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其之壱 侯景叛す

 歴史物です。

 題材は南北朝時代です。

其之壱 侯景叛す



 本作は、所謂中国の南北朝時代、其れも末期に当たる時代に駆け抜けた、一人の策士に焦点を当てて概観する。

 西暦五百年代初め。中華大陸は、北朝は拓跋(たくばつ)氏((げん)氏)の()王朝(北魏又は元魏)、南朝は(しょう)氏の(りょう)王朝であった。

 さて、北朝の北魏は所謂「六鎮(りくちん)の乱」が発生する。


 六鎮とは、北魏の北に設置されたもので、北の柔然(じゅうぜん)を初めとする遊牧民を防ぐ、重要な軍事拠点だったが、北魏の首都が北の平城(へいじょう)から、洛陽(らくよう)に遷都すると、当地は次第に軽んじられ、中央から遣って来た鎮都大将が鎮民を搾取や過酷な労役に使い、遂には鎮民の怒りが爆発し、六鎮挙っての大反乱と為った。

 西暦523年(正光三年)の事である。


 最終的に乱は鎮圧されるが、北魏は東西に、東魏と西魏に分裂する。

 (ぎょう)を首都とする東魏の成立が534年(天平(てんぺい)元年)。長安(ちょうあん)を首都とする西魏の成立が535年(大統(だいとう)元年)。

 北魏の首都の洛陽は、丁度両国の間に在り、どちらも「(北)魏」の正統後継国として、両国は大いに争い、其の帰属は度々変遷したが、最終的には東魏が領する事に成功した。


 また、両国とも事実上の建国者は、北魏帝室の拓跋氏では無く、六鎮の乱で身を起こした、英傑たちである。

 東魏の高歓(こうかん)(字は賀六渾(がりくこん))は496年生まれ、西魏の宇文泰(うぶんたい)(字は黒獺(こくたつ))は505年生まれ。

 其の姓や字から、所謂鮮卑(せんぴ)系の生まれである。(宇文氏は元は匈奴(きょうど)系で鮮卑化した部族)

 この様に、六鎮の鎮民には、鮮卑族や匈奴族を初め、北の勇敵の柔然族の降伏者や、其の柔然族と争っていた高車(こうしゃ)族を出自とする者が多い。

 当の拓跋氏も鮮卑系だが、姓を「元」と改め、漢語を使用し、部族制度を解体し中華風の官僚制度を整え、ズボンの様な胡服を廃止し、洛陽遷都後はすっかり漢化している。

 「六鎮の乱」とは、そんな急激な漢化に対する、北族の反発の面も有った。


 軍令では、共に鮮卑語が飛び交い、互いに争っていた。

 今上げた部族の言葉は、テュルク系ともモンゴル系ともツングース系とも色々出ているが、確実な事は漢語では無い。

 高歓の部下に高車系の武将の斛律金(こくりつきん)(488年生まれ、字は阿六敦(アルタン))がいた。彼は「勅勒(ちょくろく)歌」なる歌を唱和し、軍中の士気を高めていた。「勅勒」とは「テュルク」、の音訳と思われる。



 東魏の権臣、大丞相高歓は、死期が近い事を悟っていた。

 西魏の玉壁(ぎょくへき)城を546年(武定(ぶてい)四年)、高歓は十万の大軍で攻囲するも、西魏の名将の韋叔裕(いしゅくゆう)(509年生まれ、字は孝寛(こうかん))に因り、二カ月の攻防の後、七万もの損害を出して撤退した。

