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其之参 諸皇帝、乱立。そして破滅と統一へ

 おしまいです。

 改めて歴史物を書くのは難しい、と感じました。

 次回は、なるべくあっさりした感じで、チャレンジしようと反省しています。

其之参 諸皇帝、乱立。そして破滅と統一へ



 漢の皇帝、侯景が首都の建康を捨てて、逃げ出したのは、漢の太始二年。湘東王簫繹政権では梁の太清六年の三月。(西暦552年)

 建康は王僧辯が慰撫し、残敵は陳霸先が掃討している。

 王僧辯は此の東征前に主君の簫繹に、次の様に述べていた。

「賊の討伐は我が責務ですが、成済(せいさい)の仕事は我が責務に入りません」

 成済とは、三国時代の曹魏の第四代皇帝曹髦(そうぼう)を殺した人物である。

 実際に殺害を指示したのは、当時の曹魏の権臣司馬昭(しばしょう)の腹心の賈充かじゅうであるが。

 簫繹が梁の帝位を狙っているのを知っての確認だ。

 侯景に因って、即位され、廃された梁の第三代皇帝の蕭棟は、建康で弟達と幽閉されたまま。

 王僧辯が行なったのは、彼らの救出までである。


 簫繹が遣わした、配下の武将に因って、蕭棟ら兄弟は江陵へ避難の名目で連れ去られ、中途で蕭棟らは殺害される。

 蕭棟は武帝の嫡曾孫で、昭明太子の嫡孫だ。

 殺害を指示した簫繹は武帝の第七子で、謂わば大甥達を殺した訳だが、彼は何故か異様に一族に対する猜疑心が強く、殊に長兄の昭明太子の一族には、冷酷だった。

 昭明太子の三男の蕭詧は、西魏に落ち延び、この叔父への復仇を果たそうと、牙を剥いている。


 侯景の一団は会稽を目指したが、途中で侯景を見限った、この地の地方官に任じた部下が兵を率い、進路を塞いだ為、止むを得ず、北上し松江(しょうこう)(現在の上海近辺)を目指し、海上へ出ようとした。

