引退試合
工藤慎也が通う赤穂第三中学校サッカー部は万年弱小ながらも、夏の区大会リーグ戦を勝ち抜き、トーナメント戦に出場することになった。このトーナメントは負ければ3年生が引退するという言わば3年生最後の夏大会というものだ。
赤穂第三サッカー部は、3年生が7人、2年生が4人、1年生が8人という総勢19人の弱小サッカー部。毎年学年だけで11人ということはなく、3年生と2年生の合同チームで大会に出場する。赤穂第三中があるのは、都心からは少し外れているが、人口は多くサッカーも人気の高い地域である。
サッカーが盛んな地域なのになぜこれほど部員が少ないかというと、サッカーが盛んな故に上手い人たちは、みんなクラブチームに所属しサッカーをしているからである。
しかし、今年の赤穂第三サッカー部は一味違っていた、昨年クラブチームでレギュラーになれず赤穂サッカー部に入ってきた3年の菊池琢磨がいるからだ。菊池先輩はミッドフィルダー(MF)というチームの要となるポジションでプレーしていた。一人でボールを前線まで押し上げ、自らゴールを決めるというのも少なくなかった。敵チームの選手が琢磨のドリブルを止めようとするがそれを華麗にかわすというのは見てて気持ちがいいものだった。
工藤慎也は中学二年生ながら周りより一回り大きい体格をしており、その体が大きいという安易な理由と、慎也以外は全員二年も三年も小柄だったために、デフェンスの要センターバック(CB)を任されていた。
センターバックからは菊池先輩のプレーがよく見えた。ぐんぐんと小さくなる体が慎也には大きく見えていた。
大会初戦の1週間前。学校終わりの放課後、水曜日を除く週に四日。3時30分から行われる練習をこなした慎也たちに、授業では社会を教えるサッカー部顧問武井先生は僕たちを呼んだ。各々にサッカーボールを抱えて校庭の隅にある石段に集まってくる。石段の二段目に腰掛ける田崎先生を見上げるように、慎也たちは、昨晩の雨で少し濡れている校庭に体育座りをした。
「次の日曜日の初戦の場所は、上霜中学校に決まった」
試合会場を告げる監督を慎也たちはじっと見つめた。ピリッとした空気の中、武井先生は続けて話した。
「対戦相手は比嘉二中。春の大会で区3位のチームで都大会に出場しているチームだ」
武井先生をじっと見つめていた視線が徐々に下がっていく。
比嘉第二中。区内でも有数の強豪校で引退後、強豪サッカー部がある高校にトライアウトを受ける生徒が多いと有名な学校だった。みんなの気落ちしていくような雰囲気が肌に伝わってきた。
しかし、顧問の目を単に見続けていたキャプテン田崎が立ち上がり激励の声をかけた。
「確かに比嘉二中は強いチームだけどさ、トーナメント勝ち進んでいったらどっちにしろ当たるんだから、あとは精一杯残りの1週間練習して、相手を倒すだけだよ」
気の弱い田崎先輩らしい激励だった。ポケットの付いていないハーフパンツのポケットを探すようにモジモジと話す田崎キャプテンの言葉で、みんな気合が入ったようだった。確かにどちらにしろトーナメントで当たるなら、一回戦で当たっても決勝戦で当たっても関係ない。僕たちは弱小ながらに強気だった。やってやるぞという気持ちを持ってその日はいつもより練習時間を1時間オーバーし走り込みをした。
大会までの時間はあっという間だった。対戦相手発表からの1週間は、みんな練習に一層力が入っていた。技術がない慎也たちは声がけを常に心がけ高いモチベーションを保っていた。走り込みのさいの「1、2、1、2」という声がけ、それをバカにしたように「なにあれー」と見ている女子生徒も気にならないほどに慎也たちは集中していた。
夏大会といっても全国大会が夏に行われるため、その予選の予選の区予選は5月の終わりに行われた。夏の暑さはないものの梅雨という最悪のコンディションの中練習は行われていた。芝ではなく砂の校庭は、足を取り、ボールの動きを不規則にした。雨の日の校庭練習は禁止されているため、普段なら雨の日は屋内で階段ダッシュや筋トレをするものの、みなが顧問に無理を言い、校庭での練習を願い込んだ。わかったと、武井先生はさらに偉い先生に無理を言ってもらい、慎也たちは雨の降る校庭でポジション連携やボール回しなどを確認した。
