ダブリンの猟犬
ダブリンで起きた実話の断片を元に執筆した作品ですが、あくまでもフィクションです。
主人公は捜査権を持たない遺族です。彼は仕事によって社会の「正義」の側に立っていました。では彼自身にとっての正義とはなんだったのか。彼の不器用な独白が始まります。
絶望し、正義など信じずただ生きている男を捜していた。
彼こそ、ぼくの目指す男であり光明をもたらす者なのだ。彼はひょっとしたら彼ではなく、女なのかもしれない。その可能性はある。だが、経験上それは少ない。
自分の目撃した事件が衝撃的であればあるほど、そしてそれが自分に全く関わりがないほど、たいていの女性はショックを受けて誰かに語らずにはいられない。
ぼくの探しているのは沈黙している男だ。彼にとって周囲で起きる事件はただの歴史であり、自分が語るまでもなく誰かが大声で語っているはずなのだ。彼はただ沈黙しているが、特に理由があるわけではない。誰も彼に尋ねなかっただけなのだ。ぼくは彼を見つけて尋ねなければならない。
四日間、時間の許す限りその場所に立ち、彼を捜した。ぼくはぼくの観察力にいささかの自負を持っている。重大な事だからこそ、判断の誤りは許されない。痕跡が時間とともに消えてしまうからだ。
ぼくの探すべき人物は若者に無視されるか軽視されている。そして軽い嫌悪感すら持たれているかもしれない。しかし特に労力をかけて攻撃する程でもない。空気のようにうまく立ち回り、他人に意識されない男。
ならず者が無視し、彼の前で名前を呼び合うような男。そして、ぼくにとっても証人として役立つ男。
それはこの地域に根をおろしている者でなければならない。彼がこの土地にいなければならない理由は、棲みかがここしかない、ただそれだけの理由だ。ならず者がひどく攻撃しない男は貧乏でなければならぬ。
その男は貧しいだろう。そしてそれゆえに誰からも軽んじられているだろう。重要な質問は誰も彼にしなかったはずだ。そう、警官でさえも。だがともかくかたっぱしから声をかけるのが最も確実だ。
ぼくは予断を排除して声をかけつづけた。
そもそもこの事件はその思いがけない発生を多くの者が目撃していたところが特徴的だった。証人はこぞって警察に出かけ、その場にいた者は大勢で警察署に押しかけ、聞かれもしないのに自分の目の前で起きたショッキングな出来事を語り尽くした。
だが、ぼくにはわかった。この事件は証人が多すぎるし、事件は天災のように突然すぎた。彼らは何一つ犯人のことなど覚えていはしない。被害者の悲惨すぎる運命に目が釘付けになり、ならず者が三人だったことくらいしか証言できないだろう。
なぜなら、彼らは人生に絶望していない人々だからだ。
まっとうに仕事をしているバスの運転手。映画を楽しんで帰宅する途中の善良な人々。バス停に行く時刻を気にし、帰宅後の家での過ごし方をめいめい思い浮かべていた人々。堅実な商店を営み、強盗やかっぱらいなどには容赦なく棍棒をとりだそうと正義に燃えている商店主と店員たち。
彼らの心が対処できるのは、せいぜい掏摸やかっぱらい、商店強盗、万引き、ちょっとしたチンピラの小競り合い、酔っぱらいの怒鳴り声くらいなのだ。そして、普通の人々はそういう感覚をしていて当然だ。
ぼくの探しているのは、目の前で殺人が行われたのに、ショックも感じずに静かに見ていた男だ。
彼はいるのか? いないのか?
ぼくは可能性に賭ける事にした。目指す男が見つかれば、ぼくはママに報告できる。ママは悲しみのために死ぬのだろうか。
映画館から多くの人々が出て来た。
ぼくも昔ここに来た事が何度もある。幼い弟をつれて、漫画映画を楽しんだ。フライシャー兄弟やディズニーだ。弟が少し大きくなると、冒険ものやミステリーものを一緒に見た。弟のお気に入りはシャーロック・ホームズやルパン、ポアロだった。ぼくは嬉しかった。なぜなら、ぼくも大好きだったからだ。
映画館から出て来た人々は例の場所に花が置いてあるのを見て、小さな祈りを捧げている。
そうだ、ここはぼくの弟が死んだ場所だ。
シャーロックを観た遠いあの日、弟がぼくの買ってやったパンフレットを抱え、自分の新たなヒーローのことを熱く語っていたその場所。その灰色の目はぼくと同じ色だとママにいつも言われていた。
この故郷の街は家族を遠くはなれてからもぼくのおとぎの国だった。死に彩られたぼくの暮らしの中で、家族とともに暮らした思い出の場所は輝く星だった。
弟が美しいメアリーと結婚しママに美しい幸せをもたらすと考える事がどれほど救いになっただろうか。
ぼくにできないことが、彼にはできたはずなのだ。
ぼくは映画館の人々やバス停の人々に声をかけ、悔やみを言って彼らが去って行くのをながめていた。彼らがどんなに弟の死を悼もうと、ぼくの役にはたたない。小さな祈りの後、花の事を次第に忘れて行くだろう。
その花の側に一人の男が立って死の臭いを嗅いでいたことも。
ママが涙のために弟を直視できないから、ぼくが死体の確認をした。シカゴでの仕事柄、死体は見慣れている。もっとひどい死体をたくさん見て来た。弟の歯科医の記録を調べるまでもなかった。
ぼくは弟の借りていた部屋に行き、メアリーの家族とも会った。メアリーの棺に入れるものを選ぶために、彼らは来た。メアリーの兄ゲイリーとぼくは初対面だった。幸せな結婚式を来月に控えていたから、親戚付き合いはその後で良いと誰もが考えていた。時間をかけて友人になるはずだった男。
彼は土木設計技師だった。細かい図面を見つめ続けて眉間にしわが刻まれてはいるが、現場にきちんと足を運ぶ律儀さがあるらしく真っ黒に日焼けしていた。バカンスで焼けたのではない証拠に、時計のところと首筋が白い。彼は夏じゅう勤勉に働いていた。その手は柔らかく、握手の力は悲しみのために弱々しかった。
「ドクター・バークレー」
と、彼は言った。
「シカゴ警察でご活躍と聞いていました」
「検死局の病理学者をしています」
「専門的な話を伺っても?」
「この事件についてはぼくにはまだ何の情報もないのです」
「構いません」
ぼくは彼が知的な人間であるとわかった。彼は少なくとも、メアリーと同じ程の知性を持っていて、同じ程のバランス感覚を持っているのだろう。感情を抑制しつつ、状況を解明したいと願っている。
