第七章 秘密⑩
鬼無里では毎月十五日、松厳寺の門前に、今も昔も市が立つ。
村人や近隣の村々からやって来た者たちが、農作物や手製の荒物を、主に物々交換で商うのである。
その昔、いつの頃からか、年の暮れになると決まって、白髪の老婆がその市に立つようになった。
売り物は、白木で拵えた粗末な杓子である。
その老婆がどこからやって来るのか誰も知らず、村人は怪しんで商品を買う者はなかなか現れなかった。
しかし、中には物好きな人物がいるもので、或る時村の男が、戯れに老婆の売る杓子を求めようと試みた。
「ばあさんこの杓子はいくらかい?」
「百文だ」
およそ物を売るような態度とは思えぬぶっきらぼうな言い方である。
「こんなちんけな杓子のくせに随分と高いんだなあ」
「高いことあるもんかえ。四の五の言わずに買ってけ」
あまりにぞんざいな口のきき方に、男はムッとして断ろうとすると、
「ならすまんが酒を五升ばかり買ってきてくれんかえ。この杓子を使ってこの瓢箪に入れてきてくれよ」
と腰に付けた瓢箪と杓子を、男の眼前に突き出した。
「そんな小さな瓢箪に五升も入るわけねえだろ。耄碌でもしてるんか、糞ばばめ」
男が悪態をついてその場を離れていくのを、脇で小さな童子が見ていた。
童子は老婆を憐れんで、
「ばあさま、おらが酒買うてきてやるよ」
と申し出ると、白髪の老婆は殊の外喜んで、童子に酒を買うための銭と、瓢箪に杓子を預けた。
童子はそれらを携え、酒を商う男の元へと参じて、
「おっさま、この瓢箪に酒を入れておくれ。あ、あとこの杓子で汲んでくれろ」
酒屋の親爺はめんどくさそうにしながらも、言われた通り杓子を使って瓢箪に酒を注ぐと、いつまで経っても瓢箪はいっぱいにならず、際限なく酒が入る。
果たして、酒屋にあった五升の酒は尽きてしまった。
童子は驚いて老婆のところへ戻ると、お礼に杓子をくれるという。
「その杓子を大切に持っておけよ。さすればおめえの身にはきっと善きことが起きるど」
と、老婆は歯の抜けた顔で笑うのだった。
童子は喜び勇んで家へと帰り、さっそく甕の水を、家にあった瓢箪に注いでみた。
だが水は、忽ち瓢箪の口から溢れ出してしまう。
「なんでえ、しかけがあったのはあの瓢箪のほうだったんかい…」
童子はがっかりしてその夜不貞寝をしていると、夢枕に白髪の女が立った。
しかし、その女は老婆ではなく、美しい娘の姿をしていた。
その白髪の娘曰く、
「そうがっかりするのではありませぬ。わらわの言うたとおり、杓子を携えて居ればやがてそなたに福が舞い込むでしょう。だからこれまで通り正直に暮らすのですよ」
その言葉通り、家には年明けから慶事が続き、やがて童子は、元服ののち鬼無里を出て立身出世し、果たして京で大店を構えるに至ったという。
以来白髪の娘は、貴女紅葉の化身だとこの鬼無里では信じられ、不思議な神通力を持ち幸福をもたらす山姫として尊んでいるそうである。
*
「これは言い伝えに過ぎぬが、かつてはこの鬼無里にも、本当に白髪の女児が生まれたことがあったという。人には時としてそういう不思議なことが起こるもので、かつての松厳寺住持は、村人には他の子供と変わりなく接するよう説いた。その言葉通り父母はひたむきに娘を慈しんだが、私利私欲にまみれた里人が、その娘をかどわかしたという話も伝わっておる。今ではこのときの不幸は忘れられ、紅葉の化身が居ることのみを信じる者が増えた。言い伝えにある白髪の娘をフウに重ねて、なにか悪しき者がやって来るやもしれぬ。そのためにフウを守るのが、お前の役目だ。分かるな、鬼助よ」
久安が皺深い顔でそこまで話し終えた時、不意に襖がガタガタと鳴った。
「む?風が出てきたか…?」
しかし、蝋燭の火は少しも揺らめいてはいない。
「誰かそこにおるのか?」
襖の向こうからは、静かに虫の音がするばかりで何の返事もない。
「気のせいか…」
久安は太い溜息をついてから、
「とにかくフウを守れるのはおまえしかおらん。おまえは寺の作務はそこそこにして、新右衛門どのに付いてしっかり剣術を学んでおれ。そのほうがおまえのためにも何かと都合がいいだろう。おまえが剣を修めた暁には、寺で預かる宝刀を遣わすから、音を上げるのではないぞ」
と、常の如く厳しい口調で言った。




