第三章 紅葉伝説⑤
安弘年間、冷泉帝にかしづいていた官女で、名を呉羽という姫がいた。
高貴な生まれではないが、頭脳明晰にして類稀なる美貌であり、尚且つあらゆる芸術が人より優れ、特に琴の腕前が秀でていた。
呉羽が朗らかな歌声にて琴を弾ずれば、たちまち付近の鶯は皆ことごとく鳴くのを止めたという。
ただその美しさと才能ゆえ、呉羽は上臈の官女よりいわれなき嫉妬を受けることになった。
政敵の讒言もあって立場を失った呉羽は、京を追われ、やむなく東国へと落ち延び、やがてこの鬼無里の里へと辿り着いた。
里人は、都からやんごとなき姫君がいらっしゃったと崇め奉り、土地の産物を貢いだり、加持祈祷を依頼して病を治してもらっていた。
呉羽の煎じた薬を飲めば、たちまち村人の病は快癒したというが、それはおそらく京の進んだ医学を、呉羽が知っていたということだろう。
ただ村人にしてみれば、いかにも不思議な所業と見え、呉羽は神の化身の如く扱われたそうである。
人々は神の化身山姫と呼んで、呉羽を尊んだ。
物々交換で呉羽から賜った物があれば、その家は子々孫々繁栄するとも信じられていた。
呉羽に対する村人の尊敬は甚だしく、皆で寄付を募り、東西七十間、南北百二十間もある内裏屋敷を拵えたというから、その情熱も相当なものであった。
呉羽はその屋敷で、徒然なる日々を過ごしていた。
何不自由なく暮らす呉羽ではあったが、時々京での日々を思い出すことがある。
都への恋しさを紛らわすように、鬼無里の里を歩いてみては、曲がり角に来るたび、「こちらは西の京、あちらは東の京」などと、都に見立てて楽しんでいた。
それがいつしか鬼無里における地名となった。
また呉羽は、この村の紅葉をいたく愛でて、その名を呉羽から、くれないの葉である紅葉に改め、読みも「もみじ」としたという。
紅葉は一夜山に登って美しい月を眺めながら、山に暮らす山姫として、白髪の老婆となるまで余生を暮らしたそうである。
***
鬼無里の村には今でも内裏屋敷跡があって、呉羽が愛でたという根上がりの紅葉も残されている。
西京、東京という地区や、洛中洛外にちなんだ三条、四条、五条、吉田、高尾、清水といった地名も残っている。
それを思えば、五郎兵衛の語った話は、単なる言い伝えとも思えない。
「鬼無里の紅葉は優しい人なんだねえ。そんなら、おらも一度でいいから会ってみてえなあ」
と、鬼助は正直な思いを口に出した。
確かに鬼助の感じた通り、この鬼無里では、紅葉は鬼女ではなく、村に繁栄をもたらす貴女ということになっている。
それに紅葉には不思議な霊力があって、村人に何か困難が訪れた時、紅葉を山の神として一心に祈らば、必ず霊験ありと言われていた。
いくらか安堵したような鬼助の姿を、五郎兵衛は横目でチラリと見てから、
「紅葉に不思議な力があるなんてのは迷信に過ぎん。だから山で白髪の女を見ただなんて誰にも言っちゃならんぞ。鬼にしろ山の神にしろ、紅葉を見たなんて噂が広まれば、野次馬が山に入ってこないとも限らん。そんな連中、おれは断じて許さんからな」
と、強い口調で言った。
木を扱うことを生業としている五郎兵衛にとっては、山を荒らされたくないというのが本音だろう。
鬼助としては、目撃した鬼女について誰彼構わず話したい気持ちがあったが、五郎兵衛の気持ちを尊重して、己の胸にしまっておくことにした。
それにしても、いつもは無口な五郎兵衛が、鬼女のこととなると随分口数が増えるのが、鬼助には少し意外だった。
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