂れ桜の並木道だった。
「ウィクトルは一体、どこに行ったのでしょうか」
立ち並んだ桜は魔王を歓迎するかのように咲き誇り、清浄な風に翻弄されて舞い散る花びらは、一斉に飛び立つ蝶のよう。
桃色に霞む花吹雪が相棒の小さな姿を隠してしまっている。
一面の花景色は生命力で溢れ、暴力的なまでに美しい。
常に戦いを求める魔王の乾いた心も不思議と穏やかになる。
魔王は儚いものを嫌う。
弱いものを愛でる趣味はない。
守りたいものなどもうなかった。
花とはそんな儚さや弱さの象徴だと思っていたのだが……。
噂には聞いても初めて見る桜は、儚げでありながら力強く咲き誇っており、儚いと強いは両立するのだと魔王に知らしめる。
どこまでも続いているのではないか、と錯覚する桜並木のその奥で。
花びらを敷き詰めた絨毯の先で、ユニコーンを侍らせた少女が嫋やかに手招きしていた。
ヴェールの如き枝垂れ桜と同色の長い髪で目元を覆っているが、ずば抜けた美貌は隠しきれていない。
むしろ、隠されているからこそ曝きたくなるというものだ。
桜吹雪の中で霞むことなく、調和しながらも光輝くような一際強い存在感を放つ少女、サクヤはよく通る澄んだ声で魔王を誘う。
「……どうぞこちらへいらして?」
──頭の花や立ち姿だけではなく、声まで美しいなんて。
何よりサクヤから放たれる芳しい香りに、魔王は惹きつけられてやまない。
傷付けるのを、いや、触れるのすら躊躇わせるほど美しい光景に、魔王は産まれて初めて気圧されていた。
強さこそ全てという、長年培ってきた価値観が揺らいでいる。このままでは、覆されてしまいそうだ。
ふと、こちらに伸ばされたサクヤの華奢な指に、魔王が放った青い蝶が止まっていることに気付いた。
羽の青が、花びらのような爪の薄紅色を引き立てていて美しい。
……羨ましい、ぼくも触れてみたいと考え、魔王は自らの思考に愕然とする。
花人は男を誘うだけが取り柄の、か弱い種族だと思っていた。
その能力は魅了と言われており、そんなありふれた術に惑わされる訳がないとも侮っていた。
しかし、この抗い難い美しさは魅了なんて矮小な力ではない。
大自然の雄大さ、抱擁力を前に、人は無力だと思い知らされるように。あまりの壮麗さに素直に感嘆するしかなかった。
甘い蜜に。あるいは燃え盛る炎に。眩しい光に誘われるように、春に浮かれた蝶の如く、魔王はふらふらと蟲の本能のままに進み──サクヤにあと少しで手が届く、という所で花の海に足を取られた。
「かかったわね」
白魚のような手が蝶を握り潰し、哀れな蝶は青い燐光となって消える。
「……え?」
花びらで巧妙に隠された罠。
地面に張り巡らされた枝垂れ桜の枝が、魔王の足首に絡みついていた。
咄嗟に足を抜こうとしたが、しなやかな枝は一本ではなく、複雑に絡み合って離れない。
さらにサクヤが自身の小枝を指で弾く。
小枝……枝垂れ桜の挿し穂は地面に着弾すると、爆発的に成長して担がれていたブロスの身柄を奪還する。
幹にまで成長した桜がブロスの体を押し上げ、安全圏まで運んだのを見届けて、サクヤは素で微笑んでいた。
魔王の胸に衝撃が、鋭い痛みが走り抜ける。
同時に、サクヤが続け様に放った枝の一つが甲冑の隙間を穿ち、成長した桜の枝が無防備な体を縄のように締め付けた。うっかり感心するほど的確に急所を狙っている。
「まだまだよ!」
弾切れすることなく、挿し穂攻撃は続いた。
魔王は息つく暇もない連続攻撃に翻弄されながら、この期に及んでも攻撃を躊躇ってしまう。
魔王のユニークスキルで枝や木を薙ぎ払い、花の道を殲滅することは容易い。
けれどサクヤも枝垂れ桜も神聖なものに思えてしまい、どうしても攻撃に踏み切れなくて。
それは魔王が見せた弱みにして、最大の隙だった。
サクヤは機会を逃さず、枝のしなりを利用して、高く高く跳躍する!
勢いに花と髪が巻き上げられ、隠れていた素顔が露わになった。
初めてサクヤの顔を直視した魔王は、そのまま固まり、動けなくなる。
激しい動きで甘い香りが一層強く漂う中、サクヤのきりっと吊り上がった眉、目尻に差した紅まで魔王にはくっきりと見えて……凛とした桃色の眼光に、貫かれた。
──なんて綺麗な瞳。
状況も忘れて魔王は釘付けになっていた。
それはサクヤにとって、格好の的である。
空中でくるりと旋回、微動だにしない魔王の頭めがけて、渾身のかかと落としを決めた!!
