其之弐 宇宙大将軍
何か漢字だらけで、とても目が痛いんじゃなかって、読んで下さる方には、感謝しかありません。
とりあえず、読む前、読んだ後に目薬必須!
中には中国語で(簡体字かな?)で投稿されてる作品もあるそうですが。
其之弐 宇宙大将軍
一
建康内外は恐慌と為る。何しろ約半世紀も戦が発生していなかったからだ。
兵が武器を取っても、是を如何使うのか、と困惑する。其処まで建康の兵の質は悪かった。
如何に羊侃が胆力の有る名将でも、先ずは味方の規律と掌握が優先された。
侯景軍が城壁に迫れば、城壁上で自ら矢を射、城壁を壊そうと衝車を突撃させれば、城壁上から石を落とす事を命じ、急拵えで造った梯車を見ると、「あんな物は勝手に崩壊する」、と喝破して、実際に少し動かしただけで、侯景軍の梯車は崩れ去った。
また、侯景軍が諸門に火を付ければ、其の消火作業に当たり、諸門を叩き壊し、侵入しようとすると、羊侃は自ら白兵戦で討ち取り、文字通り、寝る暇も無く指揮を執り続けた。
そして、建康付近へと、続々と梁帝室の諸王の軍が、侯景軍を攻囲に迫っていた。
本格的な戦が始める前、建康から侯景軍に使者が現れ、「此の挙兵は何を目的としている」、と問うと、侯景はあっさりとこう答えた。
「決まっているだろ、皇帝に為りたいからだ!」
是には慌てた王偉が咄嗟に「奸臣の朱异を除く為である」、と返答して、侯景の「皇帝」発言を聞いた使者は軟禁し、朱异を倒す為に決起した、と言い含めた使者だけを返した。
当の侯景軍の討伐対象である朱异は、羊侃に何度も出撃して、侯景軍を撃破する様に求めた。
だが、羊侃が出撃は一切認めなかった。
何と、朱异は勝手に軍の一部を編成し、出撃させてしまった。
是が撃破されたのは、謂うまでも無いが、此の際に羊侃の長男が捕虜とされた。
侯景は敵の事実上の総司令官の長男を捕虜としたので、是で交渉し、建康の平定が出来ると確信した。
羊侃の長男が縛られ、城門前で跪かされた。
「直ちに、城門を開け、降伏せよ!然もなくば、此の者の命は無い物と思え!」
息子が縛られているのを、城壁上で見た羊侃は屹然と答える。
「我が一族として、生まれたからには、己の命より大事な物が有ると知っていよう。賊共、彼の者を如何しようと、貴様達の勝手だ!」
数日して、又も引っ立てた。羊侃は呆れる。
「未だお前は生きていたのか。其れ為らば我が手でこうしてくれよう!」
すると、羊侃は息子に向かって矢を射た。
矢は外れたのか、態と外したのか、息子には当たらず、侯景は息子を使った降伏勧告は諦めた。
「将に、壮士為り」
侯景は羊侃を称揚した。
但し、其の後の羊侃の長男の生死は不明と為る。恐らく侯景は単に彼を忘れ、其の後の混乱の中で殺された、と思われる。
十一月。未だ建康は陥落していないが、侯景軍は建康南の儀賢堂に於いて、蕭正徳の即位式を執り行った。
侯景は、相国、丞相、天柱将軍と為り、更に蕭正徳の娘を娶った。
既に東魏に残した侯景の妻子は、高澄に因って殺されている。
両軍共に、此処に来て困窮を極めたのは、食料不足だ。
粗食を旨とする簫衍は、野菜が無い、と云う理由で、止むを得ず、卵料理を供された程である。
侯景軍は朱异を初めとする、奸臣共を除けば撤退する、と使者を飛ばしたが、其れは無視された。
十二月に入ると、遂に過労からか、羊侃が死去する。