雨の冷たさなど御構い無しに、僕たちは汗を流し続けた。汗を流した分だけボールを強くけれると、0,1 秒でも早く走れると、サッカーが上手くなると信じて、泥まみれの練習着をぶつけ合った。
大会前日の土曜日、普段なら昼すぎの1時から日が暮れかかるまでの5時間ほど練習をするところをその日は、軽い走り込みとストレッチだけというメニューで終わらせた。試合前はこうして体を休め大会当日の体調を調整するためである。
大会前の最後のミーティングが行われた。校庭の隅の石段で明日のスターティングメンバーが発表される。慎也たちは、発表など聞かなくても自分がどこのポジションにつき、どのような動きをするのわかっていた。一年間同じメンバーで同じことをしてきたのだから。
武井先生が一枚の紙を手に取る。一年間使っている紙はクシャクシャになっていた。武井先生も紙を見なくても誰がどのポゾションなのかわかっているはずだ。しかし入念に紙に目をやる。そしてゆっくりと口を開く。
「ゴールキーパー 桐原」
三年の桐原先輩が大きな声で「はいっ!」。ゴールキーパーのグローブをパンッと一回叩き「頑張ります」と続ける。
「センターバック 新垣 工藤」
慎也と新垣先輩は口を揃えて返事をした。次々と名前が呼ばれていく。
「・・・センターフォワード 町田」
同学年の町田が最後に名前を呼ばれた。町田は158センチと小柄ながらも足の速さ俊敏さで前へ出る力とやる気を買われ攻めの要とされている。
スタメンの名前を読み上げると武井先生は立ち上がり意気揚々と喋り始めた。
「明日の天気は雨のようだ。多分ピッチの状態は悪くなるだろうが、これはチャンスだな。相手のミスに漬け込んで行こう」
雨の日は赤穂中にとってはチャンスだった。グラウンドがぬかるみミスが増えるからだ。相手がミスしたらすかさずボールを奪い攻め立てる。それが赤穂三中サッカー。汚いと言われてもいい慎也はただ勝ちが欲しかった。そして三年生ともっとサッカーをしたかった。
武井先生が「田崎!」といい田崎先輩が立ち上がる。キャプテンが前に出る。ふーと息を吐く。
「えーと、明日の試合が最後にならないように全力を尽くしましょう」
やっぱり、弱々しいキャプテンの言葉だった。武井先生が田崎先輩の目をじっと見て言葉を放った。
「なんだそれだけか」
田崎先輩は二回瞬きをして弧を描くように座っている慎也たちを見渡し、もう一度ふーと息を吐く。
「もっとこのチームでサッカーがしたいです」
素直な言葉だった。みんなが田崎先輩を見て頷く。みんなが同じ意識だった。一年間かけてゆっくり出来上がったチーム何としてもみんなでもっとサッカーをしたい。全員が同じ考えだった。もう一度、息を大きく吸い込んだ田崎先輩は足を少し広げて言葉を吐いた。
「絶対勝つ」
今までの本当に勝てるのか、というみんなの思いは吹き飛ぶようだった。勝てる。そう感じた瞬間だった。いよいよだった。いよいよ最後の大会が始まろうとしていた。
大会当日、僕たちにとってはあいにくの晴天だった。空が透き通るように青く雲がない最悪の天気だった。
午前9時サッカー部の面々は一度赤穂中に集まり、全員で最寄駅から4つ先の駅にある比嘉中に向かう。予定より15分早く慎也が赤穂中に着いた時すでに町田の姿があった。町田はいつもミーティングの時に使う石段に、一人壁あてをしていた。慎也の存在に気づくと、町田はサッカーボールを慎也に蹴ってきた。
「おはよー。昨日9時ごろ寝ちゃってさ早く起きたら、なんかそわそわしちゃって1時間前も早く来ちゃったよ」
やっぱり町田も緊張しているんだ。一年の時は二つ上の先輩の引退試合なんて、そんなに重く考えなかった。しかし一年間一緒にやってきた一つ上の先輩の引退試合はまるで負けたら自分が引退するみたいで緊張してしまう。