 此の際に、邪魔に為る二子を、侯景は河の水中に落とし、殺している。

 山東へ向かい、其処で再起を図る心算である。


 船を用意し、船頭を脅し、乗り込んだ侯景たちは沖に出て北上する。

 流石の侯景も疲労から深い眠りに落ちた。

 此処で、同船している羊鵾が、周囲の将兵と謀議を重ねる。

 羊鵾に因って、又も船頭は脅され、京口(けいこう)(建康の近辺)へと進路を向かわせた。


 目が覚めた侯景は驚く。建康方向へと戻っているのだ。

 其処へ羊鵾が現れ、こう主君に言った。

「我が君は、多くの才を持ちながら、此の有様。最早陛下の死で以てしか、此の乱世を鎮める事は叶わぬでしょう」

 羊鵾は剣を抜き、侯景を刺そうとする。

 周囲の近時達も羊鵾の手先だ。

 侯景は船底へと逃げて行く。

 羊鵾は其れを追う。そして、仰天する。侯景は剣を抜き、其の切っ先で、船底に穴を開け、其処から海中へと逃げようとしているのだ。

 宇宙の果てまで逃げんとする、何とも凄まじい生への執着だが、羊鵾の背後からの一撃で、朔北生まれの波乱の男、侯景はこうして江南の海で死亡した。享年五十歳。

 建康が陥落して一カ月後の事である。

 侯景の遺体は塩漬けにされて、建康の王僧辯の元へ届けられた。



 王僧辯は侯景の首を、主君簫繹の居る江陵へ、両腕と両脚を北斉の初代皇帝高洋へ送り、胴体を建康にて晒した。

 一方、漢の関係者達は、各地へ逃げ出していたが、ある者は捕縛され、ある者は降伏し、中には故郷に当たる北斉へと帰順する為、北へと落ち延びる者も居た。

 逃亡中の王偉も、簫繹の軍に捕縛され、江陵に送られ、牢に入れられた。

 獄中で、彼は簫繹に以下の詩を送った。


  - 趙壹能為賦 -  趙壹(ちょういつ)(よく)()(詩の一種)を為す

  - 鄒陽解献書 -  鄒陽(すいよう)は解される書を献す

  - 何惜西江水 -  何ぞ惜しむのか西江(せいこう)の水を

  - 不救轍中魚 -  救わざるのか(わだち)の中の魚を


 趙壹は後漢、鄒陽は前漢時代の人物である。彼らは罪に因り獄中に在った。

 趙壹は獄中から救い出されると、謝礼の詩を書き、鄒陽は無罪の訴えの書を献じると、救い出された。

 王偉は自身を彼らに擬し、西江の水を大事にして、ちっぽけな水溜まりに居る小魚(自分の事)を援けないのか、と訴えた。

 簫繹は是を読んで心動かされる。

 彼も昭明太子や簡文帝と同じく学識が高く、殊に書物を好み、古今の蔵書は十万巻を超えている。

 又、老荘の思想を好み、実は王偉の送った詩の後半の二句は、荘子雑篇の外物の話に基づいている。

 所謂、「轍鮒之急(てっぷのきゅう)」だ。

「是は殺すには惜しい人物だ」

 簫繹は王偉を許し、旗下に加えようとした。


 其処へ簫繹の部下が注進に及んだ。

「彼が記した文を押収して有りますが、けしからぬ内容で御座います」

 部下は、ある書状を簫繹に渡す。

 其れは曾て王偉が四方に向けて書いた檄文で、内容は以下である。


  - 項羽重瞳 尚有烏江之敗 -

  - 湘東一目 寧為赤縣所帰 -


「項羽は重瞳(ちょうどう)だったが、尚烏江(うこう)で敗れた事有り。湘東は片目なので、()んぞ赤県(せきけん)(王城の近辺の事)の所に帰る事()らんや」

 簫繹は幼き日の病気の後遺症で片目が不自由であった。其れを揶揄する内容だ。

 片足が不自由だった侯景との戦いを主導した簫繹も、又障害を持って居たのは皮相である。

 激怒した簫繹に因り、王偉は舌を柱に釘づけにされ、其のまま身体を切り刻まれ、内臓は生きたまま引きずり出される、と云う凄惨な刑死に処された。時に主君の死の一カ月後の、五月の事である。

 侯景の謀主として、様々な書状群を著した王偉について、其の生涯を書き終えたので、以下はやや長いが、本編と外れ、蛇足と為る。



 十一月、蕭繹は江陵で皇帝に即位した。元号を太清から承聖(しょうせい)に改める。

 彼は荒廃した建康に入らず、江陵に留まり続けた。

 建康は尚書令と為った王僧辯に任せている。

 552年。こうして南朝は、再び梁の名も元、統一されたかに見えたが、実は違った。

 この時点で、梁の皇帝は二人居るのだ。

 一人は江陵で即位した蕭繹。もう一人が遡る事、此の四月に成都(せいと)で即位した、武陵王(ぶりょうおう)蕭紀(しょうき)(字は世詢(せいじゅん)、508年生まれ)である。

 蕭紀は武帝の第八子で、成都を本拠として、四川(しせん)の地を治めていた。


 何故、彼が即位したのか。

 其れは彼の息子が建康からの情報に関して、偽の報告を父の蕭紀に対して、続けていたからである。

 四月には侯景に因り、兄の蕭繹が滅ぼされた、と逆の報告を受けた。

 其れを信じた蕭紀は皇帝に即位し、東征の準備に取り掛かった。

 息子が偽の報告をしていたのは、将来帝位に就きたいが為にした事は想像に難く無い。


 承聖二年(553年)、蕭繹はこの弟の勢力を潰す為に、一策を講じる。

 其れは、西魏の宇文泰に四川の攻撃を要請したのだ。

 蕭紀も無策では無く、西魏の西に在る、吐谷渾(とよくこん)に西魏侵攻を要請するも、吐谷渾を撃破した西魏は、宇文泰の一族である尉遅迥(うつちけい)(字は薄居羅(ぼきょら))を主将とする軍勢が雪崩れ込み、成都は攻囲される。