不思議な物で、続いて朱异も死去した。彼は周囲からこの惨状の原因を作った者とされ、軽侮を受け続け憤死した。
侯景軍は、斃すべき奸臣の朱异が居なく為り、食料不足は愈々深刻と為った。
其処へ、次々に此の建康攻囲軍の侯景を討とうとする、諸王の軍勢が迫りつつあった。
侯景は王偉を初めとする、部下達と協議した末、和議を結ぶ事に決めた。
其れも信じ難い事に、初めから破る為の和議である。
羊侃死後、事実上の防衛の総指揮を執っていた、皇太子の蕭綱は是に飛び付いたが、父の簫衍の叱責を受けた。
「敵は奸智に長けた、賊共。此の様な和議等信じられるか」
耄碌し、朱异の言い成りに為っていたと思われた簫衍は、この男が居なく為ると、自身の判断で事を決し始めた。
曾ての、文武に卓絶した能力を持った指導者で有った時代に戻り始めた。
だが、結果として、此の和議は決せられる。
侯景側からは代表者の一人として、王偉が和議の誓いの場に居た。
主な内容は、侯景は攻囲を解き、本拠地の寿春に戻る事。侯景を逆に包囲している、諸王の軍は全て撤退する事だ。
549年(太清三年)の正月。和議はこうして結ばれた。
諸王の軍は即座に退去して行ったが、侯景軍には退去の気配が無い。
其れを難詰する使者が来ると、「長江を渡る船の手配中だ」とか、「寿春が高澄に落とされた為、退去が不可能だ」等と言って、其のまま攻囲を続けていた。
因みに寿春が高澄に落とされたのは事実である。最早、侯景は建康を自身の本拠地としなければ為らない。
如何にか近辺から、糧食を得ると、遂に瀕死状態の建康に再度の攻撃を開始した。
名将羊侃が居ず、兵も民も飢餓状態で餓死者が続出していた、建康は耐え切れず、三月に遂に陥落した。
二
建康は混乱の極みにある。飢餓に苦しむ者は倒れ、如何にか力有る者は脱出する。
簫衍は側近に迎撃は出来ぬのか、と問う。
最早、抵抗は不可能、と返答を得ると、嘆息する。
「朕の一代で築いた代が、朕の一代で滅びる。是も致し方無し」
王偉が簫衍の座する宮城の太極殿に至り、此度の挙兵は陛下に意見を述べ様にも、奸臣に邪魔をされ、止むを得ず、衆軍を率いて、入朝に来た次第である、と侯景の弁明を述べる。
簫衍は首謀者の侯景を召還する様に王偉に命じた。
侯景と簫衍の対面と為ったが、勝者の侯景は委縮し、曾ての威光を放つ簫衍が問うた。
「卿は何処の生まれだ?」
対面する老人を侯景は正視出来ず、只黙ったままである。
「挙兵した時は何人だった?」
「千人」
漸く侯景は声を振り絞り、答える。
「台城(建康)攻囲の初めは?」
「十万」
「では今は?」
「卒土の内、全て我が物」
直ちに戦後処理が行われたが、侯景は簫衍に面会した事を後悔した。
「俺は馬上で戦場を駆け回って来たが、怖れ等抱いた事は無かった。其れが、簫公の前では、縮み上がってしまった。天威犯し難し、とは此の事を言うのだろう。あの老人に会うのは二度と御免だ」
是で割を食ったのは、侯景に因り皇帝とされた簫正徳である。
彼はあっさりと廃位され、元の地位に戻され、此の年の内に侯景の手の者に因って殺されている。
侯景は簫衍を主として仕える形を取ったのだ。
先ず、侯景たちが戦後処理で行ったのは、建康内の餓死者を一カ所に集め、全て焼き払った事である。
だが、簫衍は侯景の操り人形とは為らなかった。
