終章 鬼の無き里②
結果として、松代に起こった七十三ヶ村の一揆は、成功に終わった。
二千余りの人垣を前に、町奉行も事態の容易ならざるを察し、上役とも合議の上、田村半右衛門が発した非道極まる命令を取り消し、半右衛門には相応の罰を下すことを約束してその場を収めた。
藩主真田信安は、この時参勤にて江戸へ出ており、そこで松代にて騒擾の起きたことを伝え聞いた。
寵臣の一人である田村半右衛門への領民の反旗とあって、信安は激怒し、首謀者である名主を晒し首とし、領民へも苦役を負わすよう命じたそうである。
だがその後すぐに、公儀から半右衛門及び小隼人の圧政を暴く詳細な調書が提出され、そもそもは藩主信安の怠慢が原因として、その不行き届きを咎められた。
さらに、鬼無里村割元宮藤喜左衛門が全ての責めを負って割腹したことを以て、領民には何事も沙汰無きことと、宮藤家は、喜左衛門の嫡男喜助に跡目を相続させるよう達しがあった。
また喜左衛門に対しては、命を賭して主君の過ちを諫め、領民を守ったとして、老中堀田正亮から格別の褒詞が追贈された。
原文は次の通りである。
「割元 宮藤喜左衛門
右之者、松代城下にて徒党致し押寄に及び候儀、不届至極に候えども、其実自ら身命を不顧主人伊豆守を相諫めるべく訴え出候由、畢竟臣下の忠一段之事に候えば、左の如く褒美下さるべく云々」
なぜ公儀が斯様なまで詳細に事態を承知しているのか、信安は訝しんだが、ここまで知られていればもはや抗う術はなかった。
信安も自らの行いを反省し、領民への罰は一切が取り消された。
これが世に知られる真田騒動・田村騒動というもので、徳川治世下に於いて、領民の蜂起が結実した稀有な例となっている。
鬼無里の里に於いては、鬼助が晴れて宮藤喜助として村民より迎え入れられ、祖父宮藤武兵衛、大日方五郎兵衛の助けを借りて、割元として恙なく村を治めた。
そしてその喜助の隣には、常にフウの姿があった。
喜助は事あるごとに「すべてはフウのおかげ」と感謝を表し、どんな困難が訪れようとも彼女を守り抜いた。
フウもまた、奥裾花の山懐の如く深い愛情を以て、喜助のことを慈しんだ。
二人は共に白髪の翁媼となるまで、この鬼無里で仲睦まじく暮らしたという。
奥裾花に咲く水芭蕉の群生が世人に発見されたのは、昭和の時代になってからだった。
<終>
このページのイラストは、早稲田大学漫画研究会の才田優貴さんによるものです。




