第六章 楓と水芭蕉⑩
その後一家は総出で夕餉の支度をし始めた。
ベニは囲炉裏に吊るした鍋できのこの汁を煮るらしい。
五郎兵衛は、どこからかで釣ってきた大きな岩魚を捌いている。
フウがへっついに火を起こすよう言い付けられていたので、鬼助はそれを手伝うことにした。
「じゃあ鬼助様はこれで吹いてちょうだい」
火吹き竹を手渡されて、鬼助はフウと協力して懸命に火を起こした。
それから炎が音を立てて勢いよく燃える様子を、二人が黙って見つめていると、
「ねえ鬼助様…」
不意にフウが話しかけてきた。
「あたしは鬼助様がどういうお方か、本当はよく知らないの。おっとさもおっかさも、あまり話したくないこともあるみたいで。ただいつも名前を聞いていたから、勝手に鬼助様のことを想い続けていただけなの」
「そうだったんか…。おらのほうはおめえのことちっとも知らねえで暮らしていたよ。前から知っていたら、もっと早く友達になれたかもしれねえのに」
「仕方ないよ。あたしはこんな見た目だから、どうしたって山を降りられないもの」
フウは悲しげな表情をしたまま火を見つめている。
しばらく沈黙があって、
「あたしは別に平気だけど、あたしのためにおっとさやおっかさにもつらい思いをさせてるのが悲しくて…」
炎を見つめるフウの眼から、一筋の涙が零れ落ちた。
鬼助には安易に励ますことはできなかった。
きっとこの一家の暮らしには、傍から見るのでは分からない苦労があるに違いない。
フウの笑顔の裏には、人知れぬ哀しみがあるということを、鬼助はこの時理解した。
「おい、魚が焼けたぞ」
囲炉裏の間から五郎兵衛の声がした。
フウは涙を拭って立ち上がって、鬼助もそれに続いた。
二人が座につくなり、
「ほら、食え」
五郎兵衛が鬼助の目の前に突き出したのは、一尺はあろうかという大岩魚である。
きのこ汁や山菜のおひたしがベニから出されて、一転和やかな雰囲気で食事が進んでいく。
そんな中で、
「おめえも気づいているだろうが、この小屋はおれが建てた。ほかにもベニやフウを食わすためにおれが市で食い物だなんだを仕入れてくる。おれはこいつらを食わすためだったらなんだってする」
五郎兵衛は大岩魚を齧りながら、力強い口調で言った。
これまで鬼助は、五郎兵衛のことを、人付き合いが悪く孤独を愛する山男だと、勝手に思い込んでいた。
しかし実態は、五郎兵衛は家族のために、己の全てをかけて働いていたのである。
この小屋で見る五郎兵衛の様子からは、家族に対する深い愛情が見て取れる。
「おめえも鬼無里の男なら分かってくれるな?」
五郎兵衛の言葉には、様々な想いが隠されていることを、鬼助は分かっている。
もしこの場所が誰かに知られたら、悪意の有無にかかわらず、一家がこれまで通り暮らしていくのは叶わないだろう。
鬼助はこの一家のために、決してここを口外しないと心の中で誓った。
夜が更けて、鬼助は狭い小屋の中で親子三人と並んで眠った。
いつもは寺の広々とした座敷で寝ている鬼助にとって、息遣いが聞こえてきそうなほど人と隣り合って眠ることは、初めての経験だった。
隣の人が気になってなかなか寝付かれないでいたが、悪い気はしなかった。
「もしおらにも家族がいたら、こんな感じなんかや…」
と、屋根裏がむき出しの天井を見つめながらぼんやりと思った。
一家の互いへの思いやりは、傍から見ても温かいもので、そして何より鬼助に対しても同様の態度で接してくれる。
鬼助は家族のぬくもりを、仮初めにもこの一家に感じていた。




