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第十章 それぞれの戦い⑦

 そんな或る日、自宅で仕事をしていた喜左衛門の元に、五郎兵衛が血相を変えて現れた。

 何事かと問えば、とにかく早く山小屋へ行こうとしか言わない。


 喜左衛門は嫌な予感がした。

 あの冷静な五郎兵衛が、ここまで慌てるのは尋常じんじょうではない。

 喜左衛門は山道を歩きながら、山の神に祈り続けた。

 かつてない程に、強く祈った。

 この村に、本当に貴女紅葉の霊がいるならば、どうか力を貸してほしいと念じた。


 山小屋へ着くと、五郎兵衛が早く中へ入るよう喜左衛門を促した。

 小屋の中からは、赤ん坊の泣く声が聞こえてくる。

 ベニの産んだ子か、あやめの産んだ子か、ここからでは分からない。


 喜左衛門は意を決して戸を開けた。

 薄暗い奥の室内に夜具やぐが敷かれていて、そこにあやめが寝ているのが、チラリと見えた。

 その腕には赤子がしっかりと抱かれている。


「喜左衛門様お待ちしておりました。早う奥様のところへ」

 ベニは土間に立ったまま、色の抜けるほど白い赤子を抱いてあやしている。

 喜左衛門は無言で頷いて、草鞋わらじを脱いで板の間へと上がった。


 そしてあやめのかたわらに座した。

 赤子はあやめの腕の中でよく寝ている。

 子を抱くあやめの指先を、喜左衛門は握った。

 その手は妙に冷たかった。

 あやめの顔は汗で濡れているのに、ほほでて見ても、その肌は、氷のように冷たい。


「あやめ、どうかしたのか?」

 喜左衛門は、あやめの手を、さらに強く握りしめた。


 だが握り返してきたその力は弱々しかった。

 あやめの眼には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「ゆうべからあやめ様の具合が思わしくなくて、急いで喜左衛門様を呼びにやったんです。わたしにはどうしたらいいか分からなくて…」

 傍らで様子を見ていたベニが、声を震わせた。


 不慣れな山小屋暮らしがたたったか、産後の肥立ひだちが悪かったか、いずれにしても、あやめの様子は尋常ではない。


「あやめ、しっかりしろ。そなたがいなくなったらこの子はどうする?立派に育て上げるには、そなたの力が必要なのだ。なんとしてもよくなって、この子と共に鬼無里の里で暮らそうではないか」

 喜左衛門はそういって、再び手を強く握った。

 あやめの眼からは、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「このようになってはわたくしはもう長くはもちません…。この子を、わたくしとあなた様の血を継いだこの子を頼みます。この子こそが、わたくしとあなた様が共に生きたことのあかしでございます。どうかお願いいたします…」

 腕に抱いた赤子を抱きしめながら、消え入りそうなほどか細い声で言うと、そのまま静かに眼を閉じた。


 そして、二度とその眼を開けることはなかった。

 貴女紅葉の奇跡は起きなかったのである。

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