「わたしも新聞やテレビ報道でしか事実を知りませんし、第一報以外は苦痛のためほとんど知りたいとも思いません。しかし、唯一の関心は、果たして正義は行われるのかということです」
「ぼくも」ぼくは言葉を選んだ。
「ぼくもその点には大きな関心を持っています」
「あなたは専門的知識をお持ちだ。だから、同じ遺族として関心を共有するものとしての質問だと思っていただきたいのです。犯人はこうした事件で捕まるのでしょうか」
「何とも言えません」
「なぜですか。たくさんの人が見ているのです」
「たくさんの人が見ていましたが、証人として役立つかと言えばそれは別です」
「なぜですか」
「彼らはほとんどがその街に根をおろしていない人々です。近郊から繁華街に出かけ、映画を楽しみ、また郊外の自宅に帰る。また、この辺りは商店主もやとわれ店主が多く、自宅は同じく郊外だ。バスに向かう人々も、バスの運転手も同じだ。犯人たちは様々な人々に強い印象を与えたが、ただのゴロツキの悪者として記号化されてしまっていて、特徴的なことを言える者は少ないでしょう」
「では目撃者はあてにならないと」
「あてにならないわけではありません。状況は彼らの証言で明白だった。メアリーにも、ジョニーにも、何の落ち度もなかった」
彼はしばらく黙った。
「そうだ。落ち度などなかった」彼は続けた。
「メアリーもジョニーも、ただデートをしていただけだった。映画を観て、フィッシュアンドチップスでも買って帰る、いつもの質素なデートだった。結婚を一ヶ月後に控え、倹約していた。映画館もうさんくさい所にあるわけではなく、人通りの多い繁華街だった。時刻もまだ九時前だ。そこに酔っぱらった三人の若者が通りかかった。明らかに顔見知りではなく初対面だ。ぶつかったわけでもなく、ただそこにいたというだけだ。ただ幸せそうに二人で歩いていただけなのだ。彼らは避けようとするジョニーの顔を酒壜でいきなり殴りつけ、倒れたところをさらに殴りつけて、ただの二分で撲殺した。悲鳴をあげるメアリーを笑いながら抱え上げ、バス停に向かって速力をあげていた路線バスの正面に放り出した。メアリーも即死だった。彼らの死は五分以内に訪れて去って行った。これだけのことを証人たちは口々に語り、わたしたちの家族に何一つ落ち度がない事を証言してくれている。だから、あてにならなかったわけではない」
ぼくは彼の心がわかった。彼は自分を痛めつける事で自分を罰している。事実だけを述べるという事務的な語り口ではあったが、語りながら、もう、ぼくを見てはいなかった。
彼はぼくの黒いネクタイを見つめていた。
だが彼が真に見ているものはあの場所のあの時だった。彼は生涯それを見続ける事だろう。なぜならそれが彼とぼくの約束の場所となったから。死んだ者たちの記憶の最後の場所だから。
ぼくは彼と違って弟の死んだ場所にもうひとつの意味を見つけていた。それは痕跡だ。時とともに消えてしまう痕跡なのだ。
彼は泣きはしなかった。だが心の中は涙で濡れていた。ぼくは多分、努力すれば彼とともに泣けただろう。だが、ぼくは泣いている場合ではないのだ。ぼくにはしなければならないことがある。
「犯人はつかまらないのでしょうか」
長い沈黙のあと、彼は言った。
「何とも言えません。ただ、ぼくに言えるのは、希望はあるということだけです」
「希望ですか」
「そうです。どんな時も残されている希望です」
「その他に残されているものは」
「何かはぼくにもわからない。生きている者は何かをいずれ見つけ出すものです」
「多分あなたの言う通りでしょう」
「ぼくからも質問していいでしょうか」
「何でしょう」
「あなたが苦しんでいる原因です。悲しみだけではなく、あなたは自分自身をなぜか責めている。この事件はぼくのせいでないのと同じようにあなたのせいでもない」
彼は目を閉じて言った。
「メアリーの運命に何もしてやれなかったという事実です。わたしは何かできたかもしれない。事件の日、わたしはラグビーの試合を観に行っていた。いつもなら彼らも誘っていた。だが、誘わなかった。誘えば彼らは絶対に断らなかっただろう。なぜわたしは誘わなかったのか。それは、一人で観戦してビールを飲みたかったからかもしれない。結婚を控えた二人を邪魔したくなかったからかもしれない。彼らは節約していた。週末の安上がりな楽しみとして映画を観に行った。そして、獣に出会って食い殺された。だからわたしは自分を許せないんです」
ぼくはうなずいて、彼の手に軽く触れた。ぼくは残酷に振る舞ったのかもしれない。だがぼくが何をしても、彼は傷ついただろう。
ぼくは彼がメアリーの持ち物を持って行けるように合鍵を渡した。彼につきそってきたメアリーの叔父夫婦は何も語らなかった。彼らもそれぞれに自分を責めているのだろう。なぜ、あの日自分はメアリーを気にかけなかったのか、と。
シカゴでの多くの経験がこれをよくあることと教えてくれている。
ぼくは検死活動で多くの遺族と接触して来た。強盗や、軽い窃盗ですら、被害者たちは運命の日の自分の行動を反芻し、反省しようとする。
だがぼくは知っている。それは理不尽で不当なことだ。狼がいつ襲って来るか予想できなかったからと言って羊は反省すべきだろうか。
この狼たちは羊を食べてもいるが、楽しみのために殺す事もある。彼らは娯楽のために、退屈のために、刺激に鈍感になっているがゆえに、殺したのだ。
事件の翌朝、ママから電話をもらって、ぼくは即座に半年間の休暇をもらった。
いままでのぼくのキャリアから見ても、こうした休暇は異例のことだった。
だがシカゴ警察がぼくをお払い箱にするはずがないのだ。ぼくの手際の良さには定評がある。科学捜査とは言っても職人仕事あっての分析なのだ。
すぐに故郷に向けて旅立ち、空港からなつかしい町並みに近づく列車の中で事件の情報を整理していた。そして家族としての務めを果たすときが今であると気がついた。
幼い時から科学に興味を持ち、正義を果たすには綿密な職人芸が必要とされると知ってきた。大学をまあまあの成績で卒業し、シカゴ警察に入った。ぼくの頭の中に、弟の姿があった。