 是が先の「勅勒歌」の唱和と為り、高歓も涙して歌ったのだが、この大敗を痛憤として、東魏の副都の晋陽(しんよう)に戻ると重篤と為った。

 高歓には、一つ気掛かりな事がある。

 其れは、彼が若き日より、共に行動をして来た、部下の侯景(こうけい)(503年生まれ、字は万景(ばんけい))の存在だ。

 侯景は、洛陽を中心とする河南大行台(かなんだいぎょうだい)として、黄河以南を統御している、東魏の重鎮である。


 彼は常々、平然とこの様に言っていた。

「高王(高歓)が健在なら、俺は大人しく従う。だが、王の息子共の鮮卑の小僧達に従う心算は無い」

 高歓が死ねば、この男が反乱を起こす事は、明白で有った。

 さて、この侯景の謀臣として、王偉(おうい)なる者が居た。

 彼を中心に、この六世紀に起こった、中華大陸の諸王朝の変遷を、概観するのが、この物語の目的である。

 王偉の生年や、字は不詳である。少なくとも主の侯景と同世代、と言った処であろう。

 彼は学識豊かで、侯景の文書管理を一手に引き受けていた。


 547年(武定五年)。年明け早々に、晋陽にて高歓は没する。享年五十二歳。

 後継と為ったのは、長子の高澄(こうちょう)(521年生まれ、字は子恵(しけい))である。

 尤も、高歓は自身の死を秘匿する様にし、高澄には侯景に対する策を授けていた。

「余が今まで慕容紹宗(ぼようしょうそう)を重用しなかったのは、汝の忠臣とする為だ。彼に任せれば、侯景を討つ事は容易い。紹宗に全ての計略を任せよ」

 慕容紹宗。字も紹宗は、501年の生まれである。300年代に興った鮮卑族による前燕(ぜんえん)の皇族、慕容格(ぼようかく)の末裔とされる。


 死を秘匿したにも拘わらず、数日後に侯景は反乱を起こす。

 東魏の宿敵の西魏と、友好国である南朝の梁に、同時に帰順と援助を頼む周到ぶりだ。

 意外な事に、昨日の敵とも云うべき、西魏の宇文泰は是を承諾した。

 一方の南朝の梁に対しては、江南の建康(けんこう)と距離が有るので、使者の到着に時間が掛かった。


 東魏と西魏は、帝室こそ拓跋氏だが、実質的な権力を持っているのは、東魏は高歓・高澄親子、西魏は宇文泰である。

 一方の南朝の梁の主は、蕭衍(しょうえん)(464年生まれ、字は叔達(しゅくたつ))だ。そして、彼も実力に因って帝位に就いていた。梁王朝の初代皇帝である。

 梁の前の王朝は(せい)(南斉、又は簫斉)と云い、これも簫氏が建国した王朝である。

 簫衍は建国者の蕭道成(しょうどうせい)の一族に連なるので、才幹を評されると、直ぐに高官と為った。


 さて、この南斉、廃帝も合わせると七代続いた王朝にも拘らず、僅か23年で滅んでいる。

 最後の皇帝から禅譲を受け、簫衍が即位し、国号を梁としたのは、502年(天監(てんかん)元年)。

 この南斉、僅か23年だが、南朝の負の面が殊に顕著な王朝だ。

 皇族同士の殺し合いや、少年皇帝に因る奢侈や乱暴狼藉。

 六代皇帝で、実質的な最後の皇帝の簫宝巻(しょうほうかん)(483年生まれ、字は智蔵(ちぞう))は悪名高く、「悪童天子」、「殺戮王」、等と称されていた。

 重臣として、蕭衍の兄の蕭懿(しょうい)(字は元達(げんたつ))が政務を補佐していたが、「蕭懿が反乱を起こそうとしている」、との讒言を信じた、簫宝巻に因り蕭懿は死を賜り、兄の死に激怒した簫衍が挙兵し、既に見放された簫宝巻は側近に501年に殺され、蕭衍は其の弟を帝位に就け、翌年に禅譲を受けた次第である。


