第七章 秘密①
五郎兵衛と鬼助の二人は、シロを従えて寺に向かって出立した。
一晩寝たら頭のふらつきもすっかり良くなっている。
時刻はまだ五つを少し回ったばかりである。
水芭蕉の白い花は、湿原の水面いっぱいに広がって、正に今が盛りといった様相をしている。
そのほとりを歩きながら、対岸の小屋のある位置を振り返ると、フウが手を振っているのが見えた。
鬼助も手を振り返してからさらに進むと、湿原から流れ出る一筋の沢へとぶつかった。
「この沢に沿ってしばらく降りるんだ」
五郎兵衛の声は、さっきまでとは打って変わって、不愛想になっている。
ただなんとなく芝居がかっているようでもあり、鬼助には、やはり家族の前での五郎兵衛が、本来の姿のように思えた。
五郎兵衛の言葉通り沢に沿って森に入ると、来た時には気づかなかったが、進むべき方向には木や枝が取り払われていて、人の手が入っていることが分かる。
きっとフウが道に迷わないよう、五郎兵衛が苦心して整備したに違いない。
「この切り株を目印にしてこっちへ曲がるんだ」
要所要所にある目印を指摘しながら進むと、やがて見慣れた枝ぶりの木々が目に入ってくるようになった。
この辺りはもう雲海院のすぐ近くであることが分かる。
山小屋までは、寺からはそれなりの距離はあるが、彼の地が里人未踏であることを考えれば決して遠くはない。
この距離でフウを匿っておけるのも、かつて山見であった五郎兵衛が、無暗に山に人を入れなかったことが奏功したに違いない。
さて二人はやや緊張した面持ちで山門の前までやって来て、
「いいか鬼助、和尚がどこまで話すかおれには分からねえが、しっかりと聞いておくんだぞ」
「うん…。五郎兵衛さんは和尚に会っていかないんかい?」
「ああおれはここで失礼する。おれがいたんじゃ和尚も話しづらいこともあるだろう」
「……」
「さあおれに気にせず行けよ。何かあったらまた山で会おう。それとたまにはフウのところへも遊びに行ってくれよ」
五郎兵衛はそう言い残すと、踵を返して山を更に下っていった。
その背中を見送ると、鬼助は急に心細い気持ちになった。
そんな主の心中を一顧だにせず、シロはさっさと山門をくぐって、既に庭を駆け回っている。
二、三度吠えたところで、その声が聞こえたか、箒を携えた克林が、本堂の陰から現れた。
「あっ鬼助、おめゆうべも帰ってこねえで、どこへ行ってたんだ?」
「ちょっと山に入ったら崖崩れがあってなあ。怪我をしたから一晩じっとしてたんだ」
「夜は寒じたろ。凍えたんと違うかい?」
「いや…意外と温かかったかなあ」
「ならよかったなあ。それよりも案の定和尚が怒っておるど。大目玉食らうかもしれんから気を付けろよ」
「……」
「冗談だよ。そんなに暗い顔をするんでねえよ」
「い、いや別に暗くなってなんかいねえさ。ところで和尚は今どこにいるんだ?」
「大書院にいるはずだで。怒ってるってのは嘘だけど、さっさと謝っておいたほうがええど」
心配する克林の声を背中で聞いて、鬼助は意を決して本堂に向かって歩き出した。
昼でも薄暗い本堂には、先程から木魚の音が響いている。
刻まれる音と同期するように、鬼助の鼓動もどんどん高まっていく。
大書院の前に来ると、襖越しに経が聞こえる。
やがて回向文が聞こえて、それも終わったとき、
「和尚、鬼助が戻りました」
思い切って声をかけた。