彼のヒーローであるシャーロックはぼくにとってもヒーローだった。
ぼくは犯罪の巣に引き寄せられ、そこで多くの暴力と理不尽な死に出会いそれを分析した。
医者がいちいち人の死に動揺しないように、ぼくも暴力や死に動揺しない訓練を受けている。怒りや悲しみにかられては、分析などできないのだ。検体はただの検体であり、試験管の肉片はただの試験管の肉片だ。
到着した時、ママはベッドで寝ていた。精神安定剤を飲んで、ひたすら眠っていた。食事もとれないので栄養剤の点滴を受けさせる必要がある。家の中は思い出の品でいっぱいなので病院に入れるのが最も良い選択肢だった。遺体が戻るまで葬儀はできない。ぼくは弟の手鏡をビニール袋に入れた。メアリーの忘れて行った小さなリップクリームも。
ぼくはいままで一人で狼を狩ったことはない。だが、多分やれると思っている。これだけの事を思い出しながら、ぼくは四日目の夜をその場所で待っていた。日が暮れていた。
警察犬たちは人間の臭跡を足跡だけから嗅ぎ付けるわけではない。そこに残された空気にはっきりと臭いは残っている。犬にとっては明白で見逃すはずもない事実なのだ。四時間程それは残されている。彼らは痕跡を追うべく訓練されている。
ぼくは犬ではないが、痕跡の見方は訓練されている。
ぼくは集中していた。
映画館はまた客を吐き出した。おなじみの祈りの儀式が花束の前で展開されている。何人かは花を持って来て添えて行く。その中で、ぼくは幸運が訪れた事を知った。誰に真っ先に声をかけるべきかは明白だった。
そこには戦争で多くの死に遭遇してしかも全く尊敬されなかった男がいた。彼はその若さを祖国のために捧げたという意識もなく、ただ周辺に流されたにすぎないのだが、それでも人生の理不尽に気がついていた。
その老人は映画館の裏口から小さな袋を持って出て来た。客の食べ残しを捨てたゴミをもらって来たのだ。姿勢は非常に良く、もとは軍人だったのは明らかだ。だが拾ったと思われる競馬雑誌を大事そうに抱えている。帽子を目深にかぶり、他人の目に触れるのを恥じている。それでも古靴をおざなりに磨いている。多分習慣に従って。彼は何を見たとしても決して警察になど行かないだろう。
この事件では現場に人が多すぎた。警官たちは聞き込みなどしなくても多くの証言を得る事ができた。だから綿密な聞き込みは未だ行われていない。少なくとも、発生四日目まで、ぼくの調査の最中警官の姿は見かけなかった。彼らは「押し掛けた証人」たちをさばくのに精一杯なのだ。
ぼくは老人のそばに行った。匂いで喫煙の習慣があるとわかった。
「好きなタバコは?」
老人はぼくを見つめて言った。
「世界中のタバコが好きだな。買えればね」
「じゃあ、買うといい」
そう言ってぼくは紙幣を見せた。
「見返りはなんだい」
「四日前の殺人事件の証言だ」
彼は少し黙って考えていた。
「あのチンピラなら、みんなが見てたぜ」
「だが、冷静な兵士の眼で見た者はいない」
「たしかにな!たしかにそうだ」
彼はぼくを値踏みするような眼で見た。
「何者だ?」
「被害者の兄だ」
「女のほうか?」
「いや、男のほうだ」
「何を言わせたい?」
「チンピラの名前」
「俺が証言台に立つとでも?」
「いや、証言台には立たずにすむだろう」
「なぜだ」
「名前さえわかれば証拠をつかめる。つかんだらもう証言はいらない」
「動かぬ証拠がつかめるのか」
「ぼくはシカゴで検死をやっている。必ずやる」
「俺が見たとなぜわかる」
「そうだな。込み入ってはいるが、説明できると思う。あんたが納得するかどうかは別だが。あんたは今映画館の裏口から出て、花束のあるほうへ、つまり事件現場の前に向かう所だった。この時刻だから帰宅するのだろう。だからあんたの帰宅経路はわかる。バスに乗る程遠くに住んでるわけじゃない。事件の起こったのは今ぐらいだ。あんたは自分なりの方法で毎日の食事を得ている。かかえている雑誌の種類から考えると多分食費を節約しなければならない事情があるのだ。ここしばらくはあんたの習慣はそれほど変化のあるものとは思えないが、この三日ほどはここに寄り付かなかった。もしいたらぼくに会ったはずだ。つまり、面倒ごとを避けていたのだろう。なぜ面倒ごとを避けていたのか。それは警察に対する嫌悪感であり、正義に対する懐疑だ。人々がこぞって自分は目撃者だ、関係者だといいはるこの大事件に全く関係しようとしない。だが、毎日靴を磨くようにあんたは習慣に従って行動する人間だ。だとするなら例の夜も必ずここにいたに違いないのだ」
彼は大きく目を見開いた。
「酒もおごってくれなきゃならん」
「好きな酒を飲ませよう」
「たしかに俺はあの晩、ここにいた。ともかくいつもあの時刻にはここに来る。ただで晩飯が食えるからな。映画館に知り合いがいて、俺を憐れんで食い物をわけてくれる。競馬ですってしまって年金もほとんどない有様だ。誰もが俺など気にかけないが、そのおかげであのチンピラの名前は聞こえた」
「どうやって聞いたのか」
「奴らが女を殺した後、大笑いしながら走って行った。その時、一人が転んだんだ。もう一人がうっかり名前を呼んだ。『人食いアーチボルト!この間抜け!』とね。」
「人食いアーチボルト」
「それだけだ。他のやつらはみんな死んだ男と女に向かって突進してたな。俺は死人に関心はなかった。死人は悪さはしないからな。悪さをするのは生きてる奴だけだ」
「名前は?」
「人食いだよ」
「違う。あんたの名前だ」
「証言台か?」
「違う。感謝したいだけだ。知らない奴に感謝したくないからな」
「この界隈じゃジェフで通ってるよ」
「ジェフ、もう会う事はないだろうが、生涯あんたに感謝するよ」
ぼくはジェフに支払った。タバコも酒も、ことによったら部屋代も払えるだろう。
細い細い希望の糸だったが幸運にも切れる事なくつながった。
ぼくは次の段階に備えなければならない。
ママの家に帰り、なつかしいソファに座った。ママは入院している。明日も面会に行くつもりだが、多分会話にならないだろう。彼女の繊細な神経には今回の出来事は苛酷すぎる。いや、どんなずぶとい神経の持ち主でも無理だろう。ぼくはママまで奪われるのだろうか。