 547年(太清(たいせい)元年)。蕭衍は未だ皇帝の座に有る。其の治世は南斉の世の倍近くだ。年齢は所謂数え年なら、この年で八十四歳と為る。

 当時としては奇跡的な長生きだが、一つの要因として挙げられるのが、蕭衍が厚い仏教信者だったからだ。

 50歳を過ぎると、精進料理の粗食を食べ、酒も飲まず、夜は愛妾との同衾もせず、殆ど僧侶の様な生活を送っていたのだ。

 仏教だけでなく、若き頃から様々な学問に通じ、南斉時代には皇族の竟陵王(きょうりょうおう)蕭子良(しょうしりょう))の文化サロンである「竟陵八友」の一員でった。

 そして、兄の死に対する挙兵の様に、武にも明るく、即位後は北魏との攻防を優位に進めていた。

 要するにこの時代に於ける名君の一人に挙げられるが、八十四歳で半世紀近くも在位していると、如何しても箍が歪む。


 侯景からの帰順と支援の使者が、漸く健康に到着すると、蕭衍は是をあっさりと許諾した。

 文武の高官たちは反対する。

 先ず、東魏とは長らく友好国である事。

 抑々、侯景自体が信用出来得る人物かの不安だ。

 だが、蕭衍は譲らず、侯景を「河南(かなん)王」と封じ、北伐する事を決めた。

 決定的だったのは、蕭衍の寵愛が厚い、中書舎人(ちゅうしょとねり)朱异(しゅい)(483年生まれ、字は彦和(げんわ))が積極的に支持したからだ。



 一方、東魏の高澄も無策で居た訳では無い。

 侯景に激しい攻撃を行ったが、是に対し侯景は、西魏に領土割譲を条件に援軍を要請し、退ける事に成功した。

 そして、高澄は侯景に懐柔策を出した。

 一切の罪を問わず、今までの身分も保証し、獄に繋がれている侯景の妻子も送り届ける、と書状を出したのだ。


 処が、是に反対したのが王偉である。彼が高澄に、当然、侯景の名で返書をした。

「我は河南にて大梁の為に尽くす。君は自身の継いだ地を治め、天下を三分して、鼎立すれば、百姓(ひゃくせい)は安堵する」

 要するに、河南の地を含めた梁、東魏、西魏の天下三分の計を述べ、其々の国造りに邁進し、平和な世を築こう、と主張したのだ。

 事実、中華の地は此処で、本格的な「第二次三国時代」とも謂える状態へと入る。

 侯景の妻子については、王偉は次の様に記し、一蹴した。

「曾て、(かん)王陵(おうりょう)の母が、()項羽(こうう)に捕らわれた時、王陵の母は漢王(劉邦(りゅうほう))に忠誠を尽くす様に、と残し自害した。又、項羽が漢王の父を捕えた時も、漢王は『君と私は兄弟の契りを交わした。煮殺すと謂うのなら、是非とも私にも其の(スープ)を貰いたい』、と述べた。尊ぶべき父母の命ですら、顧み無いのに、如何して其れ因り劣る妻子の命等、顧みるのか」

 楚漢戦争を例に出し、高澄をまるで負けた項羽に擬したのだ。


 一方で高澄は、この様な自身の署名入りの書状を、業と梁の手に落ちる様に仕向けた。

「実は侯景が叛いているのは、事実でなく、西魏を乗っ取る為、この様な策を弄したが、宇文泰に見抜かれたので、侯景を泳がし、梁を乗っ取る算段に切り替えた」

 八十四歳の簫衍は是を、未だ二十七歳の高澄の児戯に過ぎぬ、と断じた。

 こうして、侯景の救援に、簫衍の亡き兄の長沙(ちょうさ)王蕭懿の息子の貞陽(ていよう)蕭淵明(しょうえんめい)(字は靖通(せいつう))を主将とする、十万の軍が北伐へと八月に進軍した。


 此処で、簫衍の家族構成を簡易に述べる。実は簫衍の一族を述べる事は、是から起こる大乱に影響を及ぼしているからだ。

 先に兄に蕭懿がいて、息子に蕭淵明がいる事は述べた。

 簫衍は長らく男子に恵まれ無かったので、弟の臨川(りんせん)蕭宏(しょうこう)(473年生まれ、527年没。字は宣達(せんたつ))の三男の蕭正徳(しょうせいとく)(字は公和(こうわ))を養子としていた。

