第四章 大日方五郎兵衛②
或る時、松代藩重臣である原小隼人が、鬼無里に巡視に来るとの報せが割元喜左衛門の元へと届いた。
かつて御側御納戸役を勤めていた小隼人は、この時には既に家老勝手掛にまで出世していた。
小隼人は藩主真田信安の寵愛を極め、松代十万石を我が意の如く動かし、傲慢の振る舞い甚だしく、評判よろしからずとの噂はこの鬼無里にまで届いている。
小隼人は着衣から佩刀に至るまで、悉く藩主信安を模倣し、信安の顔をよく知らぬ下士の中には、果たして何れかが藩主であるか鑑別に苦しむ者があったほどだという。
而して小隼人にさえ媚びへつらえば立身出世は思いのままとの風潮が藩内には蔓延し、小隼人役宅には賄賂を持参する有象無象の出入り甚だしく、門前市をなす状態であったそうである。
そんな小隼人が、なぜわざわざ鬼無里へとやって来るのかといえば、かつて武芸に於いて敗北を喫し続けた天敵たる喜左衛門に対して、己の出世した姿を誇示したいとの思惑があるために違いなかった。
さて小隼人は大名行列の如く家臣団を連ねて鬼無里へとやって来たものの、巡視とは名ばかりで、村の様子には全く興味を示さず、用人を通じて酒肴の催促をするばかりであった。
家老たる小隼人が宿泊するのは、割元である喜左衛門の屋敷となる。
応接間にて接待をしていると、いよいよ酔いが廻って来たか、
「この里では名主といえども実にみすぼらしき暮らしをしておるものよ。斯様な暮らしに飽いたら、俺のところへ言うて来い。百両も金子をはずめば歴とした士分に取り立ててやるぞ」
と、厭らしい笑いを浮かべて言うのだった。
この時の宴席には、喜左衛門のみならず、鬼無里村及び近隣村々の役人が多数参加していた。
誰もが面白からず思ってはいるが、権勢を誇る小隼人に反論できる者はない。
そういった中で喜左衛門は、
「それは聞き捨てなりませんな。御家老ともあろうお方が自ら付け届けを要求し、武士の身分を売りつけようとはいかにも情けなきお言葉。武士とは左様に軽々しいものではござりますまい。冗談にしても度が過ぎますぞ」
小隼人を睨みつけるように諫言した。
居並ぶ名主たちの誰もが、華麗に着飾った小隼人よりも、質素な身なりの喜左衛門のほうが遥かに武士らしいと思った事だろう。
小隼人は図星を突かれたか、優男の顔に怒りの色をありありと浮かべて、
「この俺に向かって聞き捨てならんとはよういうたの。軽輩のくせに家老たる俺に武士を説こうとは片腹痛いわ。果たしてうぬが聞き捨てならないとて何ができる?うぬが上様に訴え出たとて、うぬの訴えを証する者はだれもいまい。これが即ち武士の格というものだ」
言いながら、居並ぶ村役人の顔を眺めまわした。
誰もが悔しさで奥歯を噛みしめながら俯く中で、
「憚りながら、拙者が証人となりましょう」
末席で毅然と言い放った若者がいた。
それこそが五郎兵衛である。
「その方何者だ?」
顔色を変える小隼人に対して、
「山見を相勤める大日方五郎兵衛にござる」
少しも臆する事なく返事をしたあと、
「実は拙者も、松代では日頃賄賂が横行しているといった良からぬ噂を聞いたことがございます。我らが咎め覚悟の上で今宵の出来事を御殿様へと訴えれば、やがて城下に蔓延る悪事も露見いたしましょう。無論左様な行いは本意ではございませぬが、この鬼無里に厄災が及ぶとあらば、拙者はいつでもこの命を捧ぐつもりでございます」
五郎兵衛は堂々と答えた。
この発言を契機にして、座敷には一気に喜左衛門と五郎兵衛を支持する空気が広まった。
村の者たちは、苛烈な年貢の取り立てに、日々悩まされている。
一方で、松代に住む小隼人は、藩侯の威光を笠にやりたい放題をしている。
いつか機会が到来したら、小隼人の暴虐を上に訴え出てやろうと思っている者も少なくなかった。
居並ぶ村役人の眼に光が宿ったことを、小隼人は敏感に察知した。
こんなところへ戯れに巡視に来たばっかりに、藪をつついて蛇を出すようなことになったらつまらない。
百姓どもが決死の覚悟で蜂起をしようものなら、これまで築き上げてきた地位と財産が水泡に帰す。
こんな奴らを相手にして身の破滅などあってなるものか、と瞬時に頭の中で計算した。
「な、何を寝ぼけたことを言うておる。俺の言うことを真に受ける奴があるものか。その方らがあまりにみすぼらしい暮らしをしているゆえ、からかってみたまでよ。金なぞ持ってきたところで、俺は受け取らんぞ」
などと苦しい言い訳をしてその場を収めたのだった。
この時表面上は穏やかな振りをしていたものの、腹の中での怒りは相当なものだったらしく、小隼人は鬼無里を去る際、
「宮藤喜左衛門に大日方五郎兵衛の奴輩め。この借りはいつか必ず返すから今に見て居れよ」
と、鬼の形相で村を後にしたという。
だが良好に見えた喜左衛門と五郎兵衛の関係は、いつしか変わってしまう。
ある日五郎兵衛は、病身になったことを理由に役目を辞し、木地師として山へ篭るようになってしまった。
兄弟同然だった二人は、以降はあまり交わることもなく、かつての名門大日方五郎兵衛も、今では腑抜けになってしまったと、里の人々は噂したという。
山見役を辞するとに群奉行に提出したと思われる「病身ニ相成リ候、山見役相務メ難キニ付、願ノ通リ隠居シ、甥源右衛門ヘ是マデ通リ後役申付、役料其儘下レ置キ度ク云々」という史料が残されています。
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