第九章 因縁⑥
いつの間にか太陽は午の位置にまで昇っている。
急がねば暗くなって、フウの元へと辿り着けなくなる。
風は絶え間なく吹き続け、森を強く揺らす。
木の葉は互いに擦れ合い、騒音を発している。
その音が大きくなるにつれて、鬼助の心にも、焦りが募る。
ただ今は、ひたすらに前を向いて走るしかない。
鬼助は、韋駄天走りに山を疾駆して、やがて水芭蕉の繁る湿原へと出た。
今はもう白い花は見られず、水面には青々とした葉が姿を現している。
そのほとりから対岸に眼をやると、そこにはフウの住む小屋が見える。
小屋の周囲や裏の畑には、誰の姿もない。
この位置からでは、フウとベニが無事なのかは判然としない。
鬼助は腰に差した刀を一度握って、山の神に祈りながら再び走り出した。
小屋まで来て、鬼助は戸口の前で立ちすくんだ。
耳をすましてみても、室内からはなにも音がしない。
鬼助の脳裏には、痛ましく斬り殺された久安の姿が思い出された。
もしフウの身に何か起きていたら、自分はどうしたらいいだろう。
どう責めを負えばいいだろう。
そんな思いを抱えて、戸口に手をかけては、その手を動かせずにいた。
するとその時、カラリ、と乾いた音がして、自然と戸口が開いた。
「きゃっ!」
叫び声がして、眼の前にはフウが眼を丸くして立っている。
「無事だったんか…」
鬼助はその場にへたり込んだ。
「鬼助様どうしたの?腰を抜かしたりして」
フウは驚いて、鬼助の手を引いて起こそうとした。
その時、鬼助の腰に真剣が差さっていることに気づいた。
「鬼助様、その刀どうしたの?」
鬼助は無言で頷いてから立ち上がった。
「大変なことになった。山に曲者が出て、和尚を斬り殺したんだ。そいつはフウのことを狙って、この山小屋にやって来ようとしている。おめえたちのことはおらが守るから、ここに隠れててくれ」
フウと、その後ろで心配そうな顔をしているベニに向かって、力強く言った。
「どうしてそんなことに?おっとさが今夜は大事なことがあるって言うてたけど、それと何か関係があるの?」
「それは分からねえ…。けどフウのことはおらが絶対守るから。そのために剣の修業をしてきたんだ」
「剣で戦うつもり?そんなのは絶対駄目よ。斬られたら鬼助様が死んじゃう」
「いやおらは死んでもおめえを守るんだ」
「鬼助様それはなりません。鬼助様のお命は、あなた一人だけのものじゃありません。鬼助様には、これからもっとやらなくてはならないことが、いっぱいあるんですよ」
ベニが、鬼助にすがりつくようにして言った。
命が自分だけのものじゃないとはどういうことか、鬼助にはよく分からない。
それにこれから先の話をされたところで、今はそこまで考える余裕などはない。
今は与えられた使命を、いかに完遂するかが大事なのである。
「ベニさん、何も心配いらねえよ。危ねえから二人は小屋の中で待っててくれよ」
鬼助は落ち着き払って戸口を締め、独り戸外で敵を待ち構えた。
もう夕闇が迫り、僅かに覗いた月が、湿原に淡く映っている。
鬼助は足元にあったたらいを伏せて、そこに腰かけた。
周りからは虫や蛙の声が響いて、意外にも騒がしい。
ふと気がつくと、いつの間にか風が止んでいる。
凪のように、空気がピクリとも動かない。
山の神様も鎮まっただろうか、このまま何事もなく時が過ぎればいいのに、と鬼助は心の中で念じていた。