 処が、簫衍が帝位に就く前年の501年に待望の男子が生まれ、其のまま皇太子とされた。

 不思議な物で、其の後簫衍は男子に恵まれ、八人の息子を儲けるが、周知の様に五十歳を過ぎると、僧侶の様な生活を送り始めたので、末の八男は508年生まれである。

 息子たちは547年時点で、四十代半ばから三十代後半だ。当然彼らは多くの子を為している。


 面白くないのは、養子の蕭正徳だ。

 本来なら、彼が二代皇帝と為れたのだが、従弟に其の地位を奪われ、彼は臨賀(りんが)王とされた。

 更に複雑な事が起こり、簫衍の長男である皇太子の蕭統(しょうとう)(字は徳施(とくし))が、531年に31歳の若さで没した。

 頭脳明晰で博学で知られる蕭統は、国政にも携わり、父帝を大いに助けていたが、『文選(もんぜん)』の編集者としての功績で、寧ろ著名だ。

 名も昭明(しょうめい)太子と、其の諡号の方で広く知られている。

 そして、皇太子に立てられたのが、三男の蕭綱(しょうこう)(503年生まれ、字は世讃(せいさん))であった。

 是には蕭正徳だけで無く、他の皇子たちと、其の息子たちも内心不満を持っていた。


 蕭淵明の軍は、当然侯景軍と連携を取って、東魏の彭城を攻めた。

 これに対して東魏は援軍を出したが、其の援軍の中の将に慕容紹宗がいる、と知った侯景は大いに慌てた。

「一体誰が、紹宗を使う事を、あの鮮卑の小僧に教えたのだ!若しや高王は未だ生きているのか!?」

 梁軍は慕容紹宗に因り、壊滅させられ、更に主将の蕭淵明は捕えられてしまった。

 恃みの梁軍が壊滅した侯景軍は退き、十万を超える東魏軍を如何にか凌ぎ切り、体勢を立て直す事に成功した。

 だが、西魏の宇文泰は侯景に見切りをつけ、梁軍は壊滅。侯景軍は次第に糧食が尽き果てて行き、年改まり、梁の太清二年(548年)、慕容紹宗の精鋭軍に因り、侯景軍は猛攻撃に晒される。

 其の際、慕容紹宗は「投降者は一切罪に問わぬ」、と触れ回ったので、侯景軍の将兵は次々に脱落した。

 侯景は数百の兵と共に淮水(わいすい)を渡り、南へ落ち延びた。王偉もこの敗残兵の中に居る。


 侯景の梁での身分は「河南王」だ。

 寿春(じゅしゅん)に落ち延びると、建康に敗北した旨の使者を出したが、驚くべき事に簫衍は、敗北の罪を問わず、王で有る侯景を其のまま南予州刺史(よしゅうしし)とした。

 周囲の重臣たちが呆れ返ったのは、謂うまでも無い。



 話はずれるが、この南北朝時代。

 北朝と南朝は相互に戦の捕虜は勿論、単純に互いに亡命者を出している。

 例えば、北朝なら漢人が、漢民族の王朝の南朝に亡命したり、更に権力争いに敗れた皇族が亡命をしていた。

 簫衍は、こうした北魏の皇族を「魏王」として立て、北伐を敢行していたが、其の中で著名なのは、洛陽を一時的に占拠した、陳慶之(ちんけいし)(484年生まれ、539年没。字は子雲(しうん))の北伐である。