弟が高校生の時に、ぼくはシカゴに行った。彼は家族を置いて行くぼくに不満を持っていたかもしれない。だが、ぼくがシカゴ警察で腕をあげていくのを報告する度に喜んでくれた。彼はぼくの話に影響されたわけではないだろうが、法学を志し、猛勉強したらしい。そこでメアリーと知り合い、弁護士を目指した。卒業後の就職が決まっていた。たまに帰郷すると、メアリーと弟とぼくは、この気持ちのよい居間でテレビを見たりビールを飲んだりした。
ママはそんなぼくたちを多分思い出しているに違いない。ぼくもそうだから。
そして激しく心が引き裂かれるのだ。
弟がシャーロックをヒーローと思ったのは間違いだ。
ぼくがシカゴで検死をしているのも間違いだ。
弟が法律に興味をもち法学部でメアリーと知り合ったのも間違いだ。
メアリーと婚約し映画を観に行ったのも間違いだ。
その映画館を幼い日に弟に教えたのも間違いだ。
・・・いや、間違いのはずがない。
ぼくが弟の運命の場所を定めたはずがない。犯罪被害者が反省する理由などない。弟はただ愛されていただけだ。
チンピラたちは多くの場合、人に愛されていない。そして他人に対する感情は極めて単純な憎しみだ。彼らは苛酷な環境のせいにして他人を苦しめる。なぜなら、彼らは狼である自分を人間にしようとは思っていないからだ。
ぼくはソファに横になり、朝まで眠った。
翌日、地元の警察署に出向いた。担当刑事に面会を求め、自分の身分を明かした。彼らはぼくの名をはじめはよく知らなかったようだが、照会したようだ。待たされた後、担当刑事フェアバンクスがやってきた。
彼はきびきびとした物腰の四十歳前後の男だった。大きな事件にとまどっており、かなり寝不足のようだった。
「バークレーです」
「被害者のお兄さんですね。シカゴ警察にお勤めとか」
「その通りです」
「捜査は進行中です。残念ながら進展はありません」
「ぼくはこの四日間、現場を調査しました」
「調査?」
「重要な証言を得ました。犯人を見つけたと思います」
「何ですって」
「犯人の通り名は人食いアーチボルト。目撃した老人は映画館に毎夜食べ物をあさりに来る退役軍人です。会う気になれば会えますよ。公判に出なくて良いと言えば供述はとれるでしょう」
「証言の信憑性は?」
「その質問は問題になりませんね。他に有力な証言はありますか?」
フェアバンクスは黙った。
「使える証言は皆無だった」
「ぼくは同業者だ。こうした事件ではどんな手がかりでも欲しい所でしょう。ぼくはただお役にたちたいだけなのです」
「人食いアーチボルトという通り名は特定できるだろう」
「そう、本名よりも居場所がわかりやすい」
「本人たちが喧伝するからな」
「そしてつるんでいる奴らも特定しやすい」
「バークレーさん、ご協力感謝します。しかし、あまり期待はしないように」
「ああ、その言葉も無用ですよ。ぼくに対して身構える必要はありません。また来ても構わないでしょう?」
「あなたの専門的知識を活用されると?」
「いえ、ぼくの情報が間違っていたかどうか知るためです」
刑事はうなずいた。
「捜査情報を普通は被害者遺族に必要以上に知らせたりはしませんが、あなたは同業ですからね。そうした態度は理解できます」
「多分」
ぼくは言った。
「今日を含めて三度だけ、あなたに会う事になるでしょう」
彼が返事をする前に、ぼくはドアから出た。
時間との戦いにぼくは勝ったのだろうか。まだ断定できない。
病院の休憩室でぼくは新聞を広げていた。
容疑者が三人逮捕されていた。彼らは札付きの悪党だったが、いつもは違う場所で暴れていた。その夜はたまたまあの場所で飲んでいたのだ。当然のことながら、彼らは全面的に否認している。だれが死刑になどなりたいものか。狂犬であっても最期の瞬間まで生を願うものだ。
ぼくは毎日母を見舞っては、休憩室で新聞を読んだ。売店の男にはもう覚えられてしまって、ぼくが行くと全部の新聞を一部ずつ用意してある。
秋の訪れはただただママの胸をしめつけるだけだ。本当なら、弟夫婦の結婚式があったはずなのだ。
あつらえたタキシード。真っ白い手袋。小さな指輪。ぼくには、このまま奴らが潔く刑に服してくれるなどという甘い希望などなかった。ただ、ぼく自身が納得するためにもう少し確かめる事がある。
その日、弟の遺体が返されて来て、身につけていたものも調べを終えて戻って来た。弟は撲殺され、その証言も多かったので解剖ののちすぐに返されたのだ。
病院が治療に全力を尽くしたため遺体に付着した証拠物は洗い流されてしまっていた。彼らが弟を助けようとしたことを責める事はできない。
遺品も埃にまみれ打撃のあとがひどくついていたものの、検死できるほどの証拠はほとんどなかった。だが、ぼくはカバンの中に道具を持って来ていた。駆け出しのころ使っていた伝統的なものだ。検死と鑑識は歴史的に一体のものだ。
今は役に立たなくとも、今やっておけば後々の記録になる。ぼくは作業を始めた。
予想通り、弟はデートのために少しおしゃれをしていた。普段はさっぱりとしたシャツとズボンだが、たまの週末のデートではメアリーの好みの服装をしていた。
いつもなら決して着ないモッズコートだった。その証拠に、弟のクローゼットには他に一着もない。
ぼくは事件の状況を思い出してみた。狼たちは犠牲者を痛めつけようとしていた。いきなり殴りつけた。だが、こうした暴力を楽しむ者は、簡単に犠牲者が死ぬとつまらないと感じるものだ。快楽を長引かせるために、被害者をすぐに倒れないようにすることがある。彼らはどこかにさわったのではないだろうか。
現実には、彼らが弟の顔を酒壜で殴った時に、鼻骨が折れ、脳は震盪した。弟は抵抗する間もなく倒れかかったに違いない。
彼らの乱暴のはじまりの部分は数人の者しか見ていなかった。それも被害者加害者双方の体のかげに隠れてくわしい状況はわからない。証言ではアベックの男が殴られて倒れてからがくわしいのだ。
ぼくは弟の着ていたコートの繊維に注目した。表地には指紋は残らない。だが、裏地はどうか。彼らは弟の服は脱がせていない。だから警察は裏地までは調べていない。
