にんぎょひめ
「私、本当は人魚姫なの」
「何言ってんの。あんた、ちゃんと喋れんじゃん」
私のツッコミに、渚はふわりと笑う。
「それはそうよ。お姉さまの失敗を繰り返すわけないわ。交換条件はほかのものにしてもらったの」
それは彼女の口癖だった。
子供の頃から、学校も幼稚園からずっと一緒の幼馴染。渚は昔からとても美しい少女だった。
ウェーブのかかった長い髪は細く、光にあたると海の泡のように見える。
零れ落ちそうな大きな瞳に低い鼻。したったらずなしゃべり方。
彼女は教室でいつも複数の男子に囲まれ、『人魚姫』として扱われていた。
普通ならそんな様子なら女子からはイタイ子扱いされてハブられそうな気もするが、ふわふわと浮世離れした雰囲気を持つ彼女には『人魚姫』を自称していても妙な説得力があって、意外と違和感なく受け止められていた。
ちょっぴり頭の弱い子扱いされていたのは事実だが。
「私、本当は人魚姫なの」
「何言ってんの。あんた、カナヅチじゃん」
「それはそうよ。せっかく人間になったんだもの、もう泳ぎたくなんかないわ」
彼女は実際泳げなかったし、運動もろくにできなかった。あまり体が丈夫ではないらしい。
水泳の授業のときはいつもプールの隅で見学していた。
当人があまりにも儚げなせいか、彼女の取り巻き達はいつの間にか勝手に不可侵条約を結び、親衛隊を自称していた。
そして何を血迷ったのか、いつも渚のそばにいる私を勝手に親衛隊長に祭り上げていた。人魚姫を守る女騎士、という役どころらしい。
確かに絵にかいたような華奢な女の子といった様子の渚に対し、私は勉強よりスポーツが得意でいかにも健康的だ。一種病的に色白な渚に対し、私はいつも日焼けしてるし、地黒なことを正直ちょっぴり気にしてもいる。ショートヘアーでボーイッシュな見た目だけれど逞しい、とまではいかないと信じている。もらうラブレターも女子からばかりで男子からはからきしといったところ。人魚姫の引き立て役にはぴったりだったかもしれない。
お飾りとはいえ一応隊長としての威厳は与えられていた。渚に関することはフォークダンスのペアから学芸会のお相手役まで私にお伺いが立てられていた。クラス中で面白がっていたとしか思えない。なぜなら学芸会で彼女がお姫様役を射止めたとき、王子様役はいつも満場一致で私だったのだから。
「私、本当は人魚姫なの」
「何言ってんの……そういや、なんであんた人間になったの?」
「それはもちろん、恋をしたからよ、人間に。でもいきなり海から現れたらこの時代の日本ではまともに生きられないわ。だから、人間として生まれてきたの。好きな人の、すぐそばにいるために」
渚は私の母の友人の娘で、同い年の私たちは幼いころから姉妹同然に育てられた。実際のところ彼女のほうが2か月ほど年上で、幼稚園の頃はお姉さん気取りでいろいろと面倒を見られていた気がする。
それがいつの間にか私のほうが彼女の保護者に祭り上げられていたけれど、よく考えると幼いころから徹底的に紳士的な態度を教え込まれてきた気がする。
女の子には親切に、荷物を持って、ドアを開けて、常にレディーファーストを心得て……といっても、私もレディーの端くれのはずなのだが。言葉遣いは丁寧に、というのは何となく反抗心が先に立ってすっかり口が悪くなってしまったけれど、反射的に女子に親切にしてしまうのは渚の刷り込みのせいだろう。
今男子より女子のほうにモテるのも、この英才教育のせいかもしれない。
「ねえ人魚姫、人間になるために声じゃなくていったい何を魔女に差し出したの?」
「足は痛いけれどちゃんと歩けるし、ゆっくりでないと難しいけれどちゃんと喋れるわ。
でも、本当に大切なことは言えないの。一番伝えたいことが伝えられないのよ。それが、魔法の代償」
渚は活発なほうではないし、口数も少ない。箸が転がるだけでおかしい年頃の私たちだけれど、彼女が何かに大笑いするのを見たことがないような気がする。
いつも口元押さえて、ふふふと上品に笑う。運動は苦手だけれど成績はよく、何かに驚いたり騒いだりする様子もない。
周りからはか弱い、守ってあげなければならない幼い少女のように扱われてはいるけれど、クラスで一番大人の振る舞いができるのは渚なのではないかとひそかに思っていたりする。
「恋がかなわないと、どうなっちゃうの?」
「それはもちろん、泡になって消えてしまうのよ」
当たり前のように彼女は言う。だって恋が叶わないまま生きるより、私が消えてしまうほうが楽じゃない。それまでの暮らしを捨てるほど好きになった人を、殺せるわけなんかないじゃない。
当たり前のことのように言う渚を見ていると、彼女の言うことが本当のように思えてくる。
去年の遠足で、水族館に行ったことを思い出す。
暗い館内で、おぼろに光る水槽の中の魚たちが、じっと彼女を見つめていたことを。
渚が歩みを進めるにつれて、魚たちはその場にとどまったまま、視線だけで彼女を追いかけていたことを。
水流に踊らされていたクラゲも、赤いライトを浴びる深海の魚も、一様に彼女に向かってその手を差し伸べていたことを。
そして、ゆっくりと水槽をなぞりながら進む彼女が、優雅な微笑みを浮かべていたことを。
他の誰も気づかなくても、私だけはそれを見ていた。
だって、私はずっと渚を見つめていたから。
「……ねえ渚、私はあんたのこと好きよ。ずっとあんたのそばにいると思うわ」
ずっと胸にしまっていた言葉を渚に伝える。ぶっきらぼうに聞こえるだろうが、本当の言葉を。
今この場で言わなければ、彼女は泡となって空気に溶けて消えてしまう。そんな空気が彼女にはある。
それが皆をひきつけるのだろうとしびれた頭で思う。
「ええ、知ってるわ。だから私、ここにいるのよ」
彼女は王族の微笑みを見せる。騎士の魂はいつも、姫君を守るためにある。