第五章 浪人と剣術①
あの夜から数日経って、今度は寺で椿事が起きた。
この日も鬼助は、朝からいつも通りの作務を行っていた。
門前の掃除をしようと山門を出ると、そこには一人の旅姿をした武士が立っている。
「卒爾ながら、その方はこの寺の小僧か?」
武士は笠を取って鬼助に問いかけた。
日焼けした顔に、太い眉と濃いもみあげが凛々しい。
年齢はまだ三十手前であろうか。
ぶっさき羽織に野袴を穿いて、刀を二本差している。
朗々とした声で、言葉に訛りはなかった。
鬼助が曖昧に頷くと、武士は、
「では忝いが一晩ここへ泊めてはくれまいか。拙者越後へと向かう途次、ついでに戸隠山へと参拝しようと思うていたところ、道に迷うてここへと辿り着いたのじゃ」
と白い歯を見せて笑う。
確かにこの山には、戸隠村から裏街道へと抜けて、北國街道に至る道がある。
そのため稀に山伏や旅商人が通り抜けることはあるが、侍の姿は珍しく、鬼助は訝しんだ。
その様子を察してか、
「そう訝しむのは無理はないが、ほれこの通り、拙者には手形があるぞ」
そう言って侍が懐から取り出したのは、紛れもなく越後との関所を抜けるための手形である。
それを懐へと戻した後、今度は手拭いを取り出し、額の汗を拭った。
月代は綺麗に剃られていて、れっきとした武士であることは分かる。
きちんとした身分のある者であれば、寺としても無下に扱うことはできない。鬼助は、
「それでは和尚のところへ案内します」
と、山門内へ招き入れた。
鬼助が先導して境内を歩いていると、庭で遊んでいたはずのシロが、侍の姿を認めて、牙を向いて吠え始めた。
「こらシロ、お客さんに向かってなんてことをするんだ。あっちへ行ってろよ」
鬼助が慌ててシロを追い払おうとすると、
「なに気にすることはない」
と、侍は至って寛大な態度を見せる。
鬼助になだめられて、シロはようやく吠えるのを止めたが、その騒ぎを不審がってか、久安が本堂のほうから現れた。
事情を説明しようと近づく鬼助を通り越して、久安の眼は、後方の侍のほうへ注がれている。
「和尚、このお侍様は戸隠へと行く途中で道に迷ってしまったそうです。一晩泊めてほしいそうですが、いかがいたしましょう」
鬼助が小声で伺いを立てても、久安はそれには返事をせずに、ゆっくりと侍のほうへ歩み寄った。
「これはこれはお侍様、道に迷いなされたということでございますが、どちらへ行くおつもりで?」
「拙者ゆえあって廻国の旅をしておるところでな。戸隠山へと参詣し、その後越後へと行かんとしたところ、斯様に道に迷うてしもうた。ここまでずっと急ぎ足で来たものゆえ、そろそろ脚にも疲れが来ておる。迷惑はかけんので休ませてはくれぬだろうか」
続けて侍は、名は倉橋新右衛門といい、元はさる大名家の御小姓組番士を勤めていたが、とある失策有りてやむなく浪人したのだと明かした。
幸いなことに、江戸のある大店と縁故があって食うには困らないため、全国を回って見聞を広めたのち、刀を捨てどこかで商売でもしようかと考えているという。
新右衛門の態度は終始明朗なもので、どことなく育ちの良さが感じられる。
浪人したというのに屈託が一切なく、あっさりと武士を捨てるつもりでいるというのは奇妙だが、元来明るい性格ゆえにそのような考えに至ったのかもしれない。
その人柄を見る限り怪しげなところはないものの、基本的に村では他所者を歓迎していない。
藩からは怪しい人物が村へとやってきたら、すぐに通報するよう御触れが出ている。
この頃は年貢の取り立ても厳しく、藩のほうも村への監督を強めているから、他所者を入れたことであらぬ疑いをかけられたらつまらない。
「和尚、どうしましょう…?」
「うむそうだな…」
久安は、新右衛門のことを頭のてっぺんから足の先までじっくりと眺めまわし、結局泊めることにした。
なにか決め手があったのか、と鬼助が後で問うたところ久安は、
「わしにも少し思うところがあってな」
と言葉を濁すばかりで、その裏には何やら仔細ありげな気配がした。
武士道をわきまえない武士を罵って、犬侍という言葉がある通り、武士は犬に吠えられることを快く思わなかったそうです。
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