ぼくはその光沢のある繊維をくまなく調べた。弟はデートのため、コートをクリーニングに出している。部屋のダストボックスにレシートがあった。近所の小さなクリーニング屋だ。もちろん、光沢のある生地なので潜在指紋があっても肉眼では見えづらい。
ぼくは手袋をして裏地を表地からとりはずし、慎重に顕微鏡で覗いた。生地はところどころ熱で溶融している。クリーニング屋の見習いはアイロンの温度を高めにしたのかもしれない。日本製の人絹のようだが、断定はできない。ぼくはくまなく調べた。夜は長く、人生はさらに長い。母のところに行くほかは、食事と睡眠だけだ。ぼくが何をしているかは誰も知らない。
目指す証拠は胸のあたりにはなかった。しかし首すじに近いところに目指すものがあった。繊維が熱に弱いためニンヒドリンは使えない。ぼくに幸運があるとするなら、正しい道に導いてくれる論理的な考え方がそれをもたらしている。
つるつるした繊維に指紋がついていた。事件当日にクリーニングから戻って来ているし、この指紋は事件に関わりがあるかもしれない。
ぼくは他の可能性も考えていた。弟の手鏡、メアリーのリップクリーム、ママのヘアブラシがぼくに判断材料をくれる。ぼくはそれを全部調べた。そしていよいよ、裏地の指紋をパウダーで慎重にとった。
その全てを写真にとる。すべての証拠をクリーンに保つ事が必要なのだ。
だが、この指紋はあまりにもぼやけている。ママのでもなく、弟のものでもなく、メアリーのものでもない指紋。
証拠採用するには不鮮明すぎる。法廷では使えないだろう。粉々になった酒壜を検査できればいいのだが。頼んでみてもいいかもしれない。そちらのほうがはっきりした決め手となるだろう。
ぼくの行動は次にそなえるためだ。周到な準備こそが大切なのだ。だが、全ての鍵は多分、明日の新聞にかかっている。ことによってはこの全てが必要なくなり、ゴミ袋に捨てられることになるかもしれない。
葬儀は簡素に行われた。同情した市民たちがかなり集まった。警察関係者も来ていたが、葬儀に来たものの中に犯人がいるかどうか見るためだ。つまり警察は逮捕した容疑者をまだ犯人とは断定していない。
新聞を広げ、ぼくは次の段階が来たと悟った。
ママに容疑者逮捕の知らせを教えた馬鹿者がいたようだが、今日の無罪釈放のニュースも知らせるつもりだろうか。
ぼくも警察も時間との戦いに敗れていた。三人の容疑者はぼくらが捜査に時間をかけている間に鉄壁のアリバイを作り、完全に口裏をあわせていたのだろう。無法者は無数にいる。アリバイのある無法者は釈放され、アリバイのない無法者が捜査対象になる。報道に彼らの名はついに出なかった。
ぼくはフェアバンクスに二度目の面会を求めた。
「ドクター・バークレー、あなたの最近の仕事を先日聞きました」
「ああ、コールガール殺しの一件ですね」
「捜査資料を見る機会があったのですが、とんでもない離れ業をやりましたね。水でびしょびしょの紙から指紋をとったそうで」
「あのレシートの材質が幸運だっただけです」
「しかし、決め手になった。病理学以外の腕もお持ちだ。シカゴ警察の至宝と呼ばれているそうですな」
「なんでも屋ですよ」
「今回のご用向きは承知しています」
「予告してありましたからね」
「結論を申し上げましょう」
「はい」
「わからない、です」
二人とも沈黙した。ぼくはゆっくりと彼の顔をながめてから口を開いた。
「しかし彼らは釈放されたのでは」
「物証もなく、証言はひとつだけ、しかも鉄壁のアリバイがある。公判は維持できません。有罪にできる見通しがないのです」
「では犯人ではなかったことになる」
「法律上はね」
「なるほど」
「だからわれわれは手も足も出ない」
「なぜ、わからない、と答えたのかぼくに察して欲しいということですね」
「まあそういうことです」
「刑事さん」
「何ですか」
「ぼくはね、こうして刑事さんと会話しているのは何も裁判にかけて有罪にしてくれと言ってるわけじゃない。被害者の兄としてただ真実が知りたいだけだ。警察官として訓練も積み、それなりの地位もキャリアもある。だから率直にあなた個人の意見を聞きたいのだ」
フェアバンクスはしばらく考えた。彼は間違いなくぼくに同情している。ぼくを例外として認めてくれるはずだ。
彼はとうとう言った。
「あなたは正しかったとわたし個人は考えてます。彼らは間違いなくやってますよ」
「その理由は」
「完璧すぎるのです」
「ほう」
「彼らを逮捕したのは事件から一週間後でした。彼らを別々に尋問しましたが、アリバイが完璧すぎるのです。一分一秒の狂いもありません。三人とも全く食い違いがないのです。供述調書は見分けがつかないほどです。言ってる奴が違うのに、ここまでの一致はなかなかありません。あなたもおわかりでしょうが、一週間前の自分の行動なんて順序よく答えられる奴なんてほとんどいません。メモや日記と縁遠い飲んだくれどもなのに、このとんでもない能力がいきなり三人ともに開花したなんて信じられません。ならず者仲間の証言まで一分たりとも狂っちゃいない。後ろ暗いことがなけりゃこんな準備はしませんよ。やつらは空き巣やかっぱらいや喧嘩沙汰で前科があるが、こんなことはなかったのです。なぜ今回だけ?答えはね、重罪を犯しているからですよ。重罪の自覚があるんです。そしてまんまと逃れたのです」
「あなたという刑事に出会ってぼくは嬉しいです」
ぼくは,心をこめて言った。
「納得していただけましたか」
「これからどうする予定ですか」
「そうですね。周辺をさぐりますが、彼らが尻尾を出すのを待つしか方法はありません。物証のある事件を起こすまでは無理でしょう」
「たしかに」
ぼくは考え込みながら静かに言った。このフェアバンクス刑事は経験も積んでおり、ある種の直感がある。惜しいのは捜査方法が論理だっていない点だ。
しかし、どちらにせよ時間との戦いに敗れた点では双方の立場は同じだ。やつらはたっぷり一週間を有効に使っていたし、十分ぼくも予想していた。
「たしかに、それしか打つ手はないでしょう。だが、こうした犯罪者は一度こうしたことを切り抜けてしまうと無反省に繰り返すものです」