 尉遅迥の生年は不明だが、宇文泰(505年生まれ)の姉の息子なので、ある程度年齢は推察出来る。

 凡そ、三十代半ば、と云った処であろう。


 慌てた蕭紀は一軍を成都に向けるが、其れも撃破され、成都は陥落し、帰路を絶たれた蕭紀は七月に蕭繹の軍に捕えられ、殺されてしまった。

 是で完全に一族の邪魔者を排除した蕭繹だが、彼は四川を占拠したままの西魏軍の撤退と、元の国境線に戻す事を提案した。

 然も、其れを上手く纏めるために、西魏の宿敵である北斉との関係改善と、西魏への攻勢を指嗾した事が、西魏に露見し、江陵を狙っていた西魏は蕭詧を奉じて、江陵への攻撃を準備した。


 万紐于謹(ばんちゅううきん)(字は思敬(しけい)、493年生まれ)を主将として、宇文護(うぶんご)(字は薩保(さっぽ)、513年生まれ)、普六茹忠(ふろくじょちゅう)(字は揜于(えんう)、507年生まれ)の二将が、承聖三年(554年)晩秋の十月、五万の兵で江陵へと進撃した。

 宇文護は宇文泰の長兄の息子だが、この長兄は六鎮の乱で戦死している。

 万紐于謹、普六茹忠は、其々漢姓の于謹、楊忠で知られている。


 襄陽で蕭詧と合流し、西魏軍は十一月には江陵攻撃を開始する。

 碌な備えの無かった江陵は、一カ月と持たず十二月に陥落する。

 この時、蕭繹は自慢の蔵書十万巻以上に火を放った。そして、其の中に飛び込み焼身自殺を遂げ様としたが、是は群臣に押し止められた。

 捕虜と為った、蕭繹は蕭詧の手で、土嚢を上に積み込められ圧死される刑に処された。享年四十七。

 曾て、王偉が簡文帝を殺害したのと、同じ方法である。

 処刑前に、蕭繹は書物に火を放った理由を問われると、こう言い放った。

「万巻の書物を読んでいながら、今日と云う日を迎えたからだ」

 後年、書物の蒙った厄災の一つに挙げられ、蕭繹は非難の対象と為る。



 宇文泰は江陵を西魏の領土とせず、蕭詧を帝位に就け、傀儡国家とした。

 国号は「梁」だが、此の江陵政権は「後梁」と呼ばれ、蕭詧を初代皇帝として、「梁」とは分けるのが通常である。

 王僧辯と陳霸先は建康で、蕭繹の第九子の蕭方智(しょうほうち)(字は慧相(けいそう)、543年生まれ)を梁の第四代皇帝として、即位させ、蕭繹を世祖孝元(こうげん)皇帝と諡した。

 一般に、元帝として知られている。


 此の頃、梁に攻撃を激しく加えていたのは、北の北斉だ。

 北斉は、淮河と長江の間の、所謂「江淮(こうわい)九州」を奪取しようと、執拗な攻撃をしていた。

 其れに対抗していたのは、王僧辯だが、北斉側から、講和条件として、梁の天子を蕭淵明とし、蕭方智を皇太子とする事を要求された。

 蕭淵明とは、侯景が当時の東魏に反乱を起こした時に、武帝が北伐軍を組織し、其の主将を務めていたが、敗れ捕虜と為った人物である。

 彼はずっと北の地での虜囚生活を送っていたのだ。

 とは謂っても、待遇は悪く無く、北斉としては、外交の交渉に使えるので、半ば賓客扱い、と云った処である。


 王僧辯は其れを許諾し、蕭淵明を梁の天子として迎え入れ、元号を承聖四年から天成(てんせい)元年と改めた。(555年)