「そんな早くから来てたんだ。俺も7時くらいに起きたから早く来て一緒にボール蹴ればよかったよ」
町田から蹴り渡されたボールをしっかりと足元でトラップして町田にボールを蹴り返す。五分もしないうちに先輩たち五人が一同に現れた。
みんな緊張しているのか、強張った表情だ。町田がおはようと声をかける。続いて慎也がおはようというと先輩たちもおはようと返してきた。
慎也たちにとっては、一つの年の差なんて関係なかった。先輩を付けたり君付けだったりはあるものの基本的にはタメ口でオッケーだった。代々、先輩、後輩関係なくタメ語というのは赤穂三中サッカー部の唯一の伝統でもあった。ただでさえ少ない部員なので上下関係がないチームだったし、それが赤穂中の良いところでもあった。
午前9時になり菊池先輩と桐原先輩を除いた17人が揃っていた。校舎から武井先生が出てくる。部員一同が声を揃えて挨拶をする。
「おはようございまーす!」
武井先生が右手を上げ軽く挨拶をする。
「おはよう。全員揃ってるか?」
田崎先輩が桐原先輩と菊池先輩がまだ来ていないことを告げる。
「何やってんだあいつら。まあまだ時間あるから、もうちょっと待つか」
キックオフは11時30分。ここから上霜中まで30分、試合の準備をするのに20分、準備運動に30分ほどなので時間にはまだ余裕があった。30分くらいは待てたが、そんな心配をよそに桐原先輩と菊池先輩が走って校庭に入ってきた。
「遅い!」
武井先生にガツっと言われ、反射的に「すいません!」と声を揃える二人。クラブチームで練習をしていた為か、ガツンと怒られるのに慣れていなかった菊池先輩も、この半年で反射的に謝る姿が様担ってきた。
「よし。じゃあ行くか!」
武井先生が声をあげ立ち上がり、歩き出した。斜めがけのエナメルバックを掲げて慎也たちは後に続いた。
駅に着くと、他の中学のサッカー部たちも一同に上霜宙に向かって歩いていた。その中には比嘉二中の姿もあった。40人以上入るだろうか、みんながみんん赤穂二中より一回りほど大きい。隣を歩いている町田がゴクッと唾を飲み込むのがわかった。慎也は町田の肩に手を置いた。
「大丈夫だって。町田もこれからでかくなるんだから」
そう笑いかけると町田は硬い表情で答えた。
「わかってるよ。あいつらより更に一回り大きくなるから大丈夫」
中学生にとって一番の武器になる身長差で負けている慎也たちは少し弱々しい気持ちで上霜中の正門を抜けた。
すでに校庭では第一試合が行われていた。どちらのチームも負けたら三年生が引退という緊張感の中プレーしている。慎也たちにも、その緊張感が伝わってきていた。これから慎也たちも同じ条件で試合をする。負ければ終わり。引退となる。
先に入っていたチームが校庭の前で一列に並び声を張り上げる。
『よろしくお願いします!』
40人ほどの人数だったがそれほど大きな声は出ていなかった。前のチームが列を崩し指定された、校庭の隅の準備場所に向かった。代わりに赤穂三中一同が校庭の前に一列に並んだ。エナメルバックを地面に置き。キャプテンが声を張り上げ校庭に向かって叫ぶ。
「よろしくお願いします!」
後に続き赤穂三中一同が叫ぶ。
『よろしくお願いします!』
多分どのチームよりも声が出ていたと思う。前でゴールを守っている試合中のゴールキーパーも一瞬だがこちらに目をやった。気持ちで負けていたら絶対に負ける。19人の小さな体で精一杯の大きな声を出し、慎也たちは指定された準備場所に向かった。
慎也たちは校庭の隅で、全身青に三年生は赤いライン二年生は緑のラインが入ったジャージを脱ぎ、昨年新しくなった真っ赤なユニフォームに着替えた。慎也たちは赤いユニフォームを気に入っていた。赤からは情熱や、やる気、根性が連想されるからなのか自分たちにピッタリなユニフォームだと思っていた。
赤いユニフォームに腕を通し、白いハーフパンツに履き替え、トレーニングシューズからサッカー専用のスパイクを履く。紐をきつくきつく結び軽く太ももを交互に上げる。
「アップー!」