「ああ、彼らは狼ですからね。獲物の取り方を覚えてしまう」
彼はそう言った途端、自分の目の前にいるのが被害者の遺族だと思い出したようだった。彼は目を落とし、「すまない、言い方が悪かった。気を悪くしないでくれ」と言った。
「いいえ」
ぼくは言った。
「気遣いは無用です。ぼくは冷静にこの事件を考えているのです。あなたと全く同意見なのです」
「同意見とは?」
「彼らが狼だという事です。では失礼します。あと一度だけお会いすることでしょう」
ぼくはモルグの男と話をした。彼もぼくに同情していた。凶器の酒壜は粉々で検査すらされていなかった。
壜を持って来てもらい、ぼくは二時間そこにいた。
破片のカーブは壜の首の部分と胴の部分では違いがある。ぼくが調べるべきは壜の首の部分だけだ。酒壜を凶器として使うときは、首の部分を持つのが普通だろう。
カーブの特長別に2つのグループに分け、弧の小さい首の部分を選び出し、その中でも使えそうな破片をピンセットで支え、アルミパウダーをかけて処理し観察した。いくつかに指紋が見られた。それをよく観察して組み合わせると2つほどの指紋が構成できた。
しかし欠けが多くあるため裁判では説明できない。だが、ぼくにはわかる。写真に撮って記録した。きれいに出来たと思う。
夜が来た。ぼくの時間だ。ぼくはママとひとつだけ約束をした。ママは聞いていないようだった。
ママはぼくよりも弟を見ていた。
ママとぼくは共に弟を育てた協力関係にあった。家族の中で、弟だけが愛をそそがれ守られるべき子供だった。死んでしまった後も。ぼくは彼の父代わりであり、ヒーローだった。
ぼくはあの名探偵のように闇の中に歩みだした。ぼくの目指すのは「人食い」だ。それは最近釈放され、羽をのばし、自慢話をしているはずだ。普段はあの映画館界隈には出没しないという事だったが、逮捕直後、彼らの友人の談話がいくつか新聞に掲載された。タブロイドにはもう少し詳しい話もあった。彼らの友人は金目当てでぺらぺらとしゃべっていた。彼らのいるあたりは調べがつく。あとはぼくがきちんとやれるかどうかだ。
この街はシカゴに比べれば小さい。チンピラはあちこちで迷惑をかけているものだ。フェアバンクスが口を滑らせた窃盗事件が有力な情報だった。ぼくは過去数年分の市内の窃盗事件を図書館で調べた。そして被害にあった商店をすべて書き留めた。商店主というのはこういうことをいつまでも覚えているものだ。
ぼくは銀行からできる限りの金を下ろした。軍資金が必要だった。
全ての商店にあたるまでもなかった。今回の事件では目撃者がたくさんいるにも関わらず残虐な犯行に及んでいる。彼らの最初の犯罪はこっそり行われたかもしれないが、次第に大胆になり、人目をあまり気にしないようになっている。多くの犯罪者は最初から大胆ではない。犯罪を積み重ねるうちに、彼らは「育って」いくのだ。
彼らは次第に根拠のない全能感を持ち始めたはずだ。目撃者の多い犯行、つまり店に複数の人物がいるのに構わず行っている犯罪があるはずだった。
すると、いくつか特徴的な犯罪があった。押し入っている人数は二人だが、三人である必要はない。店員と店主がいるのに犯行におよび警官に捕まっている。彼らはただ喧嘩をしただけだと言い逃れをして微罪で釈放されている。
名前はアーネスト・ハインズ。こいつの通り名を聞くだけでいい。その商店に出かけて行った。
幸運な事に店主がいた。帰る3分前に会う事ができた。アーネスト・ハインズに借金を踏み倒されて困っているのだが、通り名を知らないかと持ちかけてみた。
「ああ、有名だよ。あいつは人食いアーチボルトだ」
ぼくは糸がつながったのを感じた。店主は何でも話してくれそうだった。
「どのへんにいるのかね」
「あいつなら近所のAって店に入り浸りだな。もっとも、俺は絶対近寄らないがね。借金を返してくれるなんて夢物語は信じない方がいいぜ。忠告しておこう、あいつには金をくれてやったと思っていたほうがいい。返せなんて言ったら命がいくつあっても足りやしないよ」
店主には十分なお礼をして、忠告の通りにすると約束した。
ぼくはその店に行ったが、観察のためだった。
誰かと会話する必要はなく、ただ耳を澄まして人々の会話を聞けばよいのだ。なぜなら、ハインズは晴れて自由の身なのだし、新聞に名が載ったわけでもない。ならず者の仲間うちでは「うまくやった」英雄だ。鼻持ちならない金持ちを殺したうえにまんまと警察を騙しおおせたのだ。酔っぱらいは秘密など持てない。彼らは堂々と話すはずだ。ぼくは店の客になる必要もない。トイレの個室のひとつに入り、故障の札をかけた。そして長い夜を過ごした。
ハインズは姿を現していた。ぼくは客たちの話を聴いて、今来店していると知った。女の子に卑猥な言葉をかけているようだ。ぼくは個室を出た。廊下を通り店の裏口から出た。表側に出ると、さけんだ。
「よう! 人食い! 今日は何人食うんだい! おまえは俺たちのヒーローだぜ! たいした奴だ! 乾杯しようや!」
すると窓から奴が顔を出して叫んだ。
「うるせえ! この人食いアーチボルト様をバカにしやがったらただじゃおかねえぞ!」
ぼくは奴の顔をしっかり目に焼き付けた。幸い店先の明かりは白々と明るく、奴の顔はくっきりと見えた。ぼくはあの顔を後に他の新聞記事でも見つける事ができた。逃げ出したぼくの顔はだれにも見えなかったはずだ。ぼくは闇の中に立っていた。
顔も名前も立ち回り先も知れたハインズの動向をつかむのは簡単だ。ぼくは次の一週間かけて、奴の仲間も割り出した。あとをつけて仕事も住所も突き止めてしまった。
やつらは重罪の共犯関係を通じてさらに結束を強めていた。だが、しょせん酔っぱらいだ。奴らの指紋をとるのは難しいことではない。放り投げた酒壜を拾い上げさえすればいい。たちまち三つの酒壜が集まった。
ぼくは弟の上着の裏地からとった指紋を彼らのものと照合した。それは不鮮明ながらハインズのものと一致した。凶器の酒壜のほうはハインズではなかった。だが、誰のものかはわかった。誰も説得できなくとも、この確率ならば、ぼくは満足だ。
ぼくはうまくやれたのだろうか?
