第三章 紅葉伝説①
そんな宮藤喜左衛門も、今はもう三十を越えた男盛り。
家督は大分前に義父武兵衛より継いで、今ではすっかり割元としての貫禄を身に着けている。
しかし、あやめは儚くも病により早世し、二人の間に子はなかった。
周囲が、あやめのことは気にせず早く後添いを取るよう勧めても、喜左衛門は決して肯んじなかったという。
***
「鬼助、和尚から預かってきた書状を見せてくれよ」
喜左衛門に促されて、鬼助は書状を取り出そうと、懐に手を入れて青ざめた。
さっき仙吉と押し問答をしたとき、懐の巻紙に皺が入ってしまったらしいのが、手触りで分かる。
鬼助が懐手にしたまま動かないのを見て、
「おい小童どうした?さっさと出さんかい」
と、隣村の名主が言った。
「なにぐずぐずしてるんだ鬼っ子め」
他の誰かから言葉が飛んだ。
鬼助は赤面して俯いた。
この村の村役人が言ったのか、或いは他の村の者が言ったのかは分からない。
しかし、自分が鬼の子だという噂は、領民に限らず上役たちにも広まっているという現実は、鬼助を更に委縮させた。
そのまま俯いて黙っていると、
「おい、誰だ今の言葉を言ったのは?鬼助を辱めることはわしが許さんぞ。変な言いがかりを付けるのはよせ」
喜左衛門が語気を強めた。
「しかし喜左衛門様…」
「しかしも糞もあるものか。村に住む者を蔑むことは罷りならん。それに鬼助は、和尚の使いとしてわざわざ山を降りてきたのだ。いざとなれば物の用に立つことを、わしはよく分かっておる。そのような者を辱めるとは、己の恥になるということ、よく肝に銘じて居れ!」
一同を睨みつけた後、鬼助の方へ向き直って、
「さあ鬼助、書状を寄越してくれ。持っているんだろう?」
穏やかな眼をして語り掛けた。
鬼助はその表情に安堵し、懐にある皺だらけの巻紙を、喜左衛門へと手渡した。
「ははは、皺が入ったことを気にしておったか。これくらいなんということもない」
莞爾として笑った後、喜左衛門は一転険しい顔つきになって、書状に眼を通した。
それから満足そうに頷いて、居並ぶ村役人に向かって文面を披いた。
「この通り見事な出来だ。件の目論見、きっと成就すること疑いなしよ」
視線が書面に集中して、おおっと座が沸いた。
鬼助もどさくさに紛れて、チラとその書面を盗み見た。
そこには長々と難しそうな文章が並んだ後、数ある名主たちの名前が、円状に記載されている。
これはいわゆる傘連判状というもので、百姓が訴えを起こすような時に、首謀者が分からぬよう円環状に署名するというのを、鬼助は以前何かの書物で読んだことがある。
鬼助は見てはいけないものを見たような気がして、慌てて眼を逸らした。
「こいつを用いるのは未だ時期尚早やもしれぬゆえ、それまではわしに預からせてくれ。時機が来たらすぐにお手前らにも報せをするから、期待して待ってくれよ」
喜左衛門は懐に巻紙をしまった後、手を打って酒肴の用意をさせた。
それから鬼助に向かって、
「鬼助、役目大義であったな。今日は疲れたろうからここへ泊っていくか?ヨネばあさんにはわしから話しておこう」
と、気遣った。
しかし鬼助にとっては、そんな喜左衛門の優しさが却って苦しかった。
誰にでも分け隔てなく接する喜左衛門にとっては、鬼助に対する態度もごく当たり前なのかも知れない。
だが鬼助には、自分は鬼の子だという負い目がある。
そんな自分に気を遣わせるのは申し訳ないと思って、
「い、いえ、おらはもう寺へ帰ります。和尚にも寄り道しないよう言われているから。それでは失礼致します」
頭を下げてから逃げるように座を立った。
襖を開けて廊下に出ると、外はまだそこまで暗くない。
春の日であれば、まだ陽が暮れるには時間がある。
早足で廊下を歩いて土間へと辿り着くと、そこではヨネが夕餉の支度をしていた。
「おや鬼助どうした?泊っていかねえのかえ?」
「うん帰るよ。遅くなるといけねえから」
「今からじゃ山道はあぶねえから泊まってけよ。だあ様もおめが泊ってくもんだと思ってたろ?」
「でもおらがここに世話になる筋合いもねえし」
「なに馬鹿なことせいてんだ。おめが泊まるのに何の遠慮があるもんかえ。泊まるのが嫌なら飯食ってけ。今握り飯こさえてやるから」
「おばあさんありがとう。でもおらはもう行かなけりゃ」
ヨネの制止を振り切って屋敷を出ると、風は午前より強くなって、ゴオゴオと不気味な音を立てている。
こんな日は山の神様が怒っているから、山に入ってはならないと里の者は教えられる。
でも鬼助には、帰る場所は一つしかない。
「さあシロ帰らしょ」
門前に寝転んでいたシロに声をかけてから、鬼助は帰り道を急いだ。
時刻はおそらく夕七つくらいだろうか。
この時間ともなれば、野良仕事をしている人の姿もない。
鬼助は足早に里を抜けて、一夜山の入口まで来た。
そこで一度振り返って、里を眺めてみた。
あちこちの家から、煙が細く空に昇っては、風にかき消されている。
どこも夕餉の支度をしているのだろう。
鬼助は、その光景から眼を逸らすように踵を返して、夕景の里へ別れを告げた。




