第六章 楓と水芭蕉②
一夜山の西山麓に回ると、眼下には裾花川の流れる渓谷が眼に入ってくる。
この辺りは秋になると樹々は真っ赤に色づいて、それは見事な景観を見せる。
その渓谷に沿って川を北に上ると、やがて眼の前に、ぽっかりと大口を開けた洞窟が現れる。
険しい道だけに里人も滅多に訪れない場所で、近頃も人の訪れた様子は全くない。
鬼助は、ここならば気兼ねなく稽古に打ち込めると思って、さっそく洞窟の中で素振りをしようと試みた。
薄暗い中でピタリと青眼に構えると、まるで自分がいっぱしの剣士になったような気がする。
打ち込む度に、木太刀が空気を切る音が、ビュッと岩屋に響いて心地いい。
それから鬼助は、坐禅を組んでみた。
薄暗い洞内から外に向って座ると、裾花川の渓谷が錦絵のように切り取られて眼に眩しい。
きっと武蔵もこうやって、洞窟で坐禅を組んでいたに違いないと夢想しながら、鬼助はしばらくの間じっと座っていた。
ところが、初めは剣豪になった心持でいた鬼助も、あまりに静かすぎる環境の中で、段々と雑念が頭の中に浮かんでくることを妨げられなくなった。
今晩の晩飯はどうしようだとか、明日の作務はなにがあったっけなど、凡そ剣豪とは程遠い心境でいた。
雑念の合間にふと気づくと、岩屋の外では風が強くなっているような気がした。
「シロ、天気が悪くなるといけねえからここいらで帰らずか」
さっさと帰路につこうと岩屋を出てみると、空は晴れ渡っているものの、風がやや強い。
そのまま上空を見上げていると、突然頭上から、空気を震わせて何やら大音が響いてきた。
「あっ!」
大岩が轟音を立てて崩れ、鬼助の許へと落下した。
どれくらい経ったろうか。
ふと気が付くと頬に何か感触があって、鬼助は目を覚ました。
「シロ…」
どうやら直撃はすんでのところで回避したものの、鬼助は破片と共に吹き飛ばされて、そのまま気を失っていたらしい。
シロは主の身を案じて、さっきからずっと頬を舐めていたようである。
鬼助は、全身に力を込めて立ち上がろうと試みたが、足元がふらついて覚束なく、ここから寺までの山道はとても独りでは歩けそうもない。
「シロ、どうしよう。ここで待ってたら誰か助けに来てくれるだろうかや。また五郎兵衛さんが見つけてくれるといいんだけんど」
傍らに佇むシロに話しかけてみたが、何の反応もない。
ただ耳をピンと屹立させて虚空を睨んでいる。
「はは、どうした?そんなおっかない顔して。おめえも心配になったんかい?」
自分の不安がシロにも伝わったかと思って、鬼助は苦笑して背を撫でた。
それでもシロのほうは、なおも身を固くしたまま、少しも動こうとしない。
「おいシロ……、ひょっとして山犬でもいるんかい……?」
鬼助の問いかけを無視して、シロは尻尾を巻いて小刻みに震え出した。
その反応を見て、鬼助にはある疑念が頭の中に湧き上がった。
「ま、まさか…鬼女かや?」
長野市商工会のHPによると、木曽殿あぶきは、今は橋が壊れて現地には行けないそうです。