弟のヒーローとして遅ればせながらもかけつけたが、ほとんどの名探偵と同じく、事件が起こってしまってからでなければ動く事はできない。悲劇が起こらなければ、捜査は始められないのだ。
だが、フェアバンクスのように次の事件まで待つ事はない。バークレー家にとっては起こってしまった事件だが、他の者にとってはこれから起こる事だ。
必ず再犯すると分かっているのに、警察は犯罪者を裁判に送り出してタイマー付きの牢獄に閉じ込める。
その中には本当に悔い改める者も多くいる。だがこんな残虐性を持つ者が本当の意味で悔い改める日など来るのだろうか。
ぼくはドクター・バークレー。今もぼくは冷静だ。痕跡を探し、見つけ出し、獲物のねぐらも主人に教えた猟犬だ。だが獲物は依然としてそこにいて、羊を殺し続ける。証拠がないからだ。法律が要求する厳密な意味での証拠がないから。だから主人は獲物をあきらめる。次の猟まで待たねばならない。だが、猟犬として訓練されて来たこのぼくは、この狼の群れを狩り出さずにはいられないのだ。
ママの病院には毎日通っていた。彼女に面会者がいたようだ。フェアバンクス刑事らしい。彼は事件の結末を報告に来たのだろう。
ママはあまり動揺していないようだった。あまりにも感情を揺さぶられると人は防御をはじめ、無感動に振る舞う。だが、本当は後から複雑な感情をかみしめることになるのだ。入院先を誰から聞いたのかは分かっていた。メアリーの親戚だろう。
彼らの親切心を恨みたくはないが、善意はたびたび人を苦しめるものだ。だが、メアリーの兄ではないだろうと思った。ゲイリーは人間をよく分かっている。
あの日焼けした土木設計技師は、もう仕事に復帰しているに違いない。ゲイリーの心は砕けたまま戻らないだろう。メアリーの思い出は彼を終生痛めつけるだろう。幸せな日も、悲しみの日も。
彼と会話したのが十年も前のような気がする。だが、実際は一ヶ月たっていないのだ。彼との会話を覚えている。ぼくたちは完全に一致した意見を持っていた。彼は自分を痛めつける道を不当にも選んでしまっていたが、ぼくは公正に考えるタフさを持っていた。
彼よりも自分が偉いなどと言うつもりはない。ぼくは職業的な理由によりそういう考えを長年にわたって身につけているのだ。そして正義は必ず行われる。そういう信念も持たずに毎日死体を扱う事はできない。
彼らは叫んでいる。何か見つけてくれ、記憶してくれ、記録してくれ、調べてくれと。人間はいつか死ぬのだけれど、思い出を残して行く。それが悪い思い出であったとしても。
さらに一ヶ月がたって秋が深まったころ、フェアバンクスが病室に訪ねて来ていた。ぼくは病室に入ると彼に言った。
「やはり、あなたとは三度会いましたね」
「わたしには予想もつかなかったですがね」
彼は病院内のカフェにぼくを連れて行った。ぼくはコーヒーを、彼は紅茶を注文した。
「先ほどお母様にお聞きしたのですが」彼は切り出した。
「シカゴに帰るそうですね」
「ええ、長い休暇でしたが、母もなんとか持ち直したので」
「ドクター、本来は半年間の休暇だったと聞いていますよ」
彼はシカゴに電話したのだ。ぼくは静かに言った。
「早いとおっしゃるのですか」
「まあ、あまり仕事に穴を開けたくない、という気持ちでしょうか」
「根っからの仕事人間なのでね」
「そう、あなたはいつも仕事をしていなければならぬ人間です。あなたは酒壜から指紋もとったそうですね。不鮮明ながら」
「何か御用がおありでしょう。ぼくは明日母の退院につきそって母を静養先に送らなければなりません。長い滞在で疲れてもいる」
「では、本題に入りましょう」
彼はウェイトレスが紅茶を運んで去るのを見定めてから言った。
「前置きしておきたいのですが、これは純粋に非公式のものだし、これから話す事は事実とそれに対するわたしの憶測が交じったものであり、何の証拠もないということを知らせておきたいのです」
ぼくはフェアバンクスの目をじっと見つめてうなずき、この男の言う事はすべて予測済みであることを態度で示した。彼の目にぼくはどう映っているだろう。
「逮捕され、釈放された男たちの本名はどの新聞にも発表されませんでした。だが、もちろん警官はみな知っています。ハインズ、ザッカリー、フェントンです。通り名がタブロイドに発表されたのは認めるが、結局すぐ釈放となったためメディアの関心は他に移ってしまい、やはり彼らの名は公にされることはなかったのです。
ひと月まえ、フェントンが窒息死しました。血中アルコール濃度の急激な上昇により、酒場のトイレで倒れて死んだのです。吐いたものを喉につまらせていました。しばらく身元不明だったためわれわれはそれをしばらく知りませんでしたが、検死した者がたまたま教えてくれたのです。フェントンは重度のアルコール中毒者でしたから、いずれは起きたはずの事故でした。
するとその二週間後、ザッカリーの死体が川からあがったのです。アルコールが多量に血中にあり、たっぷり飲み食いしたあと川に落ちて溺死したのです。ザッカリーもフェントンと同じくらい酒を飲むので、泳げる男でしたがあの状態では溺死しても無理はないのです。わたしたちはフェントンの死後、彼を探していたのですが彼はしょっちゅう女のところを転々とするためなかなか動向がつかめなかったのです。ザッカリーの死も事故としか結論は出せませんでした。
ところでこのように二人までも死んでしまうとたとえそれが明らかな事故でも多少の関連性を考えたくなるものです。
そこで大急ぎでハインズの勤め先に急行しました。彼から話を聞ければと思ったのです。彼はならず者でしたが親類のつてで港湾に勤めていました。
彼は冷蔵庫の中で死体になって発見されました。
そこの巨大な冷蔵庫は、中からは開けられないので出入りの時に必ずストッパーを金具にかける決まりでした。しかしだれもそんな面倒なことをする者はなく、ただそこらにあるレンガをはさんでおくのが習慣でした。ハインズもそうしていたのですが、たまたまその日、レンガをはさみ忘れて冷蔵庫に入ってしまったらしいのです。らしいというのは、レンガが全く使われていなかったからで、普段置いてあるところに一個の欠けもなく収まっていました。彼はしばしば仕事をさぼっていたので仕事中に姿が見えなくなっても心配する者はいなかったのです。ハインズは窒息して死にました」
フェアバンクスはそこまで語るとそこで言葉を切った。ぼくの反応を見ているのだ。
「わたしはハインズ、ザッカリー、フェントンの全員が全くの事故によって死んだとは考えられないと思っています」
「なるほど」
