第二章 宮藤喜左衛門①
鬼無里村割元宮藤喜左衛門は、元は松代藩真田家の藩士であった。
かつての姓を、蒔田といった。
松代蒔田家の父祖は、戦国末期たる天正十九年、伊勢国長陽に生まれた人物と伝えられる。
その者は当初黒田八郎太郎を名乗り、諸国を漫遊して剣技を修め、剣豪塚原卜伝に付いて新当流の「一之太刀」を伝授されたという。
徳川の治世となってからは、初め上州沼田城主真田信政に仕え、やがてその次男である信守に剣術を教授した。
信守は、畳を片手で掴んで扇子のように煽ぎ、三十匁の大蝋燭の火を消したと伝えられるほどの剛力者であったが、剣術に於いては八郎太郎の前に及ばず、
「余が腕の三ツ一の力もあるまいに」
といって常々悔しがったそうである。
その後八郎太郎は、主君信政が松代へと転封となるに及び、剣術指南役として付き従った。
その際松代藩士である蒔田家へと婿養子に入り、蒔田喜右衛門頼祐を称したのである。
以降、蒔田本家は故あって途絶えたが、支流は存続し、代々真田家において鬼無里一帯の代官を務め、下士ながら忠義なる働きぶりを以て家中の信頼は篤かった。
蒔田家の当代当主たる喜内と嫡男清之進は、官吏としての才能を発揮し、武芸にはほとんど興味を示さなかった。
一方で次男喜左衛門は、幼少の頃より剣術に熱中し、その腕前は真田家家中にあっても随一と称されるほどになっていた。
武門の家柄である真田家は、泰平の世となってからも、藩を挙げて武芸を奨励している。
当世松代には、青山蟠竜軒成芳という新当流の大家がいて、この者が四十年もの長きに渡り藩士へと剣術指南をしていた。
この蟠竜軒は、塚原新当流の総合武術を己の工夫で新たにより実戦的なものへと変化させたと言われ、そのせいか時世にそぐわぬ他流の試合も多数申し込まれたというが、その際高齢の師に成り代わって相手を務めたのが、若き日の蒔田喜左衛門であった。
師と三本立ち合って必ず一本は勝ちを得ると称された喜左衛門は、血気の士に、時に真剣にて他流試合を挑まれてたとしても、決して敗れることはなかったそうである。
そんな喜左衛門が、幼少より武芸に励んだのには理由がある。
蒔田家は代々代官職にあっても、収入といえば僅か三十人扶持ほどの切米が下される微禄の士に過ぎなかった。
しかも喜左衛門は次男とあれば、将来は家を継ぐことは叶わず、食い扶持にさえ困るようなことになりかねない身上である。
そんな次男を憐れんで、父喜内は、喜左衛門に武芸を奨励した。
下士であるからこそ、武芸がいずれその身を助けると考えたからである。
その期待に応え、或いは先祖の才能を能く引き継いでか、喜左衛門は幼少の頃から麒麟児の誉れ高く、蟠竜軒に入門してからは、瞬く間に腕を上げていったという。
長ずるに従って、道場では師範に次ぐような地位を築いてはいたものの、天下泰平の世となった今では、剣の腕前で立身出世が叶うほど甘くはなかった。
むしろ上士の中には、軽輩の分際で出過ぎた真似をと、喜左衛門の才能に嫉妬し快く思わない者もいた。
そういった輩の中に、原小隼人という士がいた。
蒔田喜右衛門頼祐、青山蟠竜軒についてはネットだと下記に少し情報があります。
https://japanbujut.exblog.jp/20090703/
https://japanbujut.exblog.jp/26903018/
人物関係は以下の通りです
蒔田喜右衛門頼祐=先祖
蒔田喜内=父
蒔田清之進=長男
蒔田喜左衛門=次男(昔の名前)




