ころぶ
「……でね、葦取池まで行ったのに何もなかったのよ。まぁ、何か出ても怖いけど。夜合宿抜け出してまで行ったのに~って感じはあるけど……って、聞いてる?」
「聞いてるよ。でもさ、小さい頃にも行ったことあるんでしょ?そんな楽しい?心霊スポット巡り」
「あんたはその手の話苦手だからね~。夏!夜!男女仲間!この条件が揃ったら、そりゃ起こるイベントは限られるわよ」
「……心霊系はイタズラで行かない方がいいよ」
「大丈夫だって。お化けなんてないさ~♪ってね。うわっ!?」
「わっ、大丈夫?」
「うん。へーきへーき。いつものことだから」
「池で、転ばなかった?あそこ、足場悪かったよね」
「え?あぁ、ちょっと転びそうになったけど、そのお陰で今の彼氏クンをゲットできました~」
「うわ、また男変えたの」
「いや~。転ぶのも、たまには悪くないもんですなぁ」
「笑い事じゃないでしょ」
私の友人はよく転ぶ。
階段や小さな段差ではもちろん、走ろうものなら絶対に一度は転倒する。歩いているだけでもよく蹴躓く。
彼女はその理由を知らないけれど、私は知っている。
――彼女の足には、いつも黒い『手』がまとわり付いている。
それは一本の時もあれば十数本のこともある。手首から先がどうなっているのかは、知らない。ただ、腕が続いていることは知っている。影の中、そこにきっと腕の主が存在する。しかし、その先に何があるのか見ようとすると、とてつもなく嫌な感じがしてやめてしまう。
友人ならば教えるべきだろうか。彼女を怖がらせるようなことは言わない方がいいのだろうか。いや、彼女は幽霊や妖怪なんて信じないだろう。そもそも幽霊か何かも分からないものを、見えない人は信じない。
私には小さい頃からそういうものが見えていた。悪意あるそれらは黒く、およそまともな生き物には見えなかったから幼いながらに恐怖を覚えた。
そういうものには関わらない方がいいと、多くの場合距離をとってきたのだが。
いつからだろうか。友人の足に黒い手が見え始めたのは。
気がついたらそこにいた。
そういう場合が多かった。奴らは日常に潜み、こちらを観察し、さも当然のような顔をして出てくる。
例えばベッドの周り。
多くの場合ベッドの下の狭い隙間に潜んでいるが、夜中になると出てくる。ベッドの周りをぐるぐると歩き回り(足のない奴らもいるので、この表現が適切かは分からないが)、酷いときは体の上に乗ってくる。
何をしてくるでもなく、ただじっとこちらを見つめてくる。その場合、形容しがたい悪寒が体中を駆け抜ける。危害を加えられることは少ないが、頭痛や吐き気を覚える。
次に多いのは水場。
風呂場では勝手にシャワーを使うし、髪の毛を残していく奴なんかは最悪。水道代と掃除の労力、風呂場を使っていくならそれらをどうにかしてほしい。
雨の日は夜が危ない。特に、人通りの少ない住宅街。後ろから水の跳ねる音がしたら、振り向いては行けない。大きいのや小さいのが、家の中にまで付いてくる。
プールや海の中には細長い紐のような腕が揺蕩っている。それらに絡め取られると、排水溝や水の底へ引っ張られる。ある程度の力で引っ張り返せば手を離すが、捕まれたことに気づかず水に潜れば、二度と浮き上がっては来れない。
心霊スポットには、沢山いる。
だから私は、そういう場所に行きたくない。昔、うちの近所にそういう場所があった。葦取池。どことなくじめじめしていて、地面がぬかるんだ場所。危険だから子供だけで行ってはいけないと言われていた場所。あそこの近くには、半透明のものが沢山いた。きっとどこも同じようなものだろう。
他にも狭いエレベーターの中や夜の学校にも、とろけ出すように奴らは現れる。危害を加えてくる奴も、そうでない奴も、気味が悪いし気持ち悪い。
私の友人は、自分が足を捕まれていることに気づいていない。
奴らが彼女の足を掴む理由は何なのだろう。
彼女の影のようにまとわり憑き、転倒させる意義はあるのだろうか。
彼女を殺したいのだろうか。
何故?