ある時、簫衍が侯景の将兵を見て、ある官吏に「あれは何だ」、と問うと、「侯丞相の壮士で御座います」、と奏上すると、「朕は丞相等置いた心算は無い。彼は景と云うのだ。今後彼の事は名で呼ぶ様に」
是を内に聞いた侯景は怒りを出すも、彼が行なった事はこの老人の軟禁だ。
五月に入り、簫衍は崩御した。享年八十六歳。
諡され、高祖武皇帝。以降、簫衍は武帝、或いは梁武と呼ばれるのが一般的である。
武帝の最期は、軟禁した侯景側が碌に食事をさせず、餓死させた、と云われる。
だが、元々粗食を旨とし、又は断食等も日常的に行っていた、皇帝菩薩の異名を取った武帝である。
武帝の最期の言葉は、以下で有った、とされる。
「荷、荷」
是は喉の渇きを訴えた物とも解釈出来る。
人とは、数日食物を食べずとも生きていけるが、数日水分を補給しないと生きていけない。
二代皇帝として、皇太子の簫鋼を侯景は即位させた。
そして、侯景は簫鋼の娘も妃とした。
年が改まり、550年に為ると、元号を太清から、大宝と改元し、侯景は次々に自身に位階を加えて行く。
先ず、九月に漢王と為り、更に十月の秋深まる時に、「宇宙大将軍」・「都督六合諸軍事」と称し、梁王朝の全権を握った。
是を聞いた、皇帝簫鋼は大いに驚いた。
「将軍に宇宙の号が有るとは!」
抑々、侯景の領する地域は建康を中心として、東南の銭塘江辺りまでで、凡そ「宇宙」や「六合」等、天地四方を支配している訳では無かったので、当時から「宇宙大将軍」の呼称は、市井に至るまで広く失笑を買っていた。
三
この549年から550年には、東魏でも異変が生じていた。
事実上の東魏の支配者である、高澄が549年(武定七年)の八月に、梁の降将で、配膳奴として扱き使われていた蘭京に殺害される事件が起こったのだ。
是は高澄の弟で、高歓の次男の高洋(字は子進、526年生まれ)が鎮める。
そして、高洋は兄の地盤を即座に引きつぎ、550年二月には斉王と為り、東魏皇帝の元善見に禅譲を迫り、五月に東魏は滅び、斉王朝が高洋に因って建てられる。(天保元年)
「斉」の名の王朝は、例えば、武帝が滅ぼした南斉の様に多く在るので、この王朝は「北斉」、または「高斉」と呼ぶのが通例である。
初代皇帝高洋は、父の高歓を太祖献武帝(後に高祖神武帝と改められる)、兄の高澄を世宗文襄帝と追諡した。
高洋は一種の英傑であった。
北方で勃興しつつあった突厥を自ら親征し撃破し、更に契丹や高句麗にも攻撃を加え、勢力範囲の成功を収めている。
戦場では、敵の数が少ないと不満気で、自身に敵の矢や剣先が届く、最前線に身を晒す事を厭わない胆力の持ち主で有った。
西魏の宇文泰も対峙した時、高洋の整然とした布陣を見て、「若しや、賀六渾(高歓)は未だ生きているのでは?」、と疑念に駆られた程である。
尤も、暴君化した後年の殺戮歴を見ると、戦場に於ける人の血や殺害に対して、単に愉悦に感じていたのかも知れないが。
こうして、梁、東魏、西魏の一角が滅び、梁、斉、西魏の鼎立と為った。
梁国内で、最も大勢力を誇っていたのは、江陵を本拠とする荊州刺史、武帝の七男の湘東王簫繹(字は世誠、508年生まれ)だ。
彼が侯景の乱が始まってから、先ず行った事は、諸王を糾合し、自身の勢力の伸長であった。
建康の兄の簫鋼の即位を認めず、「太清」の元号を使い続け、独自の政権運営をしていた。
