第一章 鬼無里村⑥
歩き始めてからしばらくして、鬼助は喉の渇きを覚えた。
暑い日でないから水筒を持たずに出てきたが、やはり山道を歩けばじっと全身に汗がにじむ。
どうしようかと思って四辺を見回した先に、お誂え向きに小さな沢が流れているのが見えた。
小さな流れだが、却って水は澄んでいる。
この辺りの沢は、山の雪解け水が注いでいて、いつでも冷たくてうまい。
鬼助は手で水をすくって喉を潤した。
その脇で、シロも流れに口を付けて水を飲んでいる。
そのまま機嫌よく喉を潤しているかと思いきや、シロは不意に水面から顔を上げた。
それから辺りを窺うように、耳をそばだてた。
「シロ、どうかしたんかい?」
鬼助の問いかけを無視して、シロは耳をピンと立てたまま、微動だにしない。
その様子を見て、鬼助にも緊張が走った。
シロは、山犬や熊に出くわした場合に、無暗に吠えないよう躾けられている。
気配のする方向へと耳を向け、風に乗って来る匂いを嗅ぎ、情報収集に努める。
そのシロが、今最大限の警戒を払っている。
…………
しんと静まり返った山中に、突然、一陣の強い風が通り抜けた。
頭上の梢が大きく揺れて、幹の軋む音が響く。
鬼助は吹き飛ばされそうになって、思わずシロにしがみついた。
風はしばらく続いた後、ふと気づけば、何事もなかったかのようにどこかへ過ぎ去ってしまった。
今度は凪の如く、森の中には静寂が広がっている。
隣では、シロも不思議そうな顔をして辺りを眺めている。
今はもう、警戒を払っている様子ではなかった。
「シロ、山犬でもいたんか?それにしても、ひどい風だったなあ…」
鬼助は独り言のようにして呟いたあと、
「ぼんやりしてる暇はねえど。さあ急がなけりゃ」
シロに言う振りをして、自分に言い聞かせて歩き出した。
山の中では、一度疑心暗鬼になると、不安がとめどなく膨らんでしまう。
山犬や熊だけではなく、妖怪変化や魑魅魍魎の類までが頭をもたげてくる。
弱気になって歩みを緩めれば緩めるほど、里への道のりは長く思われる。
それを知っているから、鬼助は急ぎ足に山をひたすら下りた。