第一章 鬼無里村⑤
「おい聞いておるのか。聞いているのなら返事をせんか」
顔の前で久安の声がして、鬼助はハッと我に返った。
つい自分の生い立ちのことを考えてしまい、久安の話を聞き逃していた。
「申し訳ありません。ちょっとぼんやりして聞き逃してしまいました……」
「仕方のない奴だな。もう一度言うからよく聞いておくのだぞ。こいつを、喜左衛門様のところへと持って行ってほしい。大事なものだからしっかりと頼むぞ」
手渡されたのは、上等な奉書紙の書状である。
そういえば昨夜遅くに鬼助が小便に立った時、方丈にはまだ蝋燭の火が灯っていた。
きっと大事な書き物をしていたのだろう。
だがもう齢八十に迫る久安は、膝が悪いので山を降りることは滅多にない。それゆえ、
「喜左衛門様にきちんと挨拶をするのだぞ」
と、鬼助が返事をする前に巻紙を押し付け、すぐにどこかへ去ってしまった。
鬼助はその場に一人残されて、ふと空を見上げた。
晴れ渡ってはいるが風が強い。
手に残された巻紙が飛ばされぬよう、用心して懐中へしまい込んだ。
鬼助としては、本音を言えば、里へ行くのは気が進まない。
久安もそれを解っているはずなのに、克林ではなく敢えて自分に命令するのは、やはり扱いの違いなのだろう。
「シロ、おめも一緒に行ってくれるよな」
足元へまとわりつくシロへと話しかけながら、鬼助は山を降りる支度をした。
太陽は午前の位置にあるから、村へ往復しても暗くならずに済むはずである。
今日は十五夜だから月も明るい。
寒さには気を付けねばならないが、寺には、名主から折々に着物の寄進があって、子供たちの分まで一通り揃っている。
鬼助もたっつけ袴に半纏を身に着けて、火打袋を腰に下げ万全の旅装を整えた。
境内の片隅にある社で、山の神様に手を合わせて、
「さあシロ行かずか」
自分自身を叱咤するようにして、鬼助は寺の門を出た。
里へ至るには、山道を長々と歩かなくてはならない。
ある程度は整備された道で、歩きづらいということはないが、この辺り一帯の山は、戸隠連峰を信仰する修験道の教場でもあったから、山伏の歩くような杣道が縦横に走っている。
そのために山中にある辻を何度か曲がらねばならず、道に迷わぬよう注意を要した。
鬼助がシロを連れてきたのも、用心のためである。
シロは数年前に克林が拾ってきた真っ白い毛をした犬で、嗅覚が鋭く、眼も耳も人間より利くので、山歩きをする際には欠かせない相棒となった。
シロという名は、落語元犬にも出てくるので、昔からわりとあった名前なのかなと思っています。
『白犬は人間に近い』という俗信があったようです。
このページのイラストは、プロ漫画家丸岡九蔵先生の描き降ろしによるものです。
このように動物についても可愛く描いてくださいます。