標的として、自身に従わない河東王蕭誉(字は重孫、519年生まれ)に狙いを付けた。
蕭誉は昭明太子の次男で、簫繹からすると甥に当たる。
其の彼の勢力に、長男の蕭方等(字は実相、528年生まれ)を主将とする討伐軍を派遣したが、この従兄弟同士の戦いは、蕭誉の勝利に終わり、蕭方等に至っては戦死してしまった。
是が549年の事である。
翌、550年五月に部下の将軍、王僧辯(字は君才)を派遣して、蕭誉の勢力を滅ぼす事に成功する。
捕縛された蕭誉は斬首された。
王僧辯の生年は不明だが、梁の天監年間(502年から519年)に父に連れられ、家族と共に北魏から梁へ亡命している。
其の頃が少年時代だったとすると、550年に於いては凡そ五十代、と云った辺りであろう。
処が、兄の蕭誉の仇とばかりに、江陵へ昭明太子の三男の岳陽王蕭詧(字は理孫、519年生まれ)が一軍を率いて攻撃に来た。
簫繹は是の撃退に成功するが、蕭詧は取り逃がし、彼は西魏へと落ち延びて行った。
宇宙大将軍こと侯景は、本格的に梁の全土を平定しようと、西へと進撃を開始した。
次々と勝利を重ねたが、又も王僧辯の一軍が簫繹から派遣され、551年(大宝二年、太清五年)の五月に巴陵の地で両軍は激突する。
南朝の地で、再び北朝からの亡命者を、共に主将とする戦いが行なわれた。
侯景の陣頭指揮も空しく、王僧辯が指揮した、荊州軍の一方的な勝利に終わった。
侯景のこの西征の意図は、江南を平定し、其の功で禅譲を迫り、皇帝へと登極する算段である。
だが、建康に逃げ帰った侯景は、野望の修正を必要とされた。
四
一方、此の大勝利で、対侯景の事実上の指導者と為った簫繹は、諸軍を集め、建康への東征の準備に取り掛かる。
八月に侯景は突然、簫鋼に廃位を告げ、幽閉する。
だが、侯景は直に即位をしなかった。王偉がこう進言したのだ。
「古より、鼎を移すには必ず帝自らの廃位が必要です」
侯景が次の皇帝に就けたのは、昭明太子の亡き長男の豫章王蕭歓(540年没)の長男の蕭棟である。
武帝からすれば、蕭棟は嫡曾孫に当たる。
そして、僅か三カ月で、蕭棟は禅譲を迫られ、侯景に位を譲った。
蕭棟も同じく幽閉される。
この間の秋に簫鋼は、殺害され、高宗明皇帝と諡されているが、歴史上では後の太宗簡文皇帝、つまり簡文帝として知られている。享年四十九。簡文帝は侯景と同じ年に生まれている。
簡文帝も兄の昭明太子同様、文才に優れ、幼き日に書いた文章を読んだ父の武帝は、「これは我が家の東阿(曹魏の東阿王曹植の事)である」、と褒めた程である。
皇太子時代には、「宮体詩」と呼ばれる綺艶で技巧的な詩風を確立した。
簡文帝の死は、王偉が酒を多いに進め、酔いつぶれた簡文帝の上に土嚢を積み上げ、圧死させる、と云う物であった。
皇帝、又は廃された帝を殺すのは、血を流さず、首を締める等をして殺すのが、一般に作法とされている。
十一月。侯景は皇帝に即位する。彼は漢王の位を持っているので、国号を「漢」とした。
梁漢革命だが、是は前年の北朝で起こった魏斉革命と決定的に異なるのは、この漢王朝は建康を中心とする只の一地方政権だ。
元号を「太始」と改元し、皇帝侯景は、王偉の上奏を受ける。
「天子と為られたからには、祖先を祀る七廟を立てなければ為りません」
「七廟とは何だ?」
「天子とは七代の祖先を祭るのです。畏れながら七代の父祖の諱を教えて下さい」