田崎先輩が声をあげると各々二人一組を作り、ボールタッチの準備運動を開始する。慎也は田町とペアを組みボールを投げては胸元に返してもらいそれを10回ずつ交互に繰り返す。インサイド、インフロント、太もも、ヘディング、様々なところで相手にパスを返す。その後にダッシュと走り込みをして、武井先生からの集合の合図で選手登録に向かう。
上霜中の校舎入り口に設置された簡易式大会委員会の受付場に、赤穂三中のスタメン11人と比嘉中のスタメン11人が横一列に並ぶ。横に並ぶと余計にわかる圧倒的な体格の差だった。大樹と木の芽、リスや猫のような小動物とライオンや象。まるで勝者と敗者のようだった。
「なんか敵チーム小さくね?」
誰が言ったのかはわからなかったが慎也には聞こえていた。他のメンバーの耳にも入っただろうか。赤穂三中を馬鹿にするように発せられた比嘉中の声は、慎也の弱気な部分を確実に煽っていた。
すね当ての確認、スパイクの確認、名前と背番号の確認を済ませた慎也たちは一度準備場所に戻り、前の試合が終わるのを待った。
ピッピッピーっとホイッスルが吹かれた。試合終了とともに歓声が響いた。中学サッカーは前半25分後半25分の計50分行われる。校庭に目をやれば勝ったチーム、負けたチームが一目でわかる。笑っているチームは足早に校庭の中央に整列する。泣いているチームは仲間同士で支えあい中央に整列する。主審の「お互いに礼」という声でお辞儀をしあう。泣いているチームはどれほど屈辱なのだろうか。互いに相手チームのベンチに駆け寄り礼をする。そして試合を見に来ている親御さんたちにも挨拶をする。負けたチームの三年生は、これで引退になる。たかだか50分の試合ですべてが決まる。
慎也たちは空いたベンチに向かう。武井先生がベンチに座り、その前に弧を描くように体育座りをする。慎也と新垣先輩の名が呼ばれた。
「多分比嘉中は開始早々に攻め込んでくると思う。センターバックの二人が、距離感を保って守備を固めないと、すぐ点決められるぞ」
はいっと声をあげる。声をあげた瞬間、菊池先輩が慎也の方に目をやった。慎也にはなぜ菊池先輩が自分のことを見たのかすぐに理解できた。慎也の出した声は、いつもより少しだけ小さかった。
ピーっとホイッスルが吹かれた。
「よしっ!行って来い!」
はいっと僕たちは一斉に立ち上がり校庭の中央に整列した。壁を目の前にして慎也たちはよろしくお願いしますと、目の前の選手と握手を交わした。
田崎先輩が比嘉中のキャプテンとジャンケンをしコイントスの表を選んだ。審判が親指でパシンっとコインを弾き、それと同時にコインは空に向かって上がっていった。くるくると回りながら20センチほど上がると踵を返すように下に落ちてきて審判の右手の甲と左手の手のひらの間に収まった。審判の左手が離れると同時に比嘉中のキャプテンがマイボールを宣言した。慎也たちは振り返りポジションについた。
「慎也もうちょい開いてー。徹はもっと高いとこに」
新垣先輩が慎也とサイドバック(SB)の高木徹先輩に指示を出す。再度ポジションを確認して声出しをする。これが慎也の一番の役目だった。
「赤中ー!声出して!」
センターバックの慎也が声を出す。ゴールキーパーの桐原先輩、バックの新垣先輩、サイドバックの徹先輩、柏木先輩、ミッドフィルダーの菊地先輩、安井、ハーフの楠木君、成瀬、トップの町田、井上君がそれに反応して揃えて声を出す。