「土に還りなさいっ!!」
遠回しに死ねと言いながら、繰り出した会心の一撃は凄まじい威力で脳天に直撃、爆発したかのような、世界が壊れたような衝撃が魔王を襲う。
パリン。
兜の破片が飛び散る中、クリアになったがチカチカと白む視界で。
殺ったぁ! と今までで一番の笑顔を浮かべるサクヤに。魔王は、恋を自覚した。
地面が振動するほど重い音を立てて、魔王の体が崩れ落ちる。
それを見届けたサクヤは枝の力を使って軽やかに着地すると、花びらの下に用意しておいた大きな石で、魔王の後頭部を二度三度と打ちつけ、とどめを刺そうと振りかぶったが、やめた。
手を汚すのを躊躇った訳ではない。
「他にも仲間がいるかもしれないわね。簡単に口を割るとは思えないけど、花の国に戻れば良い自白剤があるわ」
サクヤはしゅるしゅると伸ばした枝で魔王の口に猿轡をかませ、さらに手足を拘束する。
これでもかと枝を巻きつけ、全身をきつく雁字搦めにすると、ユニコーンの後ろに隠しておいた大岩で魔王の体を押し潰した。
とどめ、とばかりに挿し穂の一つを大木に成長させて、その根で大岩ごと包んでしまえば、完成だ。
ちなみに一部始終目撃していたユニコーンは、サクヤのやり口にドン引きしている。
ここまでやってようやく安心したのか、サクヤは少し離れた場所で、枝垂れ桜に守られるように花びらに埋もれ眠る父の元に駆け寄った。
「お父様……! なんて酷い怪我」
涙をこぼしながら必死に父に呼びかけ、介抱するサクヤの頭から、魔王の存在はすっかり消え失せている。……だから背後の異常に気付けなかった。
──すごい。綺麗なだけじゃなくて、強い。それになんと可愛らしい人なのでしょう!
実は魔王にはずっと意識があった。
なのに抵抗しなかったのは、あまりの感動に打ち震えていたから。
胸が締め付けられるように苦しいし全身痛いし、特に頭が痛いが、ずっと悪夢を見ていて、ようやく目が覚めたような、とても晴れやかな心地だ。戦闘以外で高揚するのは新鮮で、なんだか照れくさくもある。
『ブックマーク:カテゴリ8:小範囲精霊魔法:風』
『ブックマーク:カテゴリ5:小範囲生活魔法:消音』
ユニークスキルを使い、頭の中で細かく範囲と威力を調整すると、もったいない、申し訳ないと思いながら、風で自身を拘束する枝を断ち切る。
自由になった腕で大木ごと岩を持ち上げると、声も音も出せず狼狽するユニコーンを目で制し、魔王は立ち上がった。
頭の血が止まらないので応急処置で止血し、残った枝ごと甲冑を脱ぎ捨てる。
「お父様……」
魔王が打ちのめした老人に泣きながら縋りつくサクヤの後ろ姿を見て、初めて後悔した。
……彼女の身内だったなんて、やらかしちゃいました。
音を立てずに忍び寄り、背後からサクヤの体を抱き寄せる。……温かくて、柔らかい。いい匂い。それに小さい。壊れてしまいそうだ。
「下心はありません。動かないで」
信用してもらえないのはわかる。
でも、今からすることを妨害されては困るから。
暴れる体をぎゅっと抱き締めると、サクヤを安心させるため、わかりやすくスキルの内容を口にした。
「ブックマーク:カテゴリ1:広範囲回復魔法:羽を休める白い光」
白い光の蝶の群れが飛び立っていく。
今にも死にそうだったブロスの傷が一瞬で塞がり、血色もよくなる。
範囲を広げておいたので、他の男達や龍の傷も癒されたはずだ。ついでに、魔王の頭の傷も治った。
「……!! 良かった」
回復した父の姿を見て、サクヤの強張った体から力が抜ける。
ほろりとこぼれた涙があまりにも綺麗で眩しくて。
……なにより、至近距離で漂うサクヤの甘い香りに我慢が効かなかった。
魔王は綺麗な髪に、咲き誇る枝垂れ桜に顔を埋める。
……さらさらで滑らかで、ほんのり温かくて、気持ち良い……。
感触と香りを夢見心地で堪能していると、奥に隠れた特別に芳しい一輪の花の存在に気付き──魔王は、本能のままに口付けた。
「あああああああああああああああっ!!??」
花びらに唇が触れた瞬間、雷に打たれたかのようにサクヤはのけ反り、絶叫し、意識を飛ばした。
連動するかのように、周囲の桜が一斉に花を散らして。
降りしきる桜吹雪の中、ぐったりしたサクヤを大事に抱き抱えながら、魔王はポツリと呟いた。
「……ぼく、またやらかしちゃいました?」