第九章 因縁⑦
────どれくらいの時が流れたろうか。
辺りはもう真っ暗闇となって、空を見上げると、無数の星が瞬いている。
そしてそのまま視線を下げると、
「────!」
湿原の対岸に、ゆらゆらと揺れる赤いものが見えた。
あれは松明の火である。
この楽園が、とうとう外敵に見つかったのである。
「フウ、曲者がやって来た。絶対ここから出ちゃいけねえど。声もあげちゃならねえ。じっとして待ってるんだ」
鬼助は、自らを落ち着かせるかのようにして言った。
薄い戸板を隔てて、フウは震えながら母に縋りついた。
「もうこうなったら鬼助様に任すしかないよ。だからあんたも強く願いなさい、鬼助様が勝ちますようにって。大丈夫、きっと負けないから」
ベニは妙に落ち着いていた。
フウはその姿に勇気を得て、一心に鬼助の勝利を願った。
曲者の黒い影は、段々と小屋へ近づいてくる。
ここまで来たらもう逃げも隠れもできない。
鬼助は小屋から少し離れ、仁王立ちに男がやって来るのを待ち構えた。
「驚いたな、先回りしている奴がいるとは。一体何奴だ?」
敵は歩きながら、松明の明かりを鬼助の方に向け、顔を見定めようとした。
「なんと餓鬼か。何の真似だか知らぬが、俺の用があるのはおぬしではない。そこを退け」
鬼助は、松明の奥にある男の暗い顔を睨みつけた。
「いやだどかねえよ。おらがフウを守るんだ」
「守る?ということは誰だか知らぬがそこの小屋におるのだろう。それが貴女紅葉の化身か」
無表情のまま言い放った後、手に持った松明を、無造作に小屋の屋根めがけて放り投げた。
茅葺の屋根からは、あっという間に大きな火が上がった。
「フウ、ベニさん、そこに居ちゃ危ねえ!早く小屋から出るんだ!」
鬼助の言葉が終わらぬうちに、二人は慌てて小屋の中から逃げ出てきた。
今や屋根全体に火は燃え広がり、その光で辺り一面は真っ赤に照らされている。
鬼助は、この時初めて男の顔を見た。
炎に照らされて、般若の面の如き形相に見えた。
片や男は、鬼助を無視して、後方に控えるフウの真白い髪に眼をやった。
「おおこれは正しくう山姫に相違ない白髪の娘。これで俺の願いも叶うというもの……」
眼には妖しげな光を帯びて、恍惚の表情をしている。
その時、
「あっあんたは原小隼人!」
ベニの声が闇夜に響いた。
「その方はベニか?なぜここに…?」
小隼人は焦点の定まらぬ眼で、ベニを睨んだ。
年齢は重ねてはいても、ベニの美貌は昔と大きく変わらない。
死んだはずのベニが生きているのを目の当たりにして、小隼人はさぞ驚くかと思いきや、
「今の俺にはおぬしなぞどうでもよい。山姫さえおれば俺の望みは叶う。さあ早く姫を我が手に寄越さぬか…」
もはや狂人のようにフウのことを見つめながら、腰の野太刀を抜刀した。
刀身が、炎に照らされて、鈍く光った。
その切先を、鬼助はじっと見据えた。
鬼助も、小隼人の名前にははっきりと覚えがある。
かつて喜左衛門と剣の腕を争い、五郎兵衛とベニが山での暮らしをせざるを得なくなった元凶である。
どういう経緯でその小隼人がここに現れたかは分からないが、縺れ合う因縁が、今一つになろうとしていた。