ピーっと長いホイッスルが吹かれ、試合が始まった。キックオフと同時に比嘉中は脇目も振らず一心に赤穂三中ゴールに向かってきた。10の背番号を背負った選手が中央からゴールに向かい一直線に向かってきた。中学生ながら優に170センチを超えている10番は慎也にとって脅威でしかなかった。しかし、単調に前に進んでくる選手からミッドフィルダーの菊池先輩はすんなりとボールを奪い取った。奪い取ったボールをドリブルで前線まで運ぼうとするが、比嘉中サッカー部はそんなに柔くはなかった。センターラインを超え、サイドハーフの成瀬に通そうとしたパスはすぐに比嘉中のサイドハーフにカットされてしまった。敵サイドハーフから再度10番の選手にパスが回った。10番はまたも一心不乱に赤中ゴールに向かって走ってきた。10番に対し新垣先輩が走っていき、体をぶつける。しかし気づくとボールと10番の体はすでに新垣先輩を抜き去り慎也の前にいた。慎也はペナルティーアークの中にいた。すでに比嘉中のサイドハーフが上がってきていてサイドバックの徹先輩はその選手にマークに入っている。慎也が10番に抜かれれば必然的にゴールキーパーと一対一になってしまう。慎也はボールだけを見つめた。そして心の中で呟いた。
『抜かれたら点が入る。抜かれたら負ける。』
しかし慎也の思いとは裏腹に、10番は慎也の目の前で思い切り右足を振り上げた。
『ディフェンスも気にせずシュートを打ってくる・・・』
そう思った慎也は、反射的に体を反転させボールの進行方向から体を反らせた。体を反らせた一瞬の間に10番は慎也の横をするりと抜けていった。
上霜中の校庭にピーっとホイッスルの音が響いた。試合開始二分も経っていなかった。比嘉中のイエーイという声が聞こえてきた。それをかき消すように新垣先輩が声をあげた。
「赤中ー!声出して!」
みんなの声が聞こえた。慎也だけはそれに反応できずにいた。赤中ボールからリスタートした試合だったが、ボールがハーフラインより前に行くことはなかった。一度下げたボールは中盤で敵チームに奪われる。そしてまた慎也の方へ向かってくる。慎也は新垣先輩と共に必死にゴールを守った。しかし次のホイッスルが聞こえるまでにそれほど時間はかからなかった。前半の10分が経ち二点目を入れられた。一点目と同じように新垣先輩が体を当て抜かれた後、すんなりと慎也が抜かれてしまったのだ。二点目が入ってから敵チームの動きはガラリと変わった。全ての攻めが若干コート右寄りになったのだ。右センターバックを守っている慎也に比嘉中の選手は臆することなく、むしろここぞとばかりに突っ込んできた。三点目、四点目と入り、前半終了のホイッスルが鳴った。
ホイッスルと同時に武井先生が待つベンチにみんな走って行った。慎也は遅れてベンチに駆け寄った。一年に水筒とタオルを渡される。ベンチの前に弧を描いて腰掛ける。
「まだ大丈夫だ。取り返せる。フォワードを三枚にするから、菊池ミッドフィルダーからフォワードに上がれ」
菊池先輩は粉末を水で溶かしたポカリスエットを飲みながら答えた。
「センターバック変えてください」
その一言で空気が澱んだ。菊池先輩は誰とは言わなかった。武井先生が菊池先輩を見つめ、いいやと口を開く。
「ポジションは俺が決める。お前らは自分の仕事をしろ」
慎也にはもう自分の仕事がわからなかった。すでに慎也の心はポッキリと折れてしまっていた。
「いいか。諦めるなよ。まだ四点差だ。こっからだ、行ってこい」
言われるがまま慎也たちはホイッスルが鳴る前に、各々ポジションについた。新垣先輩が声を張り上げる。しかしガラガラの声はもうフォワードまで届かなかった。
後半のホイッスル直前に比嘉中がコートインしてきた。その光景はもう俯くしかなかった。予選の予選の区予選では交代が自由なのだ。何人でも交代できる。前半より一回り小さくなっているメンバーが赤穂中の心をえぐった。
マイボールで始まった後半、熱くなった菊池先輩は誰かにパスを出すこともなくなっていた。一回り小さくなった選手を一人でどんどん抜いていく、その姿は徐々に小さくなり、ホイッスルが吹かれた。赤穂中に一瞬光が差し込んだ。
後半開始1分比嘉中ボールでリスタートした。比嘉中は前半と変わらず慎也めがけて突っ込んできた。しかし慎也にとって同じくらいの身長の22番など恐れるに足らないものだった。体をバシッと一回ぶつけ、ボールを奪う。すぐに前を向きハーフラインの前で待つ菊池先輩にロングパスを出す。そのボールを綺麗に胸トラップするとまたも一人で敵ゴールへ向かっていった。後半二度目のホイッスルが鳴る。新垣先輩が精一杯の力を振り絞り声を出す。
