第五章 浪人と剣術②
この寺には、山の中には意外なほど大きな坐禅堂がある。
古くは僧堂として、多くの僧侶が修行に励んでいた名残りだという。
今は毎日の坐禅で鬼助と克林が利用するばかりだから、新右衛門は、まずはそこに泊めることとなった。
鬼助は坐禅堂を案内すべく、新右衛門と二人連れ立って歩いた。
新右衛門は、
「一時はどうなることかと思うたが、斯様な良き寺に巡り合うとは、わしの運もまだまだ捨てたものではないの。多少疲れたゆえできるだけ長く泊めてくれるとありがたいのだがな、ははは」
と機嫌がいい。
この一見軽薄そうな武士は、江戸で暮らしたことがあるというだけあって、松代の武士とはどことなく違う雰囲気を醸し出している。
装束は、長旅を経てきたというのにさほどくたびれておらず、縞木綿の野袴には、天鵞絨の縁取りがしてあって華やかさを感じさせる。
腰に差した大小は、黒塗の鞘に納められ、絹糸で巻いた柄は明らかに上等に見えた。
鬼助が新右衛門の身形をしげしげと眺めていると、
「どうした?わしの装束に何か付いておるか?」
「いえなんでもありません。ただお侍様を羨ましいと思っただけで…」
「羨ましい?いずれ武士を捨てようとしておるこの身には聞き捨てならぬ言葉だが、なぜそう思う?」
「お侍様は刀を差せるでしょう。それが羨ましい…」
「刀を差せたとて、さして羨ましいこともあるまい。却って苦労が増えるだけだ」
「そうでしょうか…。でも刀があれば、敵にも負けないでしょう?」
「敵…?ははは、わしにこれといって敵はおらぬが、そなたには敵が居るか?」
「……」
鬼助は質問には答えずに、
「少なくとも刀を持っていれば馬鹿にされることはなさそうだし…」
と、独り言のようにして呟いた。
鬼助が俯き加減で歩くその様子から、新右衛門は何かを感じ取った。
「人を斬るのは刀ではなく心だ。刀を差したからとて、己が強くなるわけではないぞ」
「じゃあどうしたら強くなれますか?どうしたら人から馬鹿にされないで済みますか?」
「……」
今度は新右衛門が沈黙した。
問いかけに答えられなかったからではない。
この少年の心にある苦しみを見抜いたからである。
その苦しみを知って、自らは何をするのが最善か、新右衛門は考えた。やがて、
「そなた、剣の修業をしてみるつもりはないか?」
「剣の修業?教えてくれるのですか?」
「先を急ぐ旅でなし、そなたさえ望むのならばしばしこの寺に滞在して剣術を教えて進ぜよう。ゆっくりとここに居られるのならば、拙者にも何かと都合がいいからな」
新右衛門は相変わらず明朗な調子で、深く考えもせず発言しているように見える。
どうあれ鬼助の気持ちとしては、すぐにでも新右衛門の提案を受け入れたかった。
だが一つ心配なことがある。
それは、久安が剣の修業を快く思わないのではないか、という懸念である。
この時代、百姓であっても、剣術の稽古をすること自体は珍しいことではなかった。
特に鬼無里の里では、割元である喜左衛門自身が新当流の達人なこともあって、村人に請われて剣術の稽古をすることがあった。
だが以前、克林が自分も喜左衛門に剣を習いたいと久安に申し出た時には、寺の小僧が剣術などとはけしからんと一喝されたのを、鬼助は覚えている。
一方でその時、鬼助に向かっては、
「おまえは喜左衛門様のところで習いたいとは思わんのか?」
と、水を向けたのだった。
その時は、村の子供たちと一緒に習うのが嫌で断ったが、鬼助の心の中には、剣術を学んでみたいという気持ちはずっとあり続けていた。