ぼくは窓の外の景色をながめた。紅葉が美しい季節になったようだ。いや、それも散り始めている。
「その三人の名を今はじめて知ったのだが」
ぼくはフェアバンクスの顔をじっと見た。
「その三人には悲しい運命が待っていたわけですね。思いもよらぬ事故が」
「あなたはどう思いますか」
「ぼくの意見などありません。意見を持とうとも思いませんね」
「彼らはわたしの考えではあなたの弟さんの死に大きく関わった三人でした。そして全員があなたの休暇中に事故死したのです」
「驚くべき偶然ですね」
「なるほど、偶然ですか」
「そうです」
「わたしは何度かあなたのお母さんをお見舞いしましたが、ここ数日の目覚ましい回復には驚いているのです」
「良い治療を受けましたからね」
「息子を殺された母親が回復するには早すぎると思いませんか」
「母はもともと生命力の強い人です。父を亡くした後、ぼくと弟を立派に育て上げたのですから」
「そう、もちろん」
彼は言った。
「わたしの憶測に過ぎません。しかし、憶測というなら彼らが犯人だったという確証はなかったのにも関わらず、裁きが下っている。これはひょっとして憶測に基づいて彼らに復讐した者がいるのかもしれないのです」
「裁きは復讐ではない」ぼくは言った。
「復讐は法律上禁じられている」
「人殺しも禁じられている」と、彼はつぶやいた。
「ぼくがやったと思っているのですね」
「その可能性を考えてはいます。全く証拠を残さず人を殺せる者がいるとしたら、あなた程適任の者はいないでしょう。が、だからといってあなたをどうこうできるとは思っていません。犯罪と断定できないものの捜査など開始できないのですから」
「なるほど」
ぼくはフェアバンクスを残して席を立った。
「シカゴで仕事が待っているのです。ぼくは頭に血が上った復讐者ではない。彼らのうちの一人の通り名をつきとめただけの人間です。だが、彼らが勝手に死んでしまったことは事実として受け止めます。彼らの死は少なくともぼくの弟とその婚約者の魂を安らかにしてくれるでしょう。たしかに、あなたの持って来た知らせはぼくたちバークレーの者には有益でした。だからあなたには感謝しています。フェアバンクス、こうした出会いはぼくたちのような仕事をする者にとって常に有益ですね。新しい知性に出会う事ができる。ぼくは安心して故郷をあとにすることができますよ」
フェアバンクスは立ち上がってぼくを見上げた。
「個人として言うが、ドクター、あなたは並外れた人だね。それは間違いない」
ぼくは小さく笑ってその場を去った。
ぼくは翌日、弟の部屋を完全に引き払った。
主のいない部屋は帰る事のない人を今も待っていた。箱の中に弟の小さな生活を詰め込んだ。彼はまだ少年だった。たくさんあった本は少しだけ残して図書館に寄贈してしまった。法律関係の本と、ミステリーの本をぼくはもらうことにした。ぼくの持っている本と重なるものが多かった。
留守中にメアリーの兄が来たらしく、少し部屋の様子が変わっていた。郵便受けに合鍵と手紙が入っていた。
ドクター・バークレー
フェアバンクス刑事から何が起きたかは聞いたが、遺族全員に言っているのかもしれない。わたしは容疑者たちの名前もまだ知らされていないが、全員死んでしまったことだけはよくわかった。新聞を読んでどの事故かは憶測できた。正義は行われたのか、行われなかったのか、もうあなたに問う事はない。会話をした時、わたしは激しい自己嫌悪に陥っていた。そのため、あなたが自分を犠牲にしようと決意していたことに気付かなかった。わたしこそが自分を責め立てているのだと思っていたが、それは甘い夢だったと知った。わたしが過去の自分の行動にばかり目を向けていた時、あなたは未来の行動に賭け始めていた。わたしは打ちのめされている。だが、正義が行われるにはこの方法しかなかったのかもしれない。ドクター、この手紙は燃やしてくれ。あなたの知性と犠牲に敬意を表する。
署名はしない。わたしが誰なのかはわかるはずだから。
犠牲という言葉にぼくは違和感を覚えた。断じて犠牲ではない。ぼくは仕事をしたにすぎない。弟への義務を果たし、ママとの約束を守り、自分がこれまでもこれからも続けていく狼狩りをしただけだ。
ぼくの猟犬としての仕事を理解できるのはただこれを使いこなす主人だけ。この天分を与えた者だけだ。
ぼくは警察と無関係に狩り出したわけではない。時間との戦いに敗れたあの日に見通したように、容疑者は必ず釈放される。そして警察はそれを悔しがり、ぼくに捜査情報を漏らすだろう。それがなければぼくは確信を持つにはいたらなかった。警察から逃れた容疑者たちはぼくの目の前にのんきに寝そべっていた。ぼくは警察を利用した。それはぼくの予定の中に含まれていた。
あの小さな映画館に入った。
思いがけず、新作のシャーロックをやっていた。カラーになって役者も代わっているが、ぼくたち兄弟のヒーローがそこにいた。
謎解きはわずかだったし、怪奇趣味にあふれてはいたが、書物の中のシャーロックの片鱗があった。闇に待ち伏せし、拳銃を構え、科学的分析によって犯罪と戦っていた。
あの日、弟の胸を打ったのは何だったのか、彼は幼すぎてくわしく説明できなかった。「凄い!」と彼は叫んでいた。そして長じるにつれ、ぼくたちはヒーローの話をしなくなっていた。彼はなぜ法学を学ぼうとしたのか。彼こそ、何にでもなれたはずの男だった。人生を穏やかに楽しむ才能があった。
ハインズ、ザッカリー、フェントン。二十年とちょっとだけ生きた狼。狼の生涯に関心はない。狼がわれわれの幸福を想像できないように、ぼくも彼らの荒れ果てた心に寄り添う事はない。
なぜこの世にこれほどの心の荒れ地があるのかはわからない。荒れ地の猟犬であるぼくには、荒れ地の全てはわからない。ただ痕跡があり、断片がある。
ぼくは映画が終わってからもそこに座っていた。
自分が静かに微笑んでいるのがわかった。
ぼくはさらに遠い日の思い出に入って行った。
ぼくはいい猟犬だ。これからも生きて行けるだろう。この思い出とともに。
いかがでしたでしょうか。主人公の行動も内面も非常に孤独なものです。周辺は気づいていても立ち入ることが出来ません。彼自身はすでに長年訓練された猟犬となっていて、狩り出すことは当たり前なのです。
職業的に獲得した技術や経験を総動員して、暴力的な復讐を果たしますが、それは彼の孤独を全く癒すことはありません。
恋愛もエロも超能力もない地味な内容ですが、作者はこれが書きたいことなのです。改行などもう少し工夫すべきだったかもしれません。初書きなのでどうかご容赦を。