 是は、南朝側からも同じで、後継を外され、面白く無かった養子の蕭正徳は、北朝に亡命していた。

 彼は市中では、乱暴狼藉の限りを尽くし、其の姿は伯父でり、義父の簫衍が討伐した、簫宝巻の様な人物であった。

 北朝でも色々問題を起こし、厄介払いされ、数年で梁に送り返された。

 又、この南斉の事実上の最後の皇帝である、簫宝巻の弟の蕭宝寅(しょうほういん)も、兄帝が殺害されると、北魏に亡命し、其の後、北魏の軍人として活躍していた。

 西魏関係者でも梁での亡命生活を送った者が多く、独弧信(どっこしん)賀抜勝(がばつしょう)普六茹忠(ふろくじょちゅう)等が簫衍の厚遇を受けて、西魏へと戻った。

 簫衍の厚い仏教信者としての慈悲が、そうさせたのだが、一方ではこうして相手国の重鎮とのコネクションを築き、其の後の外交で優位に立とう、と云う現実的な面が強い。

 さて、普六茹忠とは漢姓だと(よう)忠である。この楊忠の息子に当たるのが楊堅(ようけん)である。


 そして、蕭淵明は晋陽にて虜囚としての生活を送っている。

 高澄は彼を梁へ送り返し、梁との和議を結ぼうとした。梁との緊張状態は、西魏の攻勢を誘発し兼ねない。

 簫衍も兄の遺児が無事に戻って来る事を願い、東魏との和議をすべきでは、と思った。

 是に侯景が反対したのは謂うまでも無い。彼は蕭淵明との取引で、東魏に送還される物と疑った。

 此処で、又も朱异が断固として、東魏との講和と、侯景を見捨てて、蕭淵明の無事な帰国を主張した。

 こうして、寿春の南予州刺史の侯景と、建康の簫衍の間で、何度も書簡が繰り交わされ、最終的に建康側は、「もう書簡を送り付けるな」、と最後通牒を突き付けた。

 無論、書簡の対応をしているのは侯景では無く、王偉である。


 策謀家の王偉は、侯景の名で書状が建康に出せ無く為ったので、東魏からの使者を装った、次の様な書状を建康に送り届けた。

「貞陽侯(蕭淵明)の身柄を返還するので、侯景の身柄を此方に引き渡して欲しい」

 其の場で建康は即座にこの返書を、偽の東魏の王偉の使者に渡した。


  - 貞陽旦至 侯景夕反 -


 「蕭淵明が朝に帰還すれば、侯景を夕までに其方に送る」、と即答したのだ。

 王偉は主君に決断を促す。

「此のまま梁主(簫衍)の言い成りでは死、為らば大事を起こして死した方が宜しいかと」

 怒りに震えるこの梟雄は、次の様に言って、梁への反乱を決意した。

「あのじじいめ。目にものを見せてくれる!」

 後世に伝わる「侯景の乱」は、こうして太清二年八月、陰暦なので秋初めに始まった。

 其の数、僅か千名であった。


 挙兵の檄文には、「君側の奸の朱异を除く」、と発し、梁帝室に恨みを持つ蕭正徳と密約を交わした。

 「兵は拙速を尊ぶ」、と王偉は一気に建康を突く事を進言する。

 侯景は周辺の梁軍を打ち破るよりも、是を採択して、「狩りに出かける」、と称して全軍を建康へと出撃させた。

 蕭正徳の用意した大船団に因り、侯景軍はあっさりと天然の要害である長江を渡る。

 兵数は寿春近辺の流民を味方に付けていたので、八千と兵数が増えている。


 簫衍の治世は、一言で表すなら、「温容な徳治」だ。

 例えば、減税に努め、寒門出身者でも能力が有れば、積極的に高官に登用した。朱异や陳慶之などは寒門の出身である。

 だが、反面、慈悲の心が強すぎた。蕭正徳の様な人物を罰せず放置し、敗れた侯景にも何ら罰を与えず、自身が信頼する朱异の言い成りと為り、今度は侯景へ北を返そうとしている。

 下に居る者からすると、支離滅裂であろう。何を犯しても罰せられないのだから、簫衍の治世は時が経つに連れ、貴族や官僚が腐敗して行き、其の皺寄せは、庶民の大量の流民や奴僕の発生と為った。


 長江を渡った侯景軍は、こうして流民を加え、寺院や貴族の荘園を襲い奴僕を付き従え、建康に迫る頃には、十万にも膨れ上がっていた。

 こうして建康は、曾て簫衍が簫宝巻を討つ為に攻囲した時以来、半世紀近く無かった戦火に見舞われる。


 建康の防衛を担当するのは、皇太子の蕭綱で、其れを補佐する形で、事実上の指揮は羊侃(ようがん)(495年生まれ、字は祖忻(そきん))が執った。

 この羊侃は北朝からの亡命者で、一族郎党を連れ梁へと、528年に帰参した。

 漢族でる彼は、梁朝こそ真の王朝と見做していたのだ。

 建康攻防戦は、共に北朝からの亡命者同士を指揮官した戦いとして始まった。


其之弐へ続く

 南北朝時代、と聞いて、「えっ、北条時行きゅん!」、と思った方すみません。

 でも、時行と共に戦った北畠顕家が「陵王(蘭陵王(らんりょうおう)入陣曲)」を後醍醐天皇の御前で舞った、という逸話があるので、無関係ではないですね。(苦しい)


 ※蘭陵王とは、今回メインとして出ている高澄の第四子(三子とも)で、イケメン武将として有名な高長恭(こうちょうきょう)のことです。

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