 是に反発したのは陳霸先である。

 陳霸先と其の軍勢は主に京口に駐屯していたが、此の年の九月に建康の王僧辯を急襲して殺害し、蕭方智を元の皇帝へと戻した。

 此の陳霸先と王僧辯の戦の中で、侯景を殺害したあの羊鵾は戦死している。

 蕭淵明に関して、陳霸先は北斉に送り返す心算で有ったが、病を得た蕭淵明は程無く死去する。

 先の蕭棟や蕭紀、そして此の蕭淵明は帝位に就いていたが、梁の歴代皇帝とは見做されていない。

 無論、侯景に因り一時的に帝位に就いていた、あの簫正徳もだ。

 十月には紹泰(しょうたい)と、又も改元され、完全に梁の全権を握った陳霸先に因り、蕭方智は傀儡とされた。


 そして二年後の十月、陳霸先は蕭方智に禅譲を迫り、陳朝を開く。永定(えいてい)元年と改元し、蕭方智は其の年の内に殺害され、孝敬(こうけん)皇帝と諡される。(敬帝)

 敬帝の殺害は刀剣に因る血を流す類で、成済の曹髦殺害と同種である。

 同じ皇帝の殺害でも、血を流さず行なった、王偉の簡文帝の殺害と大いに異なる。

 陳の領土は南朝で最も版図が狭く、四川を西魏に奪われ、江淮も北斉の物と為り、江陵には西魏の傀儡政権の後梁が割拠している。

 更に陳霸先は、攻め滅ぼした王僧辯の残党との戦いに忙殺され、即位して二年後の永定三年(559年)に崩御する。(高祖武皇帝)

 享年五十七歳。奇遇にも、彼も又、侯景や簡文帝と同じ年に生誕している。


 又、此の年には、北斉の初代皇帝高洋も崩御している。

 過度の酒乱であった高洋は、暴飲の果てに宮中では臣下を、街へ繰り出しては市民を殺傷する、と云う狼藉を働いていた。

 当の本人が「俺は酔うと何を仕出かすか分からない」、等と公言する程の酒乱であった。

 殊に著名な虐殺は、北魏帝室に連なる関係者の大量殺戮だ。

 元氏の名の有る者、老人から赤子に至るまで、七百名以上を鏖殺し、遺体は全て北斉の城外を流れる漳水(しょうすい)に流したが、其の後、漳水で獲れた魚を割いたら、人の指が出て来たとして、人々は漳水から数年間魚を獲るのを止めていた、と云う逸話がある。

 享年三十四歳。死因は過度の暴飲とされる。

 十年と其れなりに長い治世で有ったが、後半はこの様に殺戮に塗れている。顕祖文宣(けいそぶんせい)皇帝と諡され、一般に文宣帝として知られる。

 文宣帝の葬儀では、慟哭の大声こそ多く響いていたが、実際に涙を流した者は只一人、と云われている。

 群臣たちは、この酒乱の皇帝から、殺害される事を避け得たので、内心安堵していたのだ。


 少し戻り、西暦556年。西魏の大権臣宇文泰が死去した。(享年五十二歳)

 其の後を継いだのは、嫡男の宇文覚(うぶんかく)(字は陀羅尼(だらに)、542年生まれ)だが、十五歳の若さである。

 宇文泰は甥の四十四歳の宇文護を、息子の後見として託していた。

 そして宇文護は、翌年正月に西魏の皇帝を退位させ、従弟の宇文覚を即位させ、国号を「(しゅう)」とする。こうして西魏も滅んだ。

 周王朝の事実上の建国者である、宇文護の独裁政治が開始される。

 宇文覚は専横する従兄を殺害しようと企図するも、露見して、僅か一年で宇文護に廃され殺される。

 二代皇帝に宇文泰の庶長子の宇文毓(うぶんいく)(字は統万突(とうまんとつ)、534年生まれ)を即位させた。

 此の周王朝は他の「周」の名を持つ王朝と区別する為に、対峙している「斉」と同じく、「北周」と呼ばれる。

 事実上の国祖の宇文泰は、太祖文皇帝と追諡された。

 六世紀半ばに、中華大陸は、斉・周・陳の三国鼎立時代へと移った。



 西暦581年、(ずい)朝が興る。建国者は普六茹忠の息子の普六茹堅(字は那羅延(ならえん)、541年生まれ)であるが、彼の時代に漢姓に戻す事が奨励された為、楊堅と呼ぶ方が適切であろう。

 楊堅は北周の第三代皇帝の宇文邕(うぶんよう)(字は禰羅突(ねいらとつ)、543年生まれ)の嫡男で、四代皇帝と為る宇文贇(うぶんいん)に娘を嫁がせていたので、所謂外戚であった。