「そんな先の事等知るか。親父の名前は標だ」
処が、北から侯景に付き従って来た、ある将兵が侯景の祖父の名を知っていた。「乙羽周」だと述べる。
「乙羽」が姓である。つまり侯景の出自は限りなく怪しく、曾て仕えていた、高氏を漢族で無く「鮮卑」呼ばわりして侮蔑していたのは、奇妙な事である。
王偉は先ず、標を「元皇帝」、周を「大丞相」と追尊し、祖先は漢の時代の侯覇。七代前は晋の時代の侯謹と、でっち上げの体裁で七廟を整えた。
翌、552年(太始二年、太清六年)に、簫繹は東征を開始する。
主な武将は先に侯景を大いに破った王僧辯。そして陳霸先(字は興国、503年生まれ)だ。
陳霸先は南部の広州で反乱鎮圧等に功績のあった将軍で、三万の軍勢を率い北上する。
両将軍は次々に漢の軍勢を破り、合流した両将軍は、互いの血を啜り、血盟を果たし、三月には遂に逆に侯景が座する建康を攻囲した。
侯景は大いに慌てて、建康を脱出しようと企図したが、王偉が其れを止める。
「古より、逃亡した天子は御座いません。未だ我が軍は一戦に耐えられます。抑々此処を捨てて、何処へ逃げる、と云うのですか」
因みに王偉の漢での地位は、尚書左僕射と、殆ど宰相の様な官職に就いている。
侯景の逃亡の意志は固かった。
「俺は身一つで伸し上がり、北に居た時は、高歓にも比肩しうる存在だった。南では台上を落とし、巴陵の地で負けるまでは、南賊共の兵を大いに破った。其れが今や此の状態だ。是は天が俺を滅ぼそうとしているからだ」
まるで西楚覇王の項羽の様な言い草だが、項羽と違い彼には自害と云う選択肢は無い。
南朝の歴史を表した、「南史」の「列伝第七十・賊臣」に侯景は記録されるが、其処では彼は片足が不自由で、馬上で武芸をするのが苦手だった、と有る。
猛将と云う一般的な印象と異なるが、確かな事は、彼は殆ど一兵卒の様な立場から、身を起こしたので、中途で深刻な戦傷を受け、此の頃には戦場は元より、日常的な生活を過ごすにも辛い症状を持っていた、と思われる。
侯景の戦の強さは、常に陣頭指揮をし、重傷を負い、身体的な不自由を持っていたにも拘わらず、尚其れを行い続けていた事が一因かも知れない。
士卒には自身と同じ様に、勇敢に戦う事を命じ、軍命を無視する者や怯懦する者には、苛酷で残忍な刑罰を与える一方で、勇敢に戦った者には、戦利品を気前好く公平に分け与えていた。
建康攻囲時、敵将の羊侃を無条件に賞賛した処に、この男の一面が判る。
簫正徳の娘との間に生まれた幼い二子を、鞍に括り付け、百程の近侍の騎兵と共に、侯景は南へと脱出した。
目指すは会稽で、其の地で再起を図るのだ。
この百騎の中には、侯景の近侍として仕えている、羊鵾(字は子鵬、527年生まれ)が居る。
彼は羊侃の三男だが、侯景が彼の姉妹である羊侃の娘も側室としたので、側近として登用されたのだ。
一方、王偉は建康に残ったままだったが、建康は王僧辯と陳霸先の激しい攻撃に耐えきれず、此の月の内に陥落した。
王偉を初め、建康に残った漢の関係者達は、主君の侯景とは、其々別の方向へと逃げ出して行った。
其之参へ続く
歴史で手紙が題材で、こんなひどい殺伐とした話をやっていますが、実は同時進行で、既に冬童話も書き終わっています。
こちらは、極力漢字の少ない、ほのぼのとした物です。
冬童話も宜しくお願いします。