「あ……」
私の目の前で、彼女が転んだ。
「もー、何やってんの」
そう声をかけようと口を開いた時だった。
ド、ガシャァ……
「え、」
彼女の体が、トラックと壁の間でペチャンコになった。
彼女の足には黒い腕が幾本も絡まりついている。
そして、その腕の先が、漸く見えた。
真っ黒な、猿のように座り込む生き物。体毛よろしく大小様々な長い腕がうねっている。
――あれが、友人にまとわり付いていたモノの正体。
そいつが笑ったような気がした。
じっとりと、気味の悪い湿度が肌をなぜるような感覚。あれは、何なのだろう。
周囲で叫び声や怒鳴り声が聞こえる。
まばたきをした瞬間、そいつはどこかへ消えた。
「葦取池に行ったからよ」
――葦取池は、足取池。足を踏み入れれば、池の奥底まで引っ張られる。地元では有名な自殺スポット。昔から身を投げる人が多かったそうだ。
「でも、昔からあいつよく転んでたじゃん」
「それはほら、彼女小さい頃あの池の近くに住んでたっていうし」
私の友人の足に黒い手が見え始めたのは、いつからだっただろう。確か、小学校の頃――。
『ねー、一緒にいこうよ~』
『ヤだよ、怖いもん』
『絶対楽しいよ~。神様のお池』
『行かないったら、行かない』
私は葬儀のために、彼女の実家に足を運んだ。葦取池の近くにある、山間の村。
彼女の棺の足元辺りから、黒い紐が伸びている。それは一本ではなく、長く長く、庭の先に続いている。
きっと、彼女の足を掴んでいた手だ。
リン、リンと鈴の音が響く。
彼女の入った棺が、池に運ばれていく。まるで、棺から伸びる紐を辿っていくかのように、いや、紐に引かれるようにして、進んでいる。
『絶対楽しいよ~。神様のお池』
『葦取池に行ったからよ』
この村では、遺体を池に放ることになっているのだそうだ。
村の神様のもとへ運ぶために。
あんな猿のような化け物が、この村の神様なのだろうか。笑ってしまう。きっと禍神だ。
棺が池に沈められるとき、沼から沢山の黒い腕が伸びていた。
まるで棺を待っていたように、花開くように迎え入れる。
あの猿のような黒い化け物がこちらを見て、がっぱりと口を開けて笑っている。生け贄を欲する欲深な神様。
「昔はねぇ、若い人が沢山あの池で死んだものです。神様が怒っていると、当時はお供えをしておりましたが……近年ではお供えをする者はおらず、また、村の人口が減るにつれて池へ足を運ぶ者は少なくなりました。もしかしたら神様が、あの子を連れて行ったのかもしれません。小さい頃はよく池の方へ遊びに行っていた子でしたから」
「そんな非科学的な……大体、事故があったのはここから離れた町ですよ」
「きっと、アシトリサマに気に入られたんだよ。だからほら、最後にはこの村に戻ってきてアシトリサマに身を捧げた」
「あの人の言うことは聞かない方がいい。耄碌して頭がイカれてるんだ、きっと」
「……」
私には見えている。見えてしまっている。
きっと他の人には見えていない、“アシトリサマ”という化物が。
彼女の葬儀から数日。
私はよく転ぶようになった。階段や小さな段差ではもちろん、走ろうものなら絶対に一度は転倒する。歩いているだけでもよく蹴躓く。
誰もその原因を知らないが、私は知っている。
私の影から伸びてくる、無数の黒く細い腕。
――私の足には、黒い手が、絡み付いている