 宇文邕は毓と覚の弟に当たり、毓も数年で殺害され、宇文護に因って擁立されたが、暗愚の振りをして、宇文護を油断させ、其の後宇文護の誅殺に成功し、兄達の敵を討った。(572年)

 そして、親政を開始し、人事や体制を作新する。


 宇文泰が後見を託した様に、宇文護は無能では無く、宇文護時代に北周の国力は大いに高まっていた。

 宇文邕が崩御すると(578年)、楊堅は政治に関心が無い宇文贇に代わって、北周の全権を握り始める。

 因みに宇文覚の字の「陀羅尼」、楊堅の字の「那羅延」は、字と云うより、幼い頃に付けられた小字(しょうじ)で、どちらも仏教用語に由来する。(「ダーラニー」、「ナーラーヤナ」)

 如何に仏教が、北朝南朝を問わずに、当時の人々に深く浸透していたかが判る。


 宇文贇は即位して、僅か一年で、幼い息子の宇文衍(うぶんえん)に譲位する。

 太上皇帝では無く、彼は「天元皇帝」と自称する。更に一年後に崩御したので(享年二十二歳)、彼が称した「天元皇帝」の目的や実態は不透明である。一般には煩雑な皇帝業務を避け、酒色遊興に耽る物、とされているが。

 楊堅は、この宇文衍時代に、尉遅迥を初めとする、北周の元勲の反乱に因り窮地に追い込まれたが、名将の韋孝寛(名は叔裕)を主帥として、尉遅迥の反乱軍を撃破し、相国・隋王と為り、宇文衍から禅譲を受け、此処に周も滅ぶ。


 既に、隋の前の宇文邕時代に、北周は北斉を併呑する事に成功し(577年)、残るのは南朝の陳だけだが、其の前に後梁が対陳の前線基地として、隋に因って587年に廃される。

 後梁は554年から三代続いて滅んだ。

 そして、二年後の589年に隋は陳を滅ぼし、中華大陸全土の統一に成功する。

 三国時代の曹魏が蜀漢を併呑するも、晋と為り、最後に南の孫呉を滅ぼし統一した様に、此の第二次三国時代も、周が斉を併呑し、隋と為り、最後に南の陳を滅ぼすと云う、統一過程まで好く似ている。

 

 隋朝が次代の楊広(ようこう)(所謂「煬帝(ようだい)」)の失策で、群雄割拠の時代へ突入した事、其れを再統一したのが(とう)王朝で有る事は、流石に広く人々に膾炙された史実だ。

 此の群雄の中に、江陵を拠点として、「梁」を名乗る王朝が在った。

 後梁の初代皇帝蕭詧の曾孫である、蕭銑(しょうせん)が皇帝を自称し、618年から割拠していたのだ。

 此の梁王朝は唐に因り、621年の十月二十一日の晩秋に滅ぼされた。


 蘭陵(らんりょう)蕭氏の蕭道成が、南斉を建国したのが西暦479年。

 其れ以来、王朝名がが変わり、中途で滅んだり、自称皇帝だったり、傀儡国家だったりしたが、約二世紀半に渡り、此の蕭氏から、継続的に皇帝が出ていた事に為る。


 以下、主な参考文献となります。


■書籍

・「侯景の乱始末記」 吉川忠夫 志学社選書(2019年)

・「南北朝時代」 会田大輔 中公新書(2021年)


■ネット(直リンはしません)

・渡辺省のホームページ:www2.ktarn.or.jp/~habuku/

・風篁楼:home.t02.itscom.net/izn/ea/index.html

・そしてみんなのウィキペディア!


 こんな相変らずな三国志詐欺物語(更に今回は「項羽と劉邦」詐欺までやらかしている!)に、付き合ってくれた、物好きな方に厚くお礼を申し上げます!

 

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荷、荷…の、簫衍って、武帝だけど、文帝って付けるべき人だなぁって思います。 宇宙将軍・侯景の体は、建康の庶民にお肉として食べられていますので、中国って、西暦500年代までは、人肉を食べてたんですねぇ…
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