第七章 秘密④
今から十年以上前のこと、この鬼無里には、一人の大変美しい娘がいた。
貧しい水呑百姓の生まれだが、その容貌は都の貴人の如く美しく、人は彼女を鬼無里小町と呼んで愛しんでいた。
賤しい生れなのを気にかけぬ天性の明るさで、鬼無里小町の評判は遠く松代へと届くほどだったという。
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大日方五郎兵衛はこの頃まだ山見の役に付いたばかりで、昼夜を問わず里と山小屋を行き来し、御林に不審なものが入らないか、日々監察に当たっていた。
野袴に袖なし羽織を身に着け、足半を履いて、月代の剃り跡も青々とした若武者である。
親の代から鬼無里の山見を務めるだけあって、若くして村の人々からの評判も上々であった。
中でも、先頃鬼無里の割元を継いだ宮藤喜左衛門は、五郎兵衛をよく目にかけ、実弟の如く接していたという。
仕事が終われば、役宅で独り暮らしている五郎兵衛を見かね、度々屋敷に招いて夕食を共にすることがあった。
五郎兵衛としても、剣の達人として聞こえる喜左衛門に対する尊敬は一方ならず、いつしか二人は、この鬼無里の木鐸として欠くべかざる人物となっていた。
そんな五郎兵衛のことを、憧れの眼差しを以て見ていたのが、件の鬼無里小町である。
その名をベニといった。
ベニが五郎兵衛と初めて言葉を交わしたのは、まだ十代も半ばの頃であった。
或る日、親の言いつけにて山へ山菜を採りに行ったときの事である。
本来であれば、村役人の許可を得て、或いは山見の五郎兵衛に直々に願い出て山へ入るべきところ、この日のベニは横着をして、届けを出さずに山へ入った。
午前に入って昼までには戻るつもりでいたから、面倒だという気持ちが先に立ったのである。
ベニは山に入って、一通り地面を探してはみたものの、思いのほか不作で、登山口付近にはあまり新芽が見られない。
このところ暖かい日が続いてるから、里の近くでは新芽が見つからないと思って、更に奥の森へと分け入った。
山道をしばらく歩くと、お誂え向きの平坦な場所に出て、地面には青々とした葉が芽吹いているのが見える。
夢中になって籠がいっぱいになるまで摘んでいると、急に風が強まって空が暗くなったような気がした。
風の強い日は山の神様が怒っている、そういう話をかつて婆様から聞いたことがある。
この話を寝物語に聞いた時には、子供だましの嘘だと思っていたが、いざその場に直面すると、例えようもない恐怖が身を襲う。
それに、いざ帰路につこうと思っても、いつもより奥に入って来てしまったから、どちらに行けばいいのかよく分からない。
右を見ても左を見ても、四辺には木が無数に生えているだけで、どの方角が麓なのかさえ分からない。
どこか遠くからは、山犬の鳴く声も聞こえてくる。
ベニはもう怖くなって、その場にしゃがみこんだ。
なぜだか分からないが、涙があとからあとから零れては落ちた。
そこへ一人の男が通りがかった。
山見の仕事を終えて、鬼無里の里へと帰る途中の五郎兵衛である。
雲行きが怪しいので歩みを速めていた先に、少女が一人しゃがみこんでいるのが見えた。
「おいそこな娘、そこで何をして居る?」
言い終わらないうちに、ベニはハッと顔を上げて、一目散に五郎兵衛の元へと駆け寄り、しっかりと抱き着いた。
「おい一体なんだ?こんなところで何をしていた?」
「コゴミを摘みに来たんだけど道に迷ってしまったの…」
「一人でか?ちゃんと届けを出したか?」
ベニは涙をぬぐいながらかぶりを振った。
「たわけもの。山へ入る時には届けを出すのが習いとなっておる。そなたのような迷い子が出てもすぐに分かるようにするためのものだ」
子供をなだめるように言うと、
「ごめんなさい…」
気の強そうな外見に似ず、ベニは案外素直に侘びを入れた。
「分かればよい。では早く山を降りるぞ。じきに雨が降り出す」
五郎兵衛が大股で歩き出そうとすると、ベニが袖にしがみついたままで放そうとしない。
「おいその手を放せ。早く帰らぬと雨に打たれるぞ」
五郎兵衛は一旦袖を振り払ってから、思い直してベニの手を引いた。
そしてそのまま無言で大股に歩き出した。
ベニは置いてかれないよう精一杯歩きながら、前を歩く五郎兵衛の広い背中を見つめていた。
このページのイラストは、早稲田大学漫画研究会の現役学生AKINAさんによるものです。