「赤中ー!声出して!」
それに対して皆が声をあげる。再度的チームからリスタートするとまたもガラッと動きが変わった。パスを多く回すようになり、何としても赤穂中ボールにしないようにしてきた。5分ほどボールを回されると敵チームの監督が大きい声で叫んだ。
「出せー!」
比嘉中のサイドバックはせっかく繋げていたボールを大きくフィールド外に蹴り出した。
慎也たちは気づいていた。比嘉中の狙いに別に汚いとは思わなかった。予選の大会では交代が自由にできる。一度アウトした選手でも、もう一度コートに戻すことも。審判が試合を止めると、一回り小さい選手がゾロゾロとコートの外に出て行く。代わりに10人の選手たちがコートの中に入ってきた。
赤穂中ボールのスローインから試合は再開された。赤穂中のボールはすぐに奪われ、またも慎也に向かって敵が攻めこんでくる。慎也は必死に守ろうとしたが、後半三度目のホイッスルは赤穂中のため息に変わった。
立て続けにもう一点決められると、空からぽつぽつと雨粒が降ってきた。雨は次第に強くなりものの5分で豪雨となった。慎也はもうあと何分で試合が終わるかしか考えられなくなっていた。雨でコンディションが悪くなっても比嘉中は攻め込んできた、むしろ赤穂中の方が足を取られプレーが悪くなったほどだった。
足元が悪い中、慎也の目の前で振り上げられた右足はもうキックフェイントをすることもなく、そのままシュートを打ってきた。ボールは慎也の体にあたり跳ね返った。跳ね返ったボールは弾むことなく、その場に出来た水溜りに落ちた。スパイクをよごしたくない比嘉中の10番が水溜りに入るのを嫌がった。
新垣先輩が大きくそのボールを蹴り上げる。そして慎也を見るなり怒鳴り散らした。
「声出せよ!」
ガラガラ声の怒りで、慎也は声を張り上げた。前半に一度声かけをしただけでこの試合二度目の声かけだった。慎也は自分の仕事を思い出すように声を張り上げた。
「赤中ー!声出して!」
しかし、慎也の声は雨空の中に消えていった。もう慎也の声に反応するものはいなくなっていた。
試合終了間際、10番が最後の仕掛けをしてきた。慎也と一対一になる。慎也は10番に道を譲るように体を仰け反らせた。それに対し10番はあざ笑うように初めて他の選手にパスを出した。そのパスを見事に決められ。試合終了のホイッスルは吹かれた。
8対2圧倒的に差をつけられ赤穂三中は比嘉中に敗北した。主審の「整列」という掛け声とともに両チームの選手がコート中央に集まる。整列した時、田崎先輩と新垣先輩はすでに泣いていた。雨が降っていても泣いているのがわかった。それは雨音なんかでは消えなかった。
「お互いに礼」という声で一斉に「ありがとうございました」と声が響いた。みんな顔を伏せ走った。目を真っ赤にし雨の中、ベンチに向かい走っていた。
そのとき、一番後ろを一人歩いていた菊池先輩が大きく怒号した。歓声にも雨音にも負けない大きな声。三年間すべてを込めた声。消えるはずがない声。雨音に負けるはずがない声。一生消えることのない声。
それから一年がたった。168センチしかなかった慎也の身長は、三年生になり178まであと0,5というところまで迫っていた。
五月の半ばのリーグ戦。負ければ引退という試合だった。慎也は178の高身長でフォワードをしていた。慎也はもう声を出すことはなくなっていた。ボールが来たら前に運んでシュートを打つという単調なプレーをしていた。
試合開始から、早く終わらないかな、という気持ちでコートに立っていると、50分はあっという間に過ぎていった。2対0で負け、慎也は5月の半ばという早い時期に引退が決まった。
試合が終わっても両チーム泣いている人はいなかった。はたから見たらどっちが勝ったかわからないだろう。
試合終わりにディフェンスを務めた二年生から声をかけられた。
「工藤先輩。ゴール守りきれなくてすいませんでした。引退しても、たまに顔出しに来てください」
慎也はボソッと呟いた。
「お前のせいで負けたんだよ」