第四章 大日方五郎兵衛④
半刻も歩くと、やがて見慣れた風景が鬼助の目に飛び込んできた。
即ち、雲海院へと通じる道である。
「ああよかった。でも和尚は怒ってるかなあ…」
鬼助が独り言のようにして言うと、
「怒ってはおらんだろ。心配はしているだろうからちゃんと謝っておけよ」
五郎兵衛は特に感情をこめずに応えた。
「五郎兵衛さんは和尚の気性を知らねえからそんなことを言えるんだ」
「和尚の気性?」
「うん…。和尚はおらにはいっつも厳しいことを言うから…。今度も大事な用事だったろうから、どこ寄り道してたんだってきっと怒られるに決まってる」
鬼助の愚痴を聞き終わると、五郎兵衛はふっと鼻で笑って、
「おれは怒るとは思わんけどな。男なら堂々と行って来い。おれはここで失礼するからな」
と、鬼助の背中を平手でドンと押した。
鬼助はよろめきながら前に数歩進んで、
「五郎兵衛さんもお寺でちょっと休んでいけばええのに」
と振り返ってみたが、そこには既に五郎兵衛の姿はなかった。
五郎兵衛の笑顔を見たのはこの時が初めてだったから、鬼助にはまるで幻でも見たような気がした。
それと同時に、今のが五郎兵衛の素顔なのかもしれないという思いも、心中に兆してきていた。
五郎兵衛が立ち去ると、鬼助は急に心細い気持ちになって、山門の前で独り佇立した。
門前から見える境内は、まだひっそりと静まり返っている。
ひょっとして、皆で鬼助を探しに出かけてしまったのか。
それともまだ何事も起きていないのか。
ふと気づくと、さっきまで傍らに控えていたはずのシロが、主に先んじて境内を駆け回っている。
「あっシロ!おめひとりかい?鬼助はどうしたんだ?」
庭で克林の驚いたような声がした。
克林がいるということは、まだ迷子騒ぎにはなっていない。
鬼助が恐る恐る山門をくぐると、克林が早速駆け寄ってきた。
「おめゆうべどこ行ってたんだ?」
「ちょっといろいろあってな。和尚は怒ってたんかい?」
「いやたいして怒ってるようにも見えなかったけんど、今方丈にいるからまず謝ってきたほうがええど」
克林に促されて、早速鬼助は、久安へ詫びに行くことにした。
本堂の廊下を一人歩けば、庭からはシロの鳴き声がワンワンと響いてくる。
犬は気楽でいいな、と内心で思いながら歩みを進めると、廊下の先の襖が、音もなく開いた。
久安が、シロの鳴き声を聞いて廊下に出てきたらしかった。
鬼助の姿を見つけるなり、
「やっと帰って来おったか。心配ばかりかけさせおって」
と、叱られはしたものの、表情からはそこまでの怒りは感じられない。
「ゆうべは喜左衛門様のところで泊ってきたんだろ?」
「いやそうではなくて…、喜左衛門様のとこはすぐにお暇したんですが、帰り道で迷ってしまって…」
「なんと泊まったのではなかったのか、たわけ者!」
先程と異なり、どういう訳か今度はかなりの大音で怒鳴りつけ、鬼助は思わず首をすくめた。
さすがに久安もやりすぎたかと思ってか、
「まあわしも泊まれとは言わなんだのが悪かったか。お前ひとりで一晩山にいたのか?」
咳払いをして冷静になってから問うた。
「運よく五郎兵衛さんに会って、夜が明けるまで居小屋にいました」
「なんと五郎兵衛と…。五郎兵衛の様子はどうだった?お前に何か言うておったか?」
「特に何も……」
返事をしながら鬼助は、昨夜の出来事をいろいろと思い出していた。
中でも頭に浮かんできたのは、山で見かけた鬼女については誰にも言ってはならないという五郎兵衛の言葉である。
さして重要なこととも思えないが、口止めされていただけに、久安から問われて鬼助は内心動揺した。
その姿を、久安は見逃さなかった。
「わしはいつも嘘をついてはならんとお前には言うておるが、それでも何もなかったと言えるか?」
久安の鋭い視線に、鬼助はもはや隠し通すことはできなくなった。
「実は…おら山で変なものを見たんです。白髪のお婆さんみたいな、幽霊みたいなものです。おらは鬼女かと思ったんですけど、五郎兵衛さんに聞いたら、そんなわけないって。でもこの山に鬼女がいるなんて噂が広まったら大変だから、誰にも言っちゃならないって、そう言われました」
すると久安は、俄かに眉根に皺を寄せて黙り込んでしまった。
その後しばらく黙っていた久安は、やがて鬼助の眼を見つめて、
「お前、そいつは幻でも見たんだろう。五郎兵衛の言う通り、鬼女が出たなんて人に言うたら騒ぎになるかもしれんから、決して誰にも言うんじゃないぞ」
と、五郎兵衛と同じようにきつく口止めをし、その場を去っていった。
この時久安の眼は、深い哀しみに満ちているように見えた。
次回第